もうどれくらい走っただろうか。後方ではごうごうと音を立てて、昨日まで机を並べて学友と共に過ごした学び舎が燃え崩れ落ちている。小さなピンク色の手足をせわしなく動かして、それは転がるように走った。「それ」の名は、マルタン。
「ここまでくれば……」
息が苦しい、もう限界だった。マルタンは、足を止める。その鼻先に、ぽつん、と雨粒が一つ落ちてきた。ぷる、と身震いをひとつ。
(濡れちゃう……雨宿りできるところ……)
ほんの数刻前のことだった。場所は、『魔族防衛専門学校』の校庭。
「皆さんが静かになるまでに5分かかりました」
ごおう、と火を吐きながら、教頭が告げた。この学校での朝礼は、サイズが多種多様の生徒を一堂に会するために校庭で行われることになっている。
「教頭先生こえー」
「こら、またしゃべってると叱られるぞ」
隣に並んでいたゴブリンの男子が、つつきあっている。火を噴いた黒いドラゴンは、ゴブリンの方をじろりと見遣り、そして咳ばらいをひとつ。
「それでは、校長先生のお話です」
促されて前に出たのは、真っ白な美しいドラゴンだった。
「今日も皆さん息災ですか」
品の良い老女の声で、ドラゴンはそう尋ねる。はーい、と校庭から元気な声が返ってきた。にっこりと微笑むと、彼女は頷いた。
「大変結構なことです」
そのときだ。
ドン
と、校舎の方から大きな音が聞こえた。
「火事だ!」
学年主任のメドゥーサが叫ぶ。校長は、瞬時に校庭全体に結界を張る。
「先生! 何が起きているんですか!?」
「なんで火事……」
獣型の魔物たちは、本能的に炎を嫌う。ここにいるマルタンも例外ではなかった。薄桃色の鼻先を、すん、と動かす。よく利く鼻に、木造校舎の焼けるにおいが刺さった。不安に鼻先をうにうにと毛づくろいし、心を落ち着けようとするが……。
「なにかわかりましたか」
「奇襲です! 異常なまでの魔法エネルギーを感知しました。校舎に巨大な火球が直撃、火球は手練れの魔法使いによるものと思われます!」
甲冑の魔物が校長に報告。校庭がざわつく。
「みなさん、良いですか。こちらに大きな隠れ身の結界を張りました。校庭の存在にはまだ気づかれていないでしょう。ですが、わたくしの力にも限度があります。数分と持ちません。急いで、校舎と逆方向へ逃げるのです。できるだけ、散らばって!」
散らばれ、と指示したのは、固まって動くと魔物特有のエネルギーを感知できるものが敵方にいた場合、単体で動くよりも見つかりやすくなってしまうからだろう。血の気の多そうなベヒーモスの上級生が問う。
「戦わないんすか!」
「馬鹿をおっしゃい! あなた方はまだ半人前、あのような火球を放てる相手に敵うレベルではありません。今は生き延び、鍛錬を重ねなさい。そして再び無事な姿で会し、魔族の国を守るのです」
普段は声を荒げることなどない校長がベヒーモスを窘める。
「人影が向かってきます、早く逃げて!」
校舎から飛んできたガーゴイルの教務主任が叫んだ。
「いいですか、皆さん。わたくしはぎりぎりまでここで結界を維持します」
「校長先生!」
ガーゴイルと教頭が早く逃げろというのを首を横に振って拒むと、校長は笑った。
「生徒と、あなた方大切な教師陣を守り抜くことがわたくしの務め。大丈夫、皆さんを見送ったあと、わたくしもちゃんと避難します」
うろたえる生徒、教師陣に、校長は声を張った。
「さあ、早く!」
その声にこたえて、皆一斉に地を蹴った。翼のあるものは上空へ、ないものは、地を駆ける。変化の魔法を既に習得しているものは化け、加速のスキルを持つ者はそれを発動した。マルタンは、まだなにもない。懸命に四肢を動かして、走るほかなかった。生まれつき持っているのは、よく利く鼻と、小さな音、遠くの音も聞き分けられる優秀な耳。逃げるにはよい体だったかもしれない。
「……」
生徒と教師陣が逃げたことを確認すると、校長――白いドラゴンは大きく息を吐いた。それから、大きな翼を広げると、ふらつきながら北の空へ向かい飛び立っていったのだった。
雨に濡れると体温が下がってしまうし、マルタン自慢の絹毛の体毛もぺっしゃりとしてしまう。文字通り濡れネズミになってしまうわけだ。それに、雨と土の匂いは周囲の状況を分かりにくくする。むやみに動くのはよくないと判断し、マルタンは周囲を見回した。
「あ」
ちょうど、おあつらえ向きな小さな洞穴がある。人間であれば三人くらい入るのが限度の、岩肌を少しくりぬいた程度の場所であったが、雨をしのぐのであれば十分だ。今夜はここでとりあえず朝を待つことにしようと、早速駆け込む。
(みんなは大丈夫かな……)
ここに逃げてくるまでに、校長の言いつけ通り皆散り散りになった。先を行く者たちをマルタンも目にしていた。二人一組で逃げる者もあったが、ほとんどは単独で動いている。騒動が少し落ち着いたころに互いを探しあい合流できればいいのだが。
ああ、足が重たい。
雨音は次第に強くなっていく。
「へぷち」
小さくくしゃみをして、マルタンはその場に丸くなった。教科書やおやつは校舎に置いてきてしまっているから、何も手元にない。真冬じゃなくてよかったな、と身震いを一つして、マルタンは浅い眠りについた。
ゴロ、ガラゴロ……ドン!
という、大きな雷の音でマルタンは目を覚ました。
「!?」
これは近くに落ちたかな、どれくらい眠っていたんだろう。考えながら、ゆっくりと体を起こす。ふかふかの体毛と程よくついた脂肪のおかげでごつごつの地面の上で寝ても体は痛まなかった。外の方へ目を向ける。雨はまだ降っていた。しばらく、ぼーっと外を眺めていると、ぱしゃぱしゃと水たまりを踏むような……駆け足でこちらに近づいてくる音が聞こえてきた。
(……だれか、くる!)
びくり、と体を震わせた。ああ、おとうさんおかあさん、マルタンはここまでかもしれません……祈るように手を組んで、マルタンはぎゅぅ、と目をつむった。ここから飛び出せば鉢合わせになるだろう。この場所に相手が気づきませんように……。狭い洞穴の一番端に寄って、マルタンはバクバクと忙しない心音に落ち着けと言い聞かせる、が。
その願いは儚くも打ち砕かれた。
足音は、洞穴にそのまま飛び込んできたのだ。
「っはー、……ッ……」
マルタンは夜行性の魔物だ。近眼ではあるが、夜目が効く。だから、足音の主の姿もとらえることができた。170㎝程度の、細身の人間の男。それだけは分かった。腰にはショルダーバッグ、手には小さなランタンを持っている。息を切らし、膝に手をやって中腰で呼吸を整えている男はまだこちらに気づいていないようだった。このまま彼の横を猛ダッシュですり抜けるか? いや、もし彼が手練れの冒険者だったなら、反射的にマルタンを斬り捨ててしまうだろう。気づかれれば同じか? どうするべきか皆目見当がつかない。マルタンは涙が出そうになるのをこらえ、必死で考えた。
考えろ、考えろ! 校長先生の言うように生き延びるすべを、なんとか……!
「っぷ」
こんな時に、鼻が鳴ってしまった。
「! だ、誰かいるんですか!?」
男がこちらへランタンの光を向けた。雲に月がすっかり覆い隠された夜。うすぼんやりと洞穴の中が照らされる。