バハルが操舵する船が揺れる。水の民の集落へ向かった時とは違い、巡行とは行かなかったので風を見ながら、ゆるゆると船は進んでいった。グロセイアの船よりもずっと小さな船だからか、揺れもダイレクトに感じてしまった勇はまたひどい顔色で船べりに張りついている。マルタンがその背をさすっていると、前方から背に翼が生えた人影がやってくるのが見えた。
「こんにちは~ちょっといいですかあ?」
間延びした声で、その人はマルタンたちを呼び止めた。背に生えた真っ白な翼がつい、と風を切り、船の上をくるくる回ってついてくる。
「こんにちは。はい、なんでしょうか」
マルタンはその人を見上げて、答えた。白い翼の人は、ふわふわとカールした柔らかそうな白髪をなびかせ、エルディーテの紋章と思われるネックレスをひょいと掲げてにっこりと笑った。
「この先は学術都市国家エルディーテの領域となるのですが、ご旅行ですか?」
マルタンはその人がなぜやってきたのかを知って、あっ、と小さく声をあげ、そしてぺこっと頭を下げた。
「すみません、連絡もなしに来てしまって……」
「あ、いいんですよ~、うちはもともと外との行き来は自由な都市なので~。でも、最近ちょっと物騒なので、こうやって空から領域内に入る方を
会話の間も、せわしなく船の上を飛んでいる娘にアドラは呼びかけた。
「なあ、疲れないか? うちとしては船に乗ってくれて構わないんだが」
横にいるバハルも、うん、と頷いた。
「え、いいんですかあ? それじゃ失礼して……」
よっこいしょっと、と言いながら、娘はマルタンたちが乗る船に降り立つ。抜け落ちた白い羽根がふわりとヴィントの帽子の上に落ちた。
「抜け毛だあ……換毛期まだなのに……ごめんなさいねぇ」
娘はヴィントの帽子に落ちた自分の羽根を拾い、少し落ち込んだような顔を見せる。それからすぐに気を取り直して背筋を正すと、右手を胸に当て、膝を軽く折って礼をした。
「あらためまして~、わたくし、エルディーテ警護に当たっておりますケルヴィムと申します」
「ご丁寧にありがとうございます、わたしはマルタンです」
マルタンも改めてぺこ、と頭を下げる。
「エビルシルキーマウスさんですねえ、ほんとにもふもふだぁ。そちらのお姉さんは同族かなぁ?」
ケルヴィムはマルタンに会釈をすると次はアドラの方を見た。アドラは頷く。
「だな。あたしはハルピュイア族オオワシ科のアドラだ。あんたは?」
「ハルピュイア族ハクチョウ科です~」
こんなところでハルピュイアと会えるなんて嬉しい、とケルヴィムはにこにこしている。
「ってことは、あんたももしかして」
「えへ、防衛学校の卒業生です」
「先輩か……」
「あっ良いですよう、今更かしこまらないでも。なんか気持ち悪いですし~」
マルタンは同行している勇と、船を出してくれたバハル、ヴィントの紹介をすると旅の目的を簡潔に話した。
「なるほどぉ、エルディーテ図書館の館長であるクラーヴァ様にお会いしたいんですねえ」
ふんふん、と腕を組んで頷くケルヴィム。図書館の館長、と聞くと位が高いのかよくわからないが、エルディーテの中心は城ともいえる荘厳な外観をした図書館だとグロセイアが教えてくれた。その組織をまとめ上げている存在ならば、一国の王にも匹敵する権力者なのだろう、簡単に会わせてもらえるだろうかと心配していると……。
「いいですよ~」
にぱ、と拍子抜けするほど明るくケルヴィムが笑った。
「ほんとに!?」
マルタンは驚いて聞き返す。事も無げにケルヴィムは頷く。
「こうやってお話してる感じ、大丈夫そうだなと思ったので~」
それに、とケルヴィムは青い瞳を細めた。
「もし、万が一あなた方がクラーヴァ様に害を為す存在であったとしても、対処は可能ですので」
出立前にグロセイアが教えてくれたことを思い出す。
なぜ、エルディーテがあらゆる種族が共生する都市として存在できるのか。
なぜ、エルディーテが魔族や亜人、獣人が多く暮らす都市でありながら、アロガンツィアの襲撃を受けないのか――。
それは、学術都市でありながら強靭な警護隊を抱えているからなのである。
おそらくは、このケルヴィムもその精鋭なのだろう。
ふわふわとした笑顔と華奢な体とは裏腹に、びりびりと空気が張り詰めるほどの強大な魔力を有していることがアドラにはわかった。
「なるほど、何かあっても責任を取れるだけあんたは強いってわけだな、先輩」
「そうです、わたくし結構強いんです。それに、いろんな人を見てきましたから旅人の善悪はなーんとなくわかります。あなたたちは多分大丈夫」
多分。ともう一度付け足し、ケルヴィムはバハルに笑いかけた。
「水先案内の補助をいたしますわ」
「ああ、ありがとう」
バハルの操舵は的確だったようで、このまま進んでいけばエルディーテ港に入ることができるらしい。ヴィントはケルヴィムの姿にほうっと見とれていた。それに気づいたケルヴィムがヴィントの方を見遣る。
「あっ……あの、天使みたいだなって思って、見てました」
「面白いこと仰るんですね、わたくし、魔族なのに」
白い翼、柔らかなプラチナの髪、サファイアの瞳、真白の肌。絵画に描かれる天使のようなその姿で魔族というのはギャップがすごい、と勇も感じていた。彼女も、これがゲームであればもしかすると敵方に回っていた存在かもしれないのか、と。
「小さいころに、母様が読んでくれた絵本の天使にそっくりだったから」
少しはにかんだように笑ったヴィントに、ケルヴィムは自分の翼から抜けた羽根をひらひらさせて言う。
「そんな良いもんじゃありませんよ、抜け毛が気になっちゃってるただの鳥です」
夢を壊さなくてもいいだろ、と言うアドラに、ケルヴィムはすまし顔で答えた。
「誤解させるのは罪ですからね。夢だけじゃ、おまんまは食べれないです」
柔らかな風貌からそんな言葉が飛び出るものだから、そのリアリストさに面食らう勇だったが、そんなものは置いてけぼりで船は進んでいった。
「見えますか? あの白い建物がエルディーテの中心。図書館です」
彼女が指さす方向に見えたのは、真っ白な石造りの建造物だった。
「綺麗……」
マルタンが目を輝かせていると、ケルヴィムは誇らしげに笑う。
「上陸しましたらわたくしの妹に案内を任せましょう。……わたくしは」
ケルヴィムは背の翼を広げた。
「別のお客様がいらしたようですので」