軍船が近づいてくる。
バハルは、船内の人員をツァボライトとは逆の方に集めた。
「お頭からの命令だ。――逃げろ、と」
その言葉に、ナルは勢いよくツァボライトの方を見た。カンテラを揺らしながら、鼻歌なんか歌っている。王国軍を挑発しているのだ。
「はぁ~ん、なるほど、そゆこと」
スピネルは背中まであるふわふわした赤毛をみつあみにすると、先端を紐で結ぶ。そして、腰に引っ提げていたフリントロックピストルを持って、弾丸と装薬をごそごそやり始めた。
「おい、スピネル」
バハルに呼び止められたが、スピネルは紅い瞳をぎらつかせて笑うだけ。
「何?」
「何、じゃない。お前も脱出……」
言いかけたバハルが押し黙ってしまった。一回り以上も年下のスピネルに物を言えなくなるのはこれが初めてではない。時折、こうして獣じみた顔をする。それは、この船において最年長のバハルであっても怯むような獰猛さを孕んだものだった。
「大丈夫、俺があんたらを守ってあげる。わかったらさっさと行きな」
ね、と笑うと、スピネルの腰にヴィントが抱き着いた。
「スピネル、ダメだ。ツァボライトさんも……あんな大きな船とまともにやりあって勝てるわけない!」
少し驚いた顔をしてから、自分の腰に巻いたベルトスカーフをぎゅっと掴んでいるヴィントの手に、自分の手を重ねてベルトスカーフごと優しく外す。
「ヴィント、戦局が読めるなんて偉いなあ」
「そんなこと言ってる場合じゃないってば!」
眼下にあるキャスケットをひょいと取り上げると被り、ふわふわとしたヴィントのチョコレート色のくせっけを少し乱暴にくしゃりと撫でた。そして少し屈んで視線を合わせると、告げる。
「勝つためにやるんじゃない。お前らを逃がすためにやるのさ」
ヴィントはスピネルの言葉を聞いて、その胸元に縋りつく。
「それならスピネルは? ツァボライトさんは!?」
「死なねえって。だから、こーれ、次に会うときまで貸して」
ヤマネコの耳を隠すように被ったキャスケットをトントン、と人差し指でつつくと、スピネルは自分のシャツの胸元を掴んでいたヴィントの手を握り、優しく下ろした。
「ヴィント、そいつら海に慣れてないからお前がちゃんとリードしろよ」
頼んだぜ、と軽く敬礼をする。ヴィントは、嫌だと言いたいのを飲み込んで、同じく敬礼を返した。それを見て安心したように笑うと、スピネルは踵を返した。ツァボライトの元へ、向かう。
どん、と大きな音がして、王国軍の船から大砲の玉が飛んできたのが見えた。ツァボライトの手前に落ち、水しぶきが上がっているのがわかる。
「っはは、少し遠いかな? へたくそめ」
ツァボライトはそんなことを言って笑っているが、勇は気が気じゃない。落下の衝撃で広がった波に大きく揺れた船のその縁にしがみついていた。顔に海水がかかる。
「ひ、ひええ」
ヴィントは勇の手を取る。
「情けない声だすな……じゃない、ごめん。具合が悪いところごめんな、でも逃げないとだ。泳げるか?」
「ぅぶ、すこしなら」
海目掛け、浮き輪を投げてヴィントはそこを指さす。
「飛び込んで、あれに捕まって泳いで」
勇は怖いのと具合が悪いのでとてもではないが飛び込める状況ではなかった。
「しょうがねえな」
アドラが勇の肩を大鷲の足でがっしりと掴む。
「へ? え?」
「暴れんなよ、落っことすぞ」
せめてものやさしさで「さん、にー、いち!」と掛け声を上げ、アドラは船から飛んだ。
「あああああああ」
「うるせーな、もう腹くくれ死にゃしねえ」
そして、ぽーいと浮き輪目掛けて勇を放る。バハルが出してくれた小さいボートへ移るよう、船上からヴィントが指をさした。
「では、マルも……っ」
マルタンが、えーい! と勢いよく船べりを蹴った。
「ばっ、ばかーっ!」
アドラが慌ててマルタンを空中でキャッチする。
さながら猛禽類がネズミを捕食するような絵面になってしまって、少し気まずかったが、そうも言ってはいられない。
「アドラ!? なんで?」
「あんた水に濡れるの誰より苦手だろうが! 無茶だって!」
「お、泳げなくはないよ!? ほお袋に空気溜めて、ぷかぷかできるもん」
「移動はできねえだろ!?」
アドラはマルタンを一度船におろすと、うーん、と考えてマルタンを背後から抱きかかえ、飛んだ。
「お、重いでしょアドラ、それこそ無理だよ」
「このくらいならギリ大丈夫だ。後の奴はカバーできないけど、マルひとりなら運べる」
ぎゃあぎゃあやっている二人を船の上から眺めるクラウスに、バハルは気遣うように聞いた。
「あんたは泳げるのかい」
「あ、はい。少し驚かせてしまいますが」
緊急事態ですのでご勘弁を、という言葉の直後、ぬるりとクラウスの腕が触手へ変わった。
「え……」
「すみませんねえ、僕、タコなんですよ」
長い脚も、それぞれ太い触手へと変わっていく。いびつな吸盤が付いた触手は、ぺたり、と船べりを掴んでいた。手だったはずの触手で顔を覆うと、次の瞬間には顔もタコに変化する。そうして現れたのは、臙脂色の身体に金色の目をした、体長5メートルものオオダコであった。
「そんなら泳ぎは心配ないか、気を付けてな」
バハルはさほど驚いた風でもなくクラウスを見送る。漁夫だから慣れているのか、魔族への抵抗がさほどないのか……どちらかは知れないが、怖がられなくてよかったとクラウスは内心ほっとしながら海へ入り、先に飛び込んだ勇を誘導するように泳いだ。
ナルはというと、納得いっていないような顔でそれを見つめて歯を食いしばっている。
「ナル?」
「……俺は、逃げらんないよ」
大きな体を縮こめてナルは震えている。
「ナル、ツァボライトさんの命令は絶対だ」
「それでも、俺はまた家族を亡くすのは嫌だ」
トラウマに支配された頭を抱えて小さくなってしまうナルを見て、ヴィントは怒声を上げる。
「そんなの、おれだって同じだ!」
ちいさなヴィントから響いた低い怒声に、ナルは大柄な体をびくりと震わせる。おそるおそる顔を上げた先には、涙を流しながら小さな手を伸べて、ナルの太い腕を掴むヴィントがいた。
「もう、独りは嫌だ。けど、ツァボライトさんの命令は絶対だ、それに」
その小さな体のどこからそんな馬鹿力が沸き上がるのか、それともナルがよほど脱力していたのか。ぐい、とナルの腕を引っ張り上げて無理矢理立たせる。
「スピネルもツァボライトさんも、嘘はつかない!」
船べりに追いやったナルの肩を、どんと押す。ばしゃん、と大きな音と水しぶきを上げ、ナルの身体は海へ吸い込まれていった。
水に、沈む。
ああ、あの時と、同じだ。