クラウスの突然の申し出に、アドラは荷物をまとめる手を止めて振り返る。
「は!?」
「マルタンさんも無事に変化できるようになりましたし、ここには僕が求める文献がありそうですし、残って研究を進めていきたいと思いまして」
なるほど、と勇は納得したが、気にかかることが一つ。
「これから行くエルディーテは学術都市だからたくさんの蔵書を抱える図書館もあるって聞いたけど、そっちには行かないでいいの?」
「ええ、そちらも大変魅力的なのですが、ペトラ先生が以前訪れた際に古代神学に関わる本はほとんど読んでしまったらしく、まだ解析していない本についてはむしろこの集落のほうが多いみたいなんですよ」
だからペトラ先生はあんなに生き生きしていたんだね、とマルタンは苦笑した。
「それじゃあ、グラナードさんの木こり小屋に伝書生物を飛ばすのもできていいのかも?」
勇の提案にクラウスは顎に手をあてて少し考えた。
「うん、確かに……ですが、グロセイアさんの拠点を挟むのにはこの場所を隠す意図もあります。それについては双方と相談してからでしょうね。けど、緊急時にはここに僕がいることで上手く回せる可能性はできましたね」
「寂しくなるけど、クラウスさんが決めたことなら」
マルタンは、今までたくさん助けてくれたことに礼を言って頭をぺこりと下げた。クラウスはにっこりと微笑む。
「いえ、こちらこそお世話になりました。あなた方と行動することで見えたこともありますし……人間という意外な味方をつけての行軍、楽しかったですよ」
その言葉は心からのものなのだが、どうにも彼が言うと胡散臭く聞こえてしまう。アドラはクラウスの表情の作り方がどうも作り物くさいのが原因と感じ、損してるなお前、と小さく呟いた。
「え?」
「なんでもねーよ。しっかし勝手についてきて勝手に抜けるのな、あんた」
身勝手にもほどがあるぜ、とアドラは笑う。
「そうですよね、寂しいですよねアドラ」
「なんでそうなる? そしてその顔やめろ」
在学中に女子生徒を口説き落とすときの顔をして見せるクラウスの顔面を、アドラは大きな手でがしりと掴んで突き放す。この二人の漫才じみたやり取りを見るのも最後になるのかな、と勇がしんみりしていると、クラウスが頼みごとがあると言ってきた。
「これから、君たちはまた旅を続けていろいろなことを知っていくと思います。僕もこちらで研究を続けますので、定期的に伝書生物を送っていただけますか」
それは構わないけれど、と答えると、ほっとしたようにクラウスは笑った。
「よかった。この先ですが、おそらく西の柱にお会いすれば北の柱のおわす場所も教えていただけるのではないかと踏んでいるんです。しかし、魔王様が今どちらにおいでなのか……それが僕たちにはわからない」
王都で様々なことを見聞きし、ユウタ一行が『悪しき魔族を滅ぼして世界に平和をもたらす』ために行動していると知ったマルタンたちは、ユウタの動向を追ううちに現在の行動指針が『柱を害すること』であることを確信した。しかし、ユウタが『救世の光』のプレイヤーであったと仮定するならば、その最終目標は――魔王の討伐なのである。
「魔王様をお守りすること、僕としてはそれも重要なことだと思うんですよ」
「うん……魔王様はわたしたち魔族を統べるお方、人間に簡単にやられるような存在ではないけれど、ユウタさんたちの力の使い方は正直読めないから、急襲をかけられたら危ない」
おそらくは魔王様も現状を知ってはいるだろうとクラウスは言った。魔王は防衛学校の入学式と卒業式にはいつも顔を見せてくれるようで、その際に『遠見の鏡』で皆のことを見守っていると言ってくれたのだという。と、いうことは、常に鏡で学校を見ているわけでなくとも定期的に様子を確認しているのならばこの惨状もわかっているはずだ。
「恐らくは何かお考えがあって姿を隠されているのだと思うけれど……」
「敵を欺くにはまず味方から。僕たちにも知れないように動いているというのはありそうですね」
ユウタがどんな順番で『攻略』しようとしているのかは知れない。だが、どこかのタイミングでは必ず魔王を討とうとするだろう。今までの行動から見るに、柱へ攻撃することで結界を解いたり力を奪おうとしていることから、ある程度魔族側の勢力を弱め、自分たちの強化を行ってから挑むつもりなのではないかと推測できる。
であれば、今は焦って魔王に接近して護衛をする必要はないのかもしれないが……。
「緊急時にすぐにフォローできるようにはしたいよね」
勇はクラウスの言いたいことを代弁する。そして、マルタンに視線を移した。
「マルタンがレジスタンスなのも、きっと魔王様や柱たちを守るためなんだと思うし」
マルタンは人間の姿のままなのに鼻をかしかしと搔きながら答えた。
「うん……レジスタンスの職が発現したって言われたときもびっくりしたけど、こんなことになるなんて思いもしなかったよ……」
それでも、与えられた役割はしっかりこなせ、そして、期待された以上の働きを心掛けなさいと言われて育ったマルタンは、この役目を拒もうとは思わなかった。
エビルシルキーマウス種は弱い。アドラのようなハルピュイアや、クラウスのようなクラーケに比べると、討伐者に遭遇すればすぐにやられてしまうような下級の魔物だ。それでも、守り手という役目を与えられたのならばそれを全うしたい、とはっきりここで言ったのだった。
「その言葉を聞いて安心しましたよ。魔王様の居場所についても、何かわかったことがあれば共有しましょう」
「そうだね、あのお方は神出鬼没だから、案外ひょこっとお出でになるかもしれないし」
「確かに」
明日も早いしそろそろ眠ろうか、と面々はそれぞれの部屋に戻る。
その日、クラウスの部屋の明かりは遅くまでついていた。
出立の朝、オルメアの船を操舵するバハルが先に船へと乗り込んでいった。助手としてヴィントがついている。小さな漁船だから、万が一王国の船が巡視していたとしても急に攻撃されることはないだろう。
「それじゃあ、気をつけてお行きよ」
オルメアは簡単なサンドイッチを作って持たせてくれた。もっふりとした体に戻ったマルタンは嬉しそうに鼻をふすふすさせて、バスケットの中をのぞき込む。
「ありがとうございます!」
「あんたのそのまっすぐさは宝だからね、大事におし。厳しい旅が続くと思うけど決して腐るんじゃないよ」
マルタンは優しく微笑んだオルメアの目を見て、その言葉に少し驚いてから意味を反芻して、しかと頷いた。
「はい」
「うん、良い返事だ。……さて、エルディーテだが、あそこは魔族も人間も亜人も獣人も関係なく過ごす学術都市だそうだ」
私も詳しくは知らないんだがね、というオルメアに、見送りにきたグロセイアが何だ知らんのかと文句を垂れる。
「あんたは知ってるのかい?」
「まあ、行った事もあるからな」
記憶を辿るようにグロセイアは話してくれる。
「――あそこは」