祠に近づかないことには始まらない。四人は色褪せた地を慎重に進み、大岩の前へと辿りついた。大岩の下は、枯れ果てた土が露出し、ひび割れている。祠の上には、大量の灰が雪のように積もっていた。
「ソレイユさんが言っていた岩ってこれかな?」
マルタンがそっと触れた大岩は、不思議な形をしていた。丸い岩に、何かが巻き付いているような……。
「東洋龍……?」
ぽつり、と勇が呟く。
「とうよう……? なあに?」
マルタンに問われ、勇は岩を見つめて答える。
「こういう細長い蛇みたいな龍のこと、俺たちの世界では『東洋龍』って呼んで、翼があるタイプの竜……ドラゴンと区別してたんだよ」
東洋龍も大別すればドラゴンなんだけどね、という勇に、マルタンは分類が難しいねと返し、その岩の龍の顔を撫でた。
「岩だけど、生きているみたい。辛そうな顔してる……おひげも、しょんぼりして……」
どうしてこんな姿の像を造られたんだろう? というマルタンに、考え込んでいたクラウスが顔を上げた。
「……もしかすると、造られたのではないのでは」
「え?」
「マルタンさん、呪符を」
貼ってみませんか。そう続けたクラウスに、マルタンはポーチから取り出した呪符を見せる。
「そっか、解呪の紋」
「ええ」
不測の事態に備えて、アドラは大丈夫だと言い張る勇を自分の背に庇った。死なれては寝覚めが悪いなんて言いながら、大岩と距離を取らせる。何かあったときにはあんたが助けるんだよ、と役目を与え、納得させてだ。視線を交わしあい、マルタンは頷くと、呪符をそっと大岩に近づけた。
「!!」
瞬間だ、キラキラと雨粒が周囲を舞ったのだ。
霧雨のような雨粒が大岩と祠を優しく潤すように、あたり一帯を包む。
身体が濡れるのが苦手なマルタンはぷるりと身震いをしたが、雨粒はするんとマルタンの絹毛の上を滑り降りるだけでその身を湿らせることはなかった。身構えていた不快感に襲われなかったマルタンは、安心したように霧雨に身を任せる。
「綺麗だね……」
陽光に照らされ、雨は小さな虹を生んだ。その下、大岩から、龍の像だけがほどける様に動き出す。
「……マルタン!」
一度離れた方がいい、とアドラが声を上げる。
「え」
虹を見ていたマルタンは、岩の異変に気付いた。
――龍が、動いている。
動いているばかりか、先ほどまで鈍色をしていた岩が、深海を思わせるような深い紺色に変わっていくのだ。蛇のようにうねりながら丸い岩から離れた龍は、一度高く舞い上がってから四人の前に降り立った。
「ひょっとして……」
クラウスが零したのを、アドラは聞き逃さない。
「おまえ、なんか心当たりあったのか?」
「ええ……このお方は……」
「いかにも」
龍が若い娘の声で答えた。
次の瞬間、ふわりとその身が光り、人の姿をとる。
「わしがこの祠を守護する柱よ」
立っていたのは、マルタンと同等か、それよりも少しだけ背がある幼い顔をした娘。その頭には、鹿によく似た龍の角が生えていた。クラウスはすぐに片膝を折り、頭を垂れる。
「あなたが、このリベルテネスの東を守護する柱でいらっしゃいますね」
娘が優しく頷くと、クラウスに倣うように、マルタンもぺたりと膝をついて頭を下げた。アドラは驚いて目を見開いたままだ。クラウスとマルタンの様子を見て、勇はアドラの手をひいて一緒に跪く。
「よい、面を上げよ。そなたたちはわしを救ってくれたのじゃ」
老成した口調に似つかわしくない、愛らしい子供の声で娘は言う。アドラは娘の言葉に顔を上げると、問うた。
「あなたが、あの……」
「ケラスィヤ。春を司り、雨をもたらす者よ」
勇だけが、何のことかわからずにきょろきょろと三人の顔を順繰りに見ていた。それに気づいたケラスィヤは、桜色の瞳を勇へと向ける。
「……三人は魔族のものじゃな、して、そこな人間は……?」
「あ……」
「この世界の者とは違う『気』を纏っておる。名は」
跪いたままの勇にそっと手を伸べるケラスィヤに、勇は本能的に恐れ多いことと感じた。手を取らずに立ち上がると、深く頭を下げて軍隊顔負けのお辞儀をする。
「勇と申します。異世界……『日本』より参りました」
「なんと。……そのような……」
何かを考え込んで、ケラスィヤは言い淀む。それから、手を隠すほど長い衣装の両袖を上げ、手のひらを自分の胸へ向けて、拱手の形に整えると小さく膝を折って勇に敬意を表した。
「!? ケラスィヤ様!? おやめください」
勇はケラスィヤを知らない。ゲームを進めれば出会えていたかもしれないが、この『柱』と呼ばれる娘が何者なのかはわからなかった。ただ、皆の様子を見ていれば只者ではないことだけはわかる。
「うまく説明は出来ぬ。そなたを混乱させるだけとわかる。だが、そなたと……」
視線をマルタンに向けて、ケラスィヤは続けた。
「そこの、レジスタンスのエビルシルキーマウスが、我々を救うと、わしはそう感じた」
「ふぇ!? ま、マルがですか」
マルタンはぴゃんっ、と小さく肩を跳ねさせ、そして慌てて頭を下げる。
「うう、あの……おもてを……おもてをあげてくれんかのう」
ケラスィヤはもじもじと手遊びをしながら視線をさ迷わせだした。
「そのようなわけにはまいりません」
視線を合わせることさえ恐れ多いことですので、というクラウスに、ついにケラスィヤは泣きそうな声で言う。
「あう、あの……話しにくいのじゃ。頼む」
「しかし……」
「うう、命令じゃ! 全員面をあげよ!」
ぴしりと小さな手の指を突き付けてケラスィヤはそう言い放った。薄桃色の唇がぷるぷると震えている。
「そ、そして、名を……名を聞かせよ」
「は、はい! マルは、マルタンです」
「アドラと申します」
「クラウスとお呼びください」
やっと顔を上げて目を合わせてくれた面々に、ケラスィヤはほっと胸をなでおろし、そして恥ずかしそうにつぶやいた。
「その、あたまのてっぺんだけ見て話すのは、さみしい」
やっと少しだけ互いに緊張が解けたかと思ったその時、涼やかな風が頬を掠めた。風に撫でられた地が、ふわりと緑を芽吹く。
「すごい……!」
「これが、ケラスィヤ様のお力……」
クラウスは眼鏡のレンズ越しに、彩を取り戻す地を見つめて感嘆のため息を漏らす。その言葉に、ケラスィヤはぶわりと大粒の涙を浮かべた。
「ケラスィヤ様!?」
小刻みに震えるケラスィヤの背を、アドラは慌てて支える。触れることも不敬に思えたが、そうもいっていられないほどにケラスィヤは嗚咽を堪えているのだ。優しく背をさすると、うっくうっくとしゃくり上げた。
「すまない」
大きく愛らしい瞳から零れ落ちた涙が、ぼろぼろと頬を伝っていく。
「どうして……」
皆が慌ててケラスィヤに寄り添った。ケラスィヤはすまないと繰り返して、袖で涙をぬぐうばかり。
「ああ、そのようにしては目が腫れてしまいます」
擦らないで、どうか泣かないで。あやすように言って、クラウスは屈むとケラスィヤの頭をそっと抱き寄せ、自分の胸に押し付けた。
「おい、不敬だぞ」
アドラが声を潜め、指摘する。
「よい。この醜態を……隠してくれ」
ひっ、ひっ、と嗚咽交じりに告げても、まったく恰好はつかない。ケラスィヤはわかってはいたが、厚意に甘えて呼吸が落ち着くのを待った。
「突然泣いたりしてすまなかったな」
ほどなくして、目を赤くしたケラスィヤは「ふすー」と鼻から息を吐いた。
「何があったか、聞いてくれるか」
苔むした岩へ四人を座らせると、ケラスィヤは語り始める。
「そなたたちは、霧の森の存在は知っておるか」
「存じております」
ならば話が早いな、とケラスィヤは右手を天に掲げる。
「わしは、四柱のひとつとして、結界の一角を担う役割があった」
その手のひらから、光の柱が生まれた。空を一瞬明るく照らし、すぐに消える。
「……よし、再度霧の森には結界が生じた。これでいい」
「そうか、霧の森が晴れたのは」
こくん、とケラスィヤは頷いた。
「わしが、……わしが、封印されていたからじゃ」
下唇を噛み、眉を寄せて彼女は悔恨の情を露わにする。エニレヨに異常気象が起き、このようにこの地が枯れてしまったのも、自分の力が及ばなくなったからであろうと。
「わしがもっと強ければ……」
あのような者たちにやられはせなんだに……と続けたので、勇はたずねる。
「あのような者、とは」
「金の髪の男に、黒いフードを被った娘、白いワンピースの奴、稲穂のような色の髪の女じゃ」
一致した。勇は確信をもって、次の質問へ移る。
「その者たちに、襲われたのですか」
「急にやってきてな。この場所は限られたものしか知らぬはずというのに……日向でくつろいでおったわしに奇襲を仕掛けてきよった」
奇襲、と復唱すると、ケラスィヤは頷く。
「特に……あの黒いフードの娘。あれの声は前に聞いたことがあった。定期的にわしに供え物を持ってきてくれる童女と同じじゃった。じゃから、急に攻撃してくるなどとは……」
マルタンは驚いて聞き返す。
「黒いフードの……!? ソレイユさんが?」
「ああ、娘はソレイユというのか。……何故……」
悲し気に眉を寄せるケラスィヤに、マルタンは解呪の紋を拾い上げて見せた。
「これ、ソレイユさんが岩に貼るようにってくれたんです」
「何……わしを強引に封じた者が?」
ますますわからぬ、とケラスィヤは頭を抱える。
「これは仮説ですが、ケラスィヤ様を葬らずに『封印』し、後に自分で……あるいは誰かに解呪してもらおうと初めから考えていたのやも」
「何故封印など」
マルタンは昨夜のことを思い出して、絞り出すような声で言った。
「……ソレイユさんは、本当は彼らと行動したくないんじゃないかな」
そして、昨夜ユウタがソレイユに行った事、言った言葉を伝える。おぞましい言葉、ひどい仕打ちは口にするのも嫌だった。けれど、真実を知ることでソレイユの行動に説明がつく。
「――許せぬ」
眉を吊り上げ、ケラスィヤは一言そう言った。
「つまり、この地を知る娘を利用し、わしを油断させ、襲ったという事であろう」
小さな身体は怒りに震え、周囲に風を生じさせていた。力の制御が上手ではないのだろう。クラウスは、「お体に障ります、どうか気を静めて」と進言してから、ケラスィヤの言葉を肯定した。
「かの者らへの報復を望みますか」
「……いや、よい。それよりも、心配なのは村の者とソレイユ、そして残る三柱じゃ」
風を収めると、ケラスィヤは腕を組んで空中にふわりと胡坐をかくようにして浮かんだ。
「わしの力が戻ったから、おそらくじゃが今頃は村には雨が降っておることじゃろ」
きっとわしが眠っている間ろくなことがなかったのであろう? とマルタンの顔を見遣るケラスィヤに、マルタンはこの二週間の大雨と日照りについて説明した。やはりな、とため息をつき、ケラスィヤは両手を広げ、胸の高さで手のひらを上に向ける。
「うん……これで大丈夫じゃ。村の水に関する問題はなんとかなるじゃろう。しかし、ダメになった作物はさすがに戻せん」
「それはおそらく王国側からの援助があるかと」
「であれば良かった。早期に解決できて本当に良かった。恩に着るぞ」
あのまま自分が眠り続けていれば、近隣のエニレヨはおろか、この大陸全体に干ばつが起きかねん、というケラスィヤに、勇はふと疑問を覚える。
「あの、あなたはなぜ、人間を救ってくださるのですか?」
ケラスィヤは既にエニレヨの人間から祀られてはいなかった。村長の話によると、はるか昔には作物の奉納をしていたというが、今は忘れ去られた神なのであろう。
「おかしなことを聞く」
ケラスィヤは本当にわからないといった顔で、首を傾げた。
「わしはあまねく命に慈雨を注ぐ『柱』である。人も魔族も動物も、草木さえも関係ない」
そういったケラスィヤの顔は、幼くも慈母のような優しさに満ちていた。