アルベルトは我が物顔で、リビングの本棚から黒い背表紙の本を取り出していた。
見た目的に魔導書めいた上製本だが分厚さはなく、絵本並みの十ページ前後の非常に薄い本だ。聖職者らしく、禁書目録的なものを回収しているのだろうか。
そう思ってのだが、タイトルを見てシルヴィアは固まった。
(え……)
ページのめくれる音が耳元で聞こえ――。
ふと気付けば、先ほどまでいた部屋のリビングではなくなっていた。真っ赤な絨毯に、大きなシャンデリアが吊され、壁と壁には飴色の本棚には様々な本が詰まった大きな図書館内に早変わりする。
(ここは……? 別空間?)
『やあ、初めましてラフェドの婚約者殿。いや転生しているのなら元、と言った方がいいだろうか』
「!?」
艶やかな闇色のタートルネックにズボン、いかにも魔術師というようなローブを着こなす美青年が佇んでいた。褐色の長い髪に、オッドアイの瞳は軽薄そうな色をしていて、シルヴィアは警戒を強める。
「……さあ、なんのことでしょう」
『あはははっ、用心深いね。でもそんなのはどうでもいい。君と彼が再び出会うという条件が揃ったからこそ、この本が出現したからね。…………そして物語は繰り返す、
「呪い……」
天気の話をするような気軽さで青年は語るが、その物語の顛末を知るシルヴィアは息を呑んだ。
シルヴィアの前世、
(この声……、口調も、何処かで……)
遠い昔の何処か。
何かが終わる終焉の場所。
雨音と不快な嗤い声。
あれは――。
(……って、今は呪いの方!)
『物語沿えば、彼は徐々に記憶を取り戻し、君の破滅が近づく。愚かだけれど見ている側は、痛快な一幕となるだろうね。ああ、君が壊れた後の――王の終焉が待ち遠しいよ』
「…………悪趣味ですね」
『ありがとう、最高の褒め言葉だよ。まあ、君が転生したフォルトゥナ聖王国だって、似たようなものじゃないか。何百年も同じ舞台を繰り返す狂気の国。女神たちの箱庭。壊れた舞台で配役に選ばれた君が、別の箱庭で本当の終焉を迎えるなんてね。運命的だと思わないかい?』
(あの国が女神たちの箱庭?)
シルヴィアの中では、乙女ゲームの世界だと認識していたが、この世界側からすれば、狂気に等しい国という認識のようだ。
鎖国しているのは、何度も繰り返す舞台に改変されないためなのだろう。
(であれば
高位の人外、それも複数で作り上げられたのなら、最初から
この十八年間の頑張りは無駄だったが、シルヴィアは絶望しなかった。
絶望するにはまだ早すぎる。
(ああ、でも――かつての私とラフェドとの物語は、ううん。この呪いは、まだ回避できる可能性が残っている)
ほんの僅かな可能性。
ゼロに等しいけれど、悪役令嬢だった頃よりも、ずっと選択肢は多いのだ。
シルヴィアが黙っていたことで、怯えていると受け取った青年は口元を歪めて、さらに心を抉ろうと言葉を紡ぐ。
『ふふっ、彼の記憶を本と言う形で引き剥がしたのは善意からだったのに、あれは本という性質を理解していなかった。物語はいつだって読者を楽しませるものだ』
「……ええ、そうですね。物語ならいつだって読者を楽しませて、心を弾ませるものです。けれど私の紡ぐ物語は、ハッピーエンドの一択だけ、それ以外の結末は認めないわ。全力で滅ぼしてみせましょう」
『……へぇ』
シルヴィアは、眼前の相手を敵だと認識を改める。だからこそ鈍色に煌めく刃の瞳で、魔術師を見つめ返した。
人間、それもか弱き女性と思っていた青年は、僅かにたじろいだが、すぐに口元に笑みを浮かべて開き直る。
『強がっているのも今のうちさ。記憶が戻りあの本の通りになって君が死ぬ末路か、あるいは君との記憶が永遠に戻らずに結ばれない終わりをするか』
「……貴方、本を書いたことがないでしょう」
『ん?』
「それとも様々な結末の本を、読んだことがないのでしょうか。……貴方の失点は、この段階でその様な呪いの道筋と、縛りがあると私に教えたことです」
言い返したシルヴィアに対して、青年は道化師のような仕草で声を上げて笑った。滑稽だと言わんばかりの姿に、シルヴィアはムッと眉をつり上げる。
そろそろ実力行使に潰したほうが手っ取り早いのではないだろうかと、苛立ちを募らせていた。
『これだから短絡的な人間は困る。何の策も無くこんなネタバレするわけがない。このやりとりは、この部屋を出た瞬間に忘れてしまう。これはそういうものだ』
「………っ」
シルヴィアの顔色が変わったことで、青年は満足そうに笑った。舞台役者のような大ぶりな一礼をして「これにて閉幕」と告げた刹那、シルヴィアの意識が現実へと引き戻される。
パキン。
「──っ!?」
音と共に数珠に亀裂が入り、真っ黒に染まったそれは灰となって消え去った。シルヴィアは一瞬、酩酊にも近い感覚に陥ったが、すぐさまぐっと唇を噛みしめて堪える。
(ああ……、そういう……)
シルヴィアはあの数珠を身につけておいて本当に良かった、と心から安堵した。敵は愚かではなかったが、爪が甘かったようだ。
特殊な空間あるいは領域においての記憶消去は、有効だったが、シルヴィアは悪役令嬢として断罪される未来を想定して、様々な対策を講じていた。
(虚偽進言判定、記憶喪失除外、精神汚染排除などの要素を詰め込んだ魔導具を身につけておいて良かった……)
それはシルヴィアが転生してから、積み上げてきた成果だ。悪役令嬢という未来は変えられなかったが、それでもその先の未来に向けての選択肢を広げてくれたことに、ホッとした。
(人外の結婚は生涯で一度。昔、人間の感情をより効率よく得ようと重婚やらをして、人間を喰い潰していった魔人がいたから世界の理として上書きしたって、ラフェドが教えてくれたのよね。幸いにも婚約ならノーカンなはず! 指輪をどう返すかだけれど……まあ、その辺は未来の自分に丸投げしよう)
「……なんだ?」
アルベルトは不機嫌そうな声で、シルヴィアを見ていた。その表情に対して、シルヴィアは笑みを貼り付ける。