「ひゃっ! あわ、わっ……」
マルタンは小さく悲鳴を上げて、手をちたぱたさせた。男も小さく悲鳴を上げる。
「ひっ……! クマ!? モンスター!? あわわわわわ!」
二人同時にしりもちをつく。
「あっ、あっ、マルはっ、わたしは、悪い魔物じゃないんです、殺さないで」
「わっ、わっ、殺さないで!」
お互いまったく同じことを言っている。
「……あれ?」
「え?」
そして、二人はランタンをはさんで顔を見合わせた。男はマルタンの姿をじいっと見つめ、そしてつぶやく。
「え? ……ハムちゃん……? 喋った……?」
「はむ……?」
聞き返すと、男はなにやらぼそぼそと独り言を続ける。
「いや、ハムスターにしてはでかいな……」
「あのぅ……?」
マルタンは小さく首をかしげた。男にはまるで殺気がない。こちらに危害を加える気はなさそうだ。
「ああ、いや、ごめん。えーと、まずお互い敵意はないってことで良いよね」
しりもちをついた体勢から座りなおし、男はマルタンに問う。ほ、とマルタンも小さくため息をついて、小さな足で立ってみせた。
「はい。こちらに危害を加える気がない方に、何かをするつもりはありませんから」
「そっか、攻撃的じゃない魔物もいるんだね」
こくん、とマルタンは頷く。
「好戦的なのも中にはいますが、無駄な争いは避けたいので」
「俺も同じ。できるだけ穏便に済ませたいよねいろいろ……」
マルタンはふと疑問に思った。冒険者が単独で行動していることはこの世界では稀なことだ。熟練者ならともかく、この男は装備もあまり整っていないし、一人で戦えそうな雰囲気もない。いったいどうして……。
「わたしは『エビルシルキーマウス種』のマルタンといいます。あなたはどこから来たんですか?」
人に何かを聞くときはまず自分から。母親からよく言い聞かせられていたマルタンは礼儀正しく名乗る。
「エビルシルキー……やっぱり」
「はい?」
「いや、失礼。俺は勇といいます。ついさっきこの森の中でいきなり目が覚めて……」
「イサミさんは森の中で寝てたの?」
「いや、眠ったのは自分の家だったはずなんだけど」
「どゆこと」
マルタンは頭にたくさんクエスチョンマークをぶっ刺して眉間にしわを寄せる。
「あああ……こんなこと言っても信じてもらえないよな……でも、本当に気づいたら森の中だったんだ。寒いなって、なんか顔濡れてるなって思って起きたんだよ」
ますますわからない、とマルタンは首をかしげる。
「誰かにいたずらされてお外に出されちゃったんですか……?」
転移魔法でいたずらをするような悪いお友達が? と問うマルタンに、勇は乾いた笑いを返す。
「そんなまさか。そもそも、この世界じゃないところで布団に入ったんだ」
この世界は自分がかつていた場所ではない。雨が降る森の中地面に転がって寝ていた時点で元の世界であるということは考えにくいが、マルタンの存在をもってして、勇は確信した。
「え?」
本日2度目の『どゆこと』を飲み込み、マルタンは勇の次の言葉を待った。
「マルタンにとっての異世界にあたる、地球っていう星の『日本』っていう国からここへ多分飛ばされてきたんだ」
マルタンはついにくりくりのおめめが飛び出そうになった。
「にほん!?」
「聞いたこともないだろ?」
「いえ、昔絵本で読んだ伝説の国の名前です、ニホン! サムライがいて、ニンジャが夜に飛び回り、ゲイシャガールが舞い踊って風を起こし、それから、オスシがおいしい国!」
「全部違うようで一個だけあってる」
「えっ、オスシはおいしくないんですか!?」
「いや、お寿司が美味しいだけ合ってる」
まさか俺が生まれ育った国がこの世界でそんな風に語り継がれているなんてなあ、と勇は頬を掻く。
「して、どうして『ニホン』から来たんです? イサミさん」
「わからない。それと……ここがどこかの確信もない。教えてくれる?」
ああ、そうか、とマルタンは反省した。自分は質問ばかりして、この人の不安に寄り添えていなかった。父親に『魔族にも人間にも、敵意のない相手には分け隔てなく親切にしなさい』といつも言われていたのに。
「そっか、さっき来たばかりと言ってましたもんね、ごめんなさい。ここは、リベルテネス大陸。おそらく、位置としては人間の王都であるアロガンツィアから北西の位置かと思います」
わたしも無我夢中で走ってきたので正確な方位はわかりませんが、というマルタンに、勇は頷く。
「この際、方角はズレていても別にいいんだ。『リベルテネス大陸』、『王都アロガンツィア』そして、モンスターの名称『エビルシルキーマウス』これではっきりしたよ」
何がですか? と問うたマルタンに、勇は一つ深呼吸をして、それから伝えた。
「ここは、俺がここに来る直前にプレイしていた『救世の光』というゲームの中なんだと思う」
「げーむ?」
聞き慣れない言葉に、マルタンはまた首をかしげる。
「ゲームっていうのは、……難しいな」
ゲームという概念がない世界の者に説明するのに、勇は少し考え込んで、それから口を開いた。
「架空の世界を旅して歩く遊び、かな、現実世界では絶対にできない、魔法をつかったり、悪い奴をやっつけたり……それが、俗にいうRPGっていうジャンルのゲームになる。『救世の光』は、オンラインRPGだったんだ」
そこまで説明して、勇は小さく「あ」と声を上げる。またマルタンが目をまんまるくして首をかしげているのだ。勇が自らの説明が下手だということにうろたえているのに気づき、マルタンも慌てて両手を顔の前で振って見せた。
「すみません、イサミさんの説明には過不足はないんです、わたしが聞き慣れない言葉ばかりで、その、混乱して」
「ううん、ごめんね、概念がない言葉を説明するのって難しいね……オンラインっていうのは、その『ゲーム』の中の仮想世界に何かしらの『機械』を使ってアクセスして、それで離れたところに住んでいる人とも一緒に冒険ができる仕組みとでも言ったらいいかな」
「ふんふん」
なるほど、とマルタンは頷いて、イサミさんの世界の人間は遊ぶことや冒険が大好きなんですねぇと感心したように言った。
「そうじゃない人もいるけどね」
「魔族と一緒ですね」
いろんな方がいる。そう言ってマルタンはぽてん、とお尻を地べたにくっつけた。
「すみません、足を崩します」
「あ、どうぞ……緊張してたの?」
マルタンは、かしかし、と鼻の頭を掻くと、恥ずかしそうにうなずく。
「はい、わたし、実戦は未経験で……人間と面と向かって話すのも初めてで」
はは、と勇は笑った。
「記念すべき人間第一号が異世界人なんてすごいね」
しかも、戦ってない。と続けると、マルタンもふふ、と笑った。
「そうですね、ここまで逃げてくるのに必死で……なんだか緊張の糸が切れちゃって」
ちょっと毛づくろいしていいですか? と許可を得ると、マルタンは首の後ろの方に小さな手を持って行って、頭を抱え込むようにぐりんぐりんと毛づくろいを始めた。
(ふわふわだ……)
ゲーム内では牙をむいてプレイヤーたちに襲い掛かってきたエビルシルキーマウスが、こんなに近くでリラックスして毛づくろいしている。見れば見るほど巨大なゴールデンハムスターだ。勇は、なんだか気が抜けてしまってふへへ、と間抜けな笑いをこぼした。
「? イサミさん?」
「ああ、ごめん、なんだかかわいらしく見えてしまったもんで」
ハムスターみたい、と続けた勇に、マルタンはハムスターって? と質問する。
「こっちの世界で人気の小動物だよ、ペットとして飼う人が多い生き物」
「ええ!?」
「と言っても、ハムスターはもっと小さいの。このくらい」
勇は両手で10㎝くらいの長さの楕円を作って見せる。マルタンはそれをしげしげと見つめ、うーん、と唸った。
「ところで、マルタン、さっき逃げて来たって言ってたけど」
はっ、とマルタンは息を飲んだ。まだ、勇が本当にこちらを襲ってこないともわからない。それなのに、ずいぶんとしゃべりすぎた気がする。いつも友人から、マルタンはおひとよしで迂闊で、見ていて心配だよと言われたものだ。