そこにベヒーモスを放置するのも悪いと四人は彼が目覚めるのを待った。十数分後、もぞもぞとベヒーモスが身じろぎをしたのを見て、クラウスが何かを唱える。
「……お前ら」
起き上がったベヒーモスが四人を睨めつける。完全にこちらに敵意があるとわかって、クラウスは何らかの魔法をかけたのだろう。こちらへ向かってこようとするベヒーモスは、その足が鉛のように重たいことに気づき顔をしかめた。
「すみませんねえ、君が何をするか読めないので、念のため鈍化の魔法をかけさせていただきました」
ここまでかと諦めたような顔をしたベヒーモスに、マルタンは歩み寄る。
「あの……何があったか聞かせてもらえますか」
「……すぐに、人間に襲われたよ」
あの襲撃の後、校長である白いドラゴンに言われたとおりにベヒーモスも逃げたのだという。しかし、どこへ行くというあてもなく山を降りていたところ、運悪く冒険者に遭遇してしまい、図体の大きなベヒーモスは隠れることもできずにそのまま戦闘、命からがら隙をついて逃げ出してきたため、こんなにも身体が傷だらけなのだと語った。
「やっぱり、俺には人間に良い奴がいるなんて思えなかった」
校長は襲ってくる者に対してのみ力を行使しなさいと言っていたけれど、襲ってこない奴なんて、と言いかけてベヒーモスは勇の存在をもう一度確認する。
「……そいつか?」
「へ?」
勇が拍子抜けするような声で返事をしたので、ベヒーモスもなんだか気が抜けてしまう。
「俺たち魔族を襲わない人間って」
「うん……。まあ、イサミさんはちょっと訳アリだけど」
わけ? と勇に問うベヒーモス。勇は彼の牙の大きさやごつごつの手に、まだ少し恐れがあったが、近づいて答える。
「俺は、別の世界から来たんです」
「別の……? どういう意味だ」
「ここはリベルテネス大陸だけど……俺は、この大陸とも、星とも、おそらく世界、時空も違うところからきてる」
ベヒーモスは口を半開きにしてぽかんとしている。理解が追い付いていない。勇はそれよりも自分の動き方のスタンスを伝えるべきと思い、言葉をつづけた。
「まず、この世界の多くの人に存在する魔族への偏見はありません。それに、マルタンと行動するうちにいろいろとわかってきたし……」
「じゃあ、お前は俺を殺す気は」
「ないです。はじめから争う気もなかったです」
ベヒーモスは目を丸くして、それからきまり悪そうに勇から視線を逸らし、小さく「悪かった」と呟くように謝罪した。
「え……」
勇もその謝罪に驚いて思わず聞き返してしまう。ベヒーモスはかぶせる様に先ほどより大きな声で言う。
「悪かった」
ほっとしたような表情で、マルタンは勇を見る。強張っていた勇の表情が、わずかに緩んだ。クラウスはベヒーモスにかけた鈍化の魔法を解除し、勝手に回復薬を傷口目掛けてぶちまける。
「今度はなっんばぼぼ!」
鼻先にある角目掛けて薬剤をかけたものだから、伝った液が鼻と口に入る。なんだかかわいそうになって勇は目を背けてしまった。アドラはクラウスの後ろに回り羽交い絞めにして止める。
「もういいだろどう考えても多いだろ」
「そうですか? 回復量は多ければ多い方がいいでしょう?」
「ごぼべばぼ」
げほげほとえづくベヒーモスだが、回復薬は効いているようで、見る間に傷はふさがっていく。アドラが渋い顔をした。
「……悔しいけど効き目は確かなんだよな」
ようやくまともに呼吸ができるようになったベヒーモスがひいひいと息を切らしながらクラウスを見る。
「やり方は気に食わねえが、だいぶ痛みが引いた。ありがとよ」
「いえいえどういたしまして! これからどうなさるんですか?」
クラウスの問いに、ベヒーモスの目が泳ぐ。その様子をみて、「やっぱり」とクラウスはつぶやく。
「そんなことだろうと思いましたよ、君みたいなのうき……ンッン、直情型の子は計画性に乏しい傾向にありますからね」
「おい、隠せてねえぞ」
ベヒーモスが反論するよりも先にアドラのつっこみが入る。かわいそうなことに、ベヒーモスは通常では歩くのに大した速度が出ない。のしのしと闊歩するという表現がぴったりくる、モンスターの中では下の上程度のスピードしか持たない、パワー型の種である。突進時の瞬間速度を除いては鈍足であり、図体も大きいので隠れることもできない彼が、討伐者に見つかって襲われるのも致し方ないと言えよう。加えて、賢さもさほど高くはないため、工夫して逃げることや、何かしらの魔法での隠密も不可能だった。逃げるには本当に適さない種である。そのことを知っているクラウスは、かわいそうに……と零し、それからひとつ提案をした。
「このまま北へ行くと、君の歩く速度では、いずれ勇者一行と鉢合わせてしまいます」
「じゃあ、南か?」
「いいえ、彼らは王都……南から向かってきます。ご対面と相成ってしまうでしょうね」
地図は読めますか、と聞くと、ベヒーモスは首を横に振った。
「君の里はどちらですか」
「スネイウだ。でも、方角とかはわからん」
はー、とため息をつくクラウス。
「それでよく今までやってこれましたね。……いや、今は小言を言っている場合ではないな。いいですか、スネイウはここよりもずーっと北西です」
ベヒーモスは首を傾げる。そして、「ほくせいってどこだ」と尋ねた。クラウスは片手で自分の頭を押さえてどう説明したものかと悩む。勇が、バッグの中からコンパスを取り出した。マルタンの顔が明るくなる。
「コンパスの見方わかりますか?」
「こん……?」
こいつは一体学校で何を習ってきたんだとアドラは眉間にしわを寄せた。それについてはマルタンもさすがに何も言えなかったが、今生き延びることが先決だ。
「コンパスは一つしか持っていないのであげられないんですけど……でも、目安を教えますね」
ピンク色の肉球の上に、シルバーのコンパスがちょこんと乗っている。それを、ベヒーモスはまじまじと覗き込んだ。
「こうやって持って……Nって書いてる方が、北です、Wが西」
ほかの方角は教えると混乱しかねないので、あえて説明せずにマルタンはそれぞれの方位を指さす。ベヒーモスに確認させると、次はそのちょうど間を指さした。
「あっち。だいたいあっちが北西です」
「あっちに向かっていけばいいんだな!?」
「そう。でも、北寄りにしてしまうと万一にでも勇者たちに鉢合わせては大変です。できるだけ獣道を、西寄りに進んだ方がいいかも」
じゃあ、あっちか! とベヒーモスは西の方角を指さす。
「とりあえずは。ただ、進んでいると大きな木を避けたり、川を越えたりとかで方角がわかりにくくなることがあります」
「そうだな……」
どうすればいいんだと頭を抱えるベヒーモスに、マルタンは説明の続きをしてやる。
「昇ってきた太陽が沈む方向に……午前中は自分の影が伸びている方へ向かってください」
この方法だと方位にはズレが生じる。けれど、ある程度西に向かって進むことはできるはずです、とマルタンは続けた。方位磁石を持っていない相手にある程度の方角を伝えるには十分だと判断したのだ。
「なるほど、じゃあ、あっちか」
「そう、でも、午後からは影の方向が変わるから気を付けて、逆になっちゃう」
眉間のしわを深くして、考え込んでいるベヒーモスにマルタンは出来るだけわかりやすい何かはないかと少し考えて、今出せる一番平易な表現を選んだ。
「太陽が自分の真上だなって思ったら正午です。そこから、日が傾きだすと今度は太陽は西に沈みだしているということ……」
「お、おう、それくらいなら俺もわかるぜ」
で、そうなったらどうすりゃいいんだ? と尋ねるベヒーモスに、アドラは何もわかってないなと思って頭を抱えた。
「太陽が沈んでいく方に走ってください、西へ向かって走ることになります」
「お!? おお、そっか!」
でもどうやって北へ向かおう、なんて次は言い出すものだから、クラウスが苛立ち始めているのがわかる。西に向いて立ったらこっちが北、なんて説明しても、おそらく彼の理解力では追いつかないだろう。
「夜、星が出たら一番明るい星を見てください、それに向かっていけば、北です」
北極星か、と勇は驚く。ゲーム中はこの世界がどのような星に位置するかということについては言及されていなかったし、星空を用いて何か攻略する要素はなかったので気づかなかったが、勇のいた世界とよく似た天体、よく似た星なのだということがわかった。
「おう、俺は目は良いからな」
「よかった」
色々教えてくれてありがとうな、とベヒーモスは頭をかく。困ったときはお互い様です、というマルタンに、ベヒーモスは再度ありがとうと言って、大きな手で握手を求めた。ごつごつとした手が、マルタンの小さな手を優しく包む。
「ベビモ先輩、どうぞご無事で」
「ああ、お前も」
お前らもすまなかった、と頭を下げると、ベヒーモスはマルタンに言われた通り、自分の影が伸びるほうへ走り出した。安堵やいろいろな感情が入り混じって、勇は深くため息をつく。
「さて、わかりましたかイサミくん」
「あ……」
ベヒーモスの背を見送ったクラウスが勇に振り向く。
「僕たち魔族につくというのは、こういうことです」
「クラウス」
アドラは止めようとしたが、マルタンが小さく首を横に振ったのを見て思いとどまった。クラウスの言葉を聞いても勇は変わらない、とマルタンの目が語っている。
「勇者への敵愾心が強い、先ほどのようなタイプには『人間』というだけで敵視される可能性がある。そして、人間と鉢合わせれば僕たちを連れていることで敵、裏切り者とみなされる」
人間と魔族が行動を共にすることは、現状リスクの方が大きいと思いますよ。とだけ言ってクラウスは口を閉ざした。勇と魔族三人との間に、強く風が吹く。色づいた葉が、流れていった。さわさわと木を揺する風の音が、やけに大きく聞こえる。勇は、自分の心音を落ち着けるように深く息を吸って、吐いてから、告げた。
「それでも、俺は一緒に行く」
マルタンが、勇の方へ一歩進んだ。
「今がそうであったとしても、俺たちが手を結ぶことで何かが変わるなら良いのかもって……、どうせこの世界で生きていくなら、俺はマルタンたちが不幸になるのを見たくない」
色々見てしまった、知ってしまったからには、引き下がれないと勇は言う。その勇に寄り添いマルタンは嬉しそうに鼻をフスフスさせた。
「ベヒーモスで腰抜かしてたやつの発言とは思えねえな」
アドラが笑った。
「こういうやつなんだよ。珍しい人間だろ」
クラウスはアドラにそう言われて、同じように吹き出した。
「確かに」
「さっきのベビモくんでもわかったけど、やっぱり君ら魔族ってそんなに悪いものではないんじゃないかと思って」
学校を焼かれて、無差別に襲われて、散々な目に遭ったのに、最後は冷静に話ができるまでになったじゃない、という勇に、マルタンはそれが普通ではないのかと目を丸くする。世の中には話し合いが通じない相手もいるし、皆が皆自分の非を認めて謝罪できるわけではないと教えると、さらにその目をまんまるくした。
「変な人間よりよっぽどまともだよ」
「っははは、言うじゃん」
それなら俺はまともな方につきたいって、そう思っただけ。という勇は、ほこりを払って北の方角を見た。慣れない旅路に、足はひどくくたびれている。それでも、その足を一歩前に踏み出すのだった。