覚えてなくとも「出会えたことが嬉しかった」と、告げることはもう出来なくなってしまったが、それでも彼がこれ以上悲しむ未来を防ぐ時間はまだ残っているはずだと、シルヴィアはそう自分に言い聞かせた。
(過去は変わらない……。でも……この先の未来なら……)
シルヴィアは、自分の中に残っていたラフェドへの思いごと、過去と折り合いをつけた。
未練も今の呪いのせいで、木っ端微塵に吹き飛んだのだ。そう考えると、あの呪いが今発動したのも、これはこれで良かったのだろう。
時折芽衣李としての時間は間違いなく、あの時に終わっているのだから。
(転生して記憶が残っていたから、ずっと延長線のように感じていたけれど、これで時折芽衣李を終わらせることができたのは……良かった。そう良かったこと)
あの時の気持ちも、思いも、宝物の一つとして完結した。
それは転生した先が、悪役令嬢という心を抉られる生き方だったのもあるだろう。
その選択肢を選び取ってしまうほど、シルヴィアの心は疲弊しきっていた。
だからこそバッサリと切り捨てたのは、これ以上傷つかないための防衛本能のようなものだ。
「急に黙ってなんなんだ?」
「いえ。………もしかしてアルベルトさんは、その本がここにあると知っていたから、わざわざこちらに出向いたのですか?」
「んな訳あるか。……昔、この手の本を全巻集められるかどうかの賭を──したことを思い出しただけだ」
「……そう、ですか。……それにしても『捻くれ悪魔と異国の少女のアルカナム第一巻』って、可愛らしいタイトルですね。意外です」
「うるさい」
アルベルトは本を着服しそうになったので、シルヴィアは慌てて手を掴んだ。ぐぐっと手に力を込めるが、アルベルトは涼しい顔をしている。
(ラフェドの記憶を剥がした人は、善意と言っていた。それはラフェド自身が望んだと言うよりは、善意の第三者が見ていられなくて記憶を剥がした可能性もある。……でも、とりあえず上司と部下という距離感を維持するために、賄賂を送っておくぐらいはしておくべき……よね?)
「まだ何かあるのか?」
「……聖職者であるアルベルトさんが、横領ってどうなんですかね?」
「聖女候補が試練だと知らずに、山賊まがいの強奪なのもどうなんだろうな」
「……………」
(またやってしまった! これが物語の矯正力!? ラフェドだと思うとつい、いつもの癖で……)
沈黙。
そもそも聖女候補と大司教がしていい会話内容ではない。
そして自分たちが聖職者だということを再認識し、互いに深い溜息を落とした。
シルヴィアは自分自身が清い人間じゃないと自覚しているし、この洋館は正式――やや強引かもしれないが、妥当な金額を支払ってシルヴィアの物となったのだ。
洋館の中身も自分のものだというのは、強欲かもしれないが、その辺りの理由で本を渡さないこともできる。
「(……でも、ここで本を渡さないと、あの魔術師に何か勘づかれるかもしれない? 私があの空間内での記憶が残っていると言うのは隠しておいた方がいいし……)アルベルトさん、その本を一度読ませて貰っても?」
「何だ、気になるのか?」
「ええ。見たことのない上品な上製本ですし……もし読ませていただけるのなら、その本をアルベルトさんに贈呈しようと思います」
「物わかりが良いな」
アルベルトは一瞬、思案したがすぐに本を差し出したので、手に取ると思っていたよりも軽い。
左綴じで左開きの
「この表紙素材は何だか立派のようですが、特別素材を使っているのでしょうか……」
「……目は良いようだな。それは黒牛竜の皮を使っている。紙は朝羊雲の羊皮紙に、ルーナ・プレーナ工房作の十五夜の万年筆で書かれているな。春摘みと銀湾のインクと、どれも最高級の素材を使っているものだ。なんだ素材が珍しかったのか」
「まあ、そんなところです」
殆ど聞き慣れない単語があったが、シルヴィアは忘れないように心の中で何度も反芻する。アルベルトの説明だけでも、この本を作り上げた者のこだわりが、ヒシヒシと伝わってきた。
シルヴィアはページを捲り物語に目を通す。幸いにも読むことができたので、少しだけホッとした。
物語はよくある異種族と人間の少女との出会いだ。名前はシルヴィアの前世の――芽衣李でも、ラフェドを彷彿とさせる特徴もない。
それでもこれがなぜ物語という形の本になっているのか、賭をしたというアルベルトの話を聞いて腑に落ちた。
(とりあえず、あの道魔術師は見つけ次第報復をするとして、呪い解除のためにも味方を作らないと。信頼できる関係を気付くのなら、さっきポップアップに出てきた使い魔契約なんかいいかもしれない)
ここでシルヴィアは本探しを含めて、新しい目的が生まれた。
明確にやるべきことが見つかるというのは、これからの生活環境も含めて思案すべきことだったので、この段階で得ることができたのは僥倖だったと自画自賛する。
本をアルベルトに返すと、さっと自身の所有空間にしまったようだ。
そんなことをしなくても奪い返したりはしないのだが、とシルヴィアは顔を僅かに顰めた。
(まあ、呪い解除であの本を燃やせって言うのなら、力尽くで奪い取るけれど!)
「聖女候補としての書類申請書はこれだ。それと聖女候補としての冊子、この国のマップも渡しておく。
(仕事自体はキチンと説明してくれるので、上司としてはいいのかも)
アルベルトはリビングのテーブルに、必要な書類を山のように載せた。この国についての資料やらマップなどもしっかりと揃えている。テキパキとした姿を見てお礼をし忘れていたと思い、シルヴィアは慌てて感謝を口にした。
「ありがとうございます」
「それと生活基盤を整えるため仕事は、そうだな……一週間後で構わない。生活が苦しい連中はそうも行かないだろうが、お前の場合はすでに土地と財産があるからな」
「はい」
ふとそこで話が終わるかと思ったのだが、獣のような唸り声によって遮られた。
それは二足歩行の人型の姿をしているものの、蜥蜴のような頭に艶やかな鱗、頭には白く長い角。露草色の瞳、青紫色のたてがみ、手と足は鱗に覆われた竜族は、司祭とは異なるが袖と裾の長い白いローブを羽織っていた。
「人の子……」
(あ、しまった!)
シルヴィアはドラゴンを放置していたことを思い出す。光魔法の拘束時間をすっかり失念していたのだ。魔法を使って浮かれていた自分を呪った。
こんな素敵な家の中での戦闘は避けたい。シルヴィアが考えていたのは、そんなことだった。