揺れる。波間に吸い込まれる。
海は、良い。ゆりかごみたいだ。
「……」
目を覚ますと、花の香りの中にいた。
死んでしまったのかな。
グロセイアは、ひとつ、ふたつ、と瞬きを繰り返す。
「……ツァボ? 気が付いた?」
アフィラドの声だ。なんだ、こいつも死んでしまったのか。仲良くあの世行きなんて笑えない。
――いや、待て、今「ツァボ」と呼んだか。身体を起こそうとしたグロセイアの肩を、ゆっくりとベッドに押し戻す褐色の手を見て、これが現実であると気づいた。
「……スピネル」
「うん。俺です。よかった、息はあったけど、なかなか起きないから心配した」
目を閉じて記憶をたどる。
「まったく無茶するんですから~」
間延びした声とともに、水差しを持ってきたのはクラウスだった。すっかり人間の姿に化けている。その声でグロセイアはやっと思い出した。
沈みゆく身体を、タコの足が絡めとって引き上げたのを。
聞けば、浜へ仲間たちを届けたあと、燃え盛る船を見てクラウスは単騎引き返してきたのだという。
勝鬨が上がる軍船、黒い煙を上げながら海へと沈んでいくグロセイアの船。
クラウスはその船の周囲を見回した。
そこへ辿りつく直前、大きな水しぶきが上がったのを見た。海賊の首を波から引き上げるつもりなのか、数名小舟で出てきて、槍や熊手やらで探しているのを見つけたので、追い払うために軽く波を起こし、ずい、と近づいた。情けないことに、そいつらはバケモノだと叫びながらオールを一生懸命動かして逃げていったらしい。
直後、敵に見つかると厄介だからと潜っていたスピネルも、さすがに息が続かなくなって水面から顔を出した。クラウスがそれを見つけたと同時に、軍船の方からも光を当てられる。いたぞ、と声が上がり、船が近づくその直前に、クラウスの腕が二人を絡めとり、救助したのだった。
それから、追いかけてくると面倒だなと思ったクラウスは残りの六本の腕を軍船に向かい勢い良く伸ばした。魔力を練り上げ、触手に纏わせてうねらせる。すると、自然では起こりえない大きな波が生じ、軍船をめちゃくちゃに揺らした。何人かぼとぼとと船べりから落ちる。悲鳴が上がる軍船、かろうじて船上に残っている者は、何かにしがみついて立っているのがやっとだった。あのまま巨大化して軍船をたたき割ってやってもいいかなと思ったが、体力的にも余裕がないし、二人を安全なところへ運ぶのが先決だと思い直したクラウスは、しっぽを巻いて逃げる王国軍を放って浜へと急いだのだという。
「で、ここにたどり着いたってわけ」
クラウスの後ろから顔をのぞかせたのは、黒髪の女だった。彼女が歩くと、ホルターネックのドレスの裾がふわふわと金魚のヒレのように揺れる。ほのかな花の香りは、彼女のドレスから香っていた。
「沖の方が騒がしかったけど、あんたたちだったのね」
不機嫌そうに眉を寄せ、女は腰を折り曲げて、仰向けに横たわるツァボライトに顔を近づけた。裾をゆるく巻いた腰まである艶やかな黒髪が、一筋ツァボライトの顔の横に落ちる。それを直さないまま、真っ赤なネイルの指先をツァボライトの下瞼に軽く当て、引っ張った。
「あんた通常時でも顔色悪いからこうしないとわかんないのよ。うん、だいぶ良くなったかね。さっきまで真っ白だったんだから」
そして身体を起こすと、女はドアの方へ呼びかける。
「あんたたち、もう大丈夫。顔を見せてやりなさい」
ドアの陰で待機していたマルタンたちが、なだれ込むように部屋に入ってきた。
「ツァボライトさん!」
口々に名前を呼んで、駆け寄る。マルタンは、ツァボライトの左肩の方へ着くと、じっと目を見つめた。
「どうした」
かすれた声で聞かれて、マルタンは深く頭を下げる。
「ごめんなさい……わたしが、出航をお願いしなかったらこんなことには」
「ありがとう、だろ」
布団の中から左手を持ち上げると、ツァボライトはマルタンのふわふわした頬を撫でて、ピンク色のしっとりした鼻先をつんつんとつついた。
「ふえ」
「船を出す判断をしたのは俺だ。それに、あんたの望みはちゃんと叶えてやった」
だからありがとう、だろ。
さも当然とばかりにツァボライトは言い放ち、そして小さく息を吐いた。
マルタンは、ふと思い出す。
――だからね、ごめんじゃなくて、ありがとうって言ってほしい。
いつか、自分も勇に言った。
「……それでも、ごめんなさい。ありがとう」
マルタンは、グロセイアの大きな手をぎゅ、と握ってもう一度頭を下げた。
「俺たちの望みが叶った、ってことは」
勇がおずおずと口を開く。スピネルが頷いた。
「そ。ルシアネッサからちょっと西に逸れちゃったけど、ここはクーナ湾南岸だ。ルシアネッサにはそんなにかからずに着くよ」
スピネルは女の肩になれなれしく手を置いて、ねっオルメア、と笑った。女はふん、と鼻を鳴らして手を払うと、答える。
「あの子たちには気に入られてるかもしれないけど、気安いよ、ったく」
あの子たち、というのは廊下から部屋をこっそり見ている娘たちのことだろうか。クーナ湾南岸、ルシアネッサ西の入り江に位置するここは、水の民の集落だった。オルメアと呼ばれたその女は、ここの長をしているという。たおやかな黒髪の間からは、朱色をした魚のヒレのような耳が揺れ、深くスリットが入ったドレスから覗く脚にはところどころ鱗が光っている。
「つれないんだから」
「そういうのは他の子とやって。で、王国の船とやりあってたみたいだけど、この客人をどうしたかったの」
オルメアはツァボライトに視線を移す。
「なんでも、ルシアネッサにおわす『柱』にお目通りしたいって」
「柱?」
オルメアは首を傾げる。
「なんだ、ここには柱の話はないのか」
「ルシアネッサの賢者のこと?」
賢者? と今度はマルタンが首を傾げる。
「自称千年以上生きているっていう変わり者の男よ」
オルメアの言葉に、クラウスは興味を示す。
「お会いしたことがあるのですか?」
「お会い、というかねえ、あいつしょっちゅうここに遊びに来ていたから」
それじゃあ、神という可能性は低いのか? と思いかけたその時に、オルメアは気にかかることを口にした。
「船もなしに、この断崖に囲まれた入り江にどうやって来てるのかだけ、謎だったんだけどね」
クラウスはこの館へ皆を連れてくるときにここの地形を見ている。オルメアの言う通り、ここはトンネルでもないと陸路からは来られないだろう、秘境というにふさわしい場所だった。
「私たちはこの足があるからルシアネッサくらいまでなら泳いですぐだけど、普通の人間は船がないと行き来できないはずなんだ。でも、あいつは気づいたらこの集落に来て、気づいたら帰っててね」
変な奴とは思っていたが、集落に危害を加えるわけでもないし、遊びに来るときはいつも手土産を持ってきてくれる丁寧さもあったので、オルメアは悪くは思っていなかったという。その話を聞いて、クラウスはピンときた。
「そのお方に、翼があるのならば」
不可能なことではない。
古い文献では、南の柱は背に大きな翼をもつ者と書かれていた。それと合致するならば……。
その時、館の扉が開いて、閉まる音が響く。
「おや、帰ってきた」
ちょっと出迎えてくる、とオルメアは部屋を出ていった。