マルタンたちが乗る船から飛び立つと、ケルヴィムは警戒するように上空を回って飛んだ。
「何か見えてるの……?」
「ああ、おそらくあいつ、耳も目も良いんだろ」
アドラは後方へと視線を向けた。遥か彼方の方に、豆粒くらいにしか見えないが船と思しき影がある。
「なんも見えない……」
「あきらめな、マルはド近眼なんだから。あたしもぎりっぎり見えるくらいだし」
目の上に手をかざして、アドラはその豆粒くらいの船を見ようとする。
「だめだ、見えねえや。でも、まずいやつならケルヴィムさんがやってくれんだろ」
「やるって……また物騒な……」
そうこう言っている間に、船はどんどんエルディーテ港へ近づいていく。
ケルヴィムに教えてもらった図書館の場所は、湾口からまっすぐ丘を登った、都市を見下ろせる場所にあるようだ。丘の下には、白を基調とした石造りの建物がいくつも並んでいる。
「本当に白い建物が多いんだ、……ギリシャみたい」
勇がぽつりとつぶやく。
「ギリシャ?」
ヴィントが勇の顔を見上げた。
「うん、俺がいた異世界にあった国でね、夏は日差しが強い国だから白い建物にすることで高温になるのを防いでたんだって。行った事はないけど」
「へえ、おれが昔住んでいたところは……」
言いかけて、ヴィントは口を閉ざす。少し翳ったその表情を見て、勇は何も言えず、ヴィントの次の言葉か、それとも自然に会話が止むかを待った。
「イサミとマルタンは、聞かないの?」
ややあって、ヴィントがおずおずと口を開く。
「ん、言いたくないことだったら、聞かれたくないことだったら嫌かなって」
「聞きたくないことかもしれないって思って」
「ううん、俺はなんでも受け入れるよ」
覚悟はしてきているから、と言ってマルタンと顔を見合わせた勇の顔を見上げ、ヴィントは意を決したように話し始めた。
「おれの故郷は、アロガンツィアに攻め滅ぼされたんだ」
船の上での唐突な告白に、勇は言葉を失う。今まで明るく振舞っていたヴィントの故郷が、今は存在しない――。
「二年前の冬、おれが生まれ育った城は王国軍に攻め落とされた。あの図書館に比べたらほんとちっちゃい城だったけど、白くてきれいな城だよ」
マルタンは、覚えていた。
二年前に魔族の新聞で見たことと、先日クラウスと確認した歴史書の表記。
――A歴1000年、冬の月13日。小国フィデリアに叛意有、王国軍、勇者の協力を得て謀反の首謀者であるフィデリア国王と宰相を処刑、王妃、王女を収監、王子行方不明。
文字として思い出すだけでも辛い出来事が、この少年に降りかかっていたのか。
「なるほど、ヴィントは王子様だったの……」
「懐かしい呼び方だな、日焼けしちゃってるし、船の仕事を手伝ってたらあのころに比べたらちょっとたくましくなったから多分バレないんじゃないかなーと思うけど」
少し力なく笑ったヴィントの菫色の瞳が揺れた。見つかれば捕まってしまうだろう、と言ってため息をつく。
「天使の絵本も、きっと燃えて無くなっちゃったんだろうな」
「ヴィント……」
「母様も、姉様も……処刑されちゃったのかな」
マルタンは首を大きく横に振る。
「生きてる。絶対」
「え?」
「あの王国だもの、処刑したなら大きくそのことを記事で取り扱うよね」
勇がそう続けると、マルタンは頷いた。
権威主義のあの王国ならば、国に刃を向けたとする者たちを処刑する場合見せしめにするに違いない。その報が一切ない、ということはまだ王妃と王女が存命で、囚われの身であるという事だ。
「このことはみんな知ってるの?」
「ツァボライトさんとスピネルは知ってるけど……」
王国軍が攻めてきた際、姉は時間稼ぎに王国軍と対峙し、幼いヴィントに隠し通路へ行くよう指示した。ヴィントが城外へ逃げおおせて領内の森をさ迷っていたところ、騒ぎを知って駆け付けたツァボライトとスピネルに保護されたのだった。それで、行く当てもないし見つかるとフィデリア王族の王位継承者として処刑されることは目に見えていたので、海賊に身をやつして過ごしていたのだという。
「……ヴィントのお母様とお姉さまを人質にして、ヴィントが出てくるのを待っているのかな」
勇の憶測に、バハルは小さく呟いた。
「きたねえ事しやがる」
アドラはヴィントの肩を掴むと、その目をじっと見て言った。
「よく耐えたな。今はまだ出るときじゃねえかもしれないが、あんたが狙いなら王国は王妃も王女も手にかけることはしないだろう。言い方は悪いが、あんたを引きずり出すための囮のつもりだろうからな」
「うん」
「あたしたちも頑張るから……もう少し、辛抱できるか」
「うん。できるだけ、早くしてね」
ヴィントはいたずらっぽく笑ってそう返す。その顔が少し無理をしているように見えて、マルタンはぎゅうと唇を噛んだ。幼い子に、こんな顔をさせるなんて……。
「あ、ほら、もう船着き場だ」
ヴィントが指さした先に、ケルヴィムと同じ白い翼の娘が立っていた。こちらに気づくと、手を挙げてくれる。こちら側に着けろということだろう。バハルはゆっくりと桟橋へ船を近づけた。
「それじゃ、おれたちはここまでね。マルタン、イサミ、アドラ、元気で」
ヴィントが三人に握手を求める。
「うん。連絡するね」
「無事ならなんでもいい。絶対生きてまた会おう」
キャスケットの下の瞳は、もう揺れてはいなかった。大人へとひとつ近づこうとする少年の脆さを抱えながら、王族たる高貴な輝きを持って、ただまっすぐにマルタンを見据えていた。
「わかった。生きて、笑って再会しよう」
マルタンはヴィントの手をぎゅっと握り返して、見つめ返す。少しのあいだ見つめ合って、二人は同時に笑って手を離した。それを父親のような顔で見守っていたバハルには、二人とも気づかないまま。
着いた時と同じようにゆっくりと出ていく船を見送ると、マルタンたちは白い翼の娘に駆け寄る。
「ようこそエルディーテへ。歓迎いたしますわ」
姉と同じように膝を軽く折って礼をすると、娘は姉そっくりの瞳をこちらに向ける。
「わたくしはケルヴィムの妹のソフィアと申します。姉が警護、わたくしは客人の案内係として勤めております」
「ケルヴィムさんとは海の上でお会いしました、マルタンです。よろしくお願いします」
後ろに控える二人に目を遣ったソフィアに紹介を済ませると、ソフィアは「ふむ」と短く言った。
「何か?」
アドラが首を傾げる。
「いえ、ハルピュイアのお方に人間、そしてエビルシルキーマウス……変わったパーティーだな、と思いまして」
しかも、イサミさんは何か不思議な雰囲気をお持ちですね、と続けた。
「はい、俺は異世界から来たので」
「……なるほど。にわかには信じがたいですが、この世界の緊急時には異世界より客人があると言い伝えもありますからね」
「そ、そうなんですか?」
初耳だった。さすがは学術都市、そういった昔話の類もたくさん聞けそうだ。
「それで、ご用件は」
図書館長のクラーヴァに会いに来たことを伝えると、ソフィアはなんだ、と息をつく。
「クラーヴァ様はどなたにでもお会いになります。ご案内しますわ」
「よかった、きっとお忙しいお方だと思ったので、連絡もなしに来ては迷惑じゃないか心配だったんです」
マルタンが歩きながらそういうと、ソフィアはきょとんとした顔で答える。
「どうして? 外の方とお会いするのは新たな『学び』の機会ですわ。それを逃すなんて勿体ない」
だから、遠慮なんていりませんのよ、というソフィアに、勇はふと気になって尋ねた。
「誰にでも会ってくれる……というけど、それって危険はないんですか?」
万一ケルヴィムとソフィアが、クラーヴァのことを『柱』と知らなかったとしても、とても位の高い方であることに違いはない。誰でもお目通りが叶うなんて、一般的な権力者にはあまりないことだ。
「……危険、ね。あなたがた、姉の審査をくぐりここにいるのでしょう? ならば大丈夫。それに……」
万が一のことがあっても対処は可能、と申しませんでしたか?
そう言ったソフィアの瞳がきゅぅと細くなった。口元は、優雅に弧を描いている。ぴっちりと一つにまとめられたシニヨンにつけられたリボンが、風に揺れる。
「ここに姉が来ていないということは……おそらく、次のお客人が見えたのでしょうね」
ソフィアがそう言った瞬間、船着き場の灯台に併設された大きな鐘ががらんがらんと鳴った。