その結婚式はプログラムを順調に消化し、いよいよ佳境を迎えようとしていた。
会場は小高い丘にたたずむ白を基調としたモダンなチャペル。よく晴れた日曜午後の式には百人を超す招待客が出席して、新郎新婦の晴れ姿を見守っていた。
一方、招かれざる客の俺はもうかれこれ一時間以上控え室のドアの隙間から、式の様子を遠巻きに眺めていた。
天窓からはやわらかい自然の光が降り注ぎ、パイプオルガンの音色はどこまでも暖かく、チャペル内にはいたるところに白いユリが飾られていた。
トラブルらしいトラブルは何もなかった。バージンロードを新婦と歩き終えた父親が新郎に娘の手を渡す際に、ちょっと躊躇したくらいだった。でもそんなのはトラブルのうちに入らない。これまでのところ、完璧な結婚式と言ってよかった。
ただ一点、晴れの日なのにも関わらず、花嫁がずっと浮かない表情をしていることをのぞいては。
もう一人の招かれざる客である太陽が、客席を見て口を開いた。
「しっかしさすが周防家と高瀬家の結婚式だ。そうそうたるメンツがご臨席してやがる。市議会議員、代議士秘書、地元企業の社長、地銀の頭取――この街の政財界のVIPが勢揃いだ。おまけにきれいどころもな。でもあれだな。今さらながら、高瀬さん、ヤバイくらいきれいだな。誰にも負けてねぇ。お世辞抜きで今、この街で一番きれいなんじゃないか」
俺はうなずいた。宝石がちりばめられたティアラを頭につけ、ヒールの高いブライダルシューズを履き、純白のドレスに身を包んだ高瀬はさながら、どこかの国のお姫様みたいだ。
「きれいなんだよ、高瀬は。この街で一番どころじゃない。世界で一番きれいだよ」
太陽は肘で小突いてくる。「そういうことはよ、ここでつぶやくんじゃなくて、本人の前で言ってやれって」
「おう、いくらでも言ってやるさ。これに限らず、今まで言えなかった言葉を。作戦が成功したらな。いや、させる」
「その意気だ」太陽は式のプログラムを確認する。「さて悠介。もうちょっとで本番だが、緊張してるか?」
「胸を触ってみろ」
彼は俺の左胸に手を当てて、すぐに離した。
「すげぇ。中で誰かがトンカチで釘でも打ってんのかと思った。そんくらい、心臓がバクバクいってんな」
「それが質問の答えだ」
「まぁでも悠介」と太陽は鼓舞するように言った。「緊張を煽るつもりで言うわけじゃないが、これは一世一代の大勝負だ。チャンスは一度っきり。失敗は許されない。この次もなけりゃやり直しもきかん。まさに人生を賭けた一発勝負。怖じ気づいてちょっとでも逃げ腰になったら、目的は果たせない。それはわかってるな?」
俺は深くうなずいた。
「わかってるよ。俺はもう逃げない。幸せになることから。文字通りこの手で幸せをつかみにいく」
真剣な顔で右手を見つめていると、太陽が隣でぷっと吹き出した。
「セリフと格好が合ってねぇよ。そんなブキミな姿じゃ、何を言っても台無しだ」
「おまえだって人のこと言えないだろ」
我々は鏡であらためて自分たちの姿を見た。どちらもフード付きのマントで全身を覆っている。俺は漆黒で太陽は深緑。異様な二人組としか言いようがなかった。
そこで別のドアから、タキシードを着たチャペルのスタッフが入室した。太陽が慌てて耳打ちしてくる。「よし悠介。今からおまえさんは“未来の君”の占い師だ。そしてオレは弟子。くれぐれも正体がバレないようにな」
「了解」俺はフードを深くかぶり直すと、マントの下に忍ばせてあるループタイ式ボイスチェンジャーをオンにした。
スタッフはこちらに近づいてきて、うやうやしく礼をした。
「それでは先生。そろそろお時間ですので、新郎新婦様の前まで来ていただけますか?」
「わかりましてございます」と俺は占い師の口調を真似て言った。その声は機械を通してすっかりしゃがれた。
俺が一歩進むのもつらいというように腰を折りながら歩くと、後ろから太陽も着いてきた。それを見てスタッフが制止した。
「あのですね、助手の方はこちらで待機していただくことになっておりまして」
俺たちの立てた
「先生はご高齢につき、なにかと介助を必要とされます。僕がそばにいないといけません」
スタッフは
「見ておわかりの通り、わたくしめはまともに歩くのもままならぬ老いぼれの身。ややもすると、新郎新婦の前で言葉がつかえて出てこないやもしれませぬ。そうなればせっかくの式に水を差すことは必定。しかしこの者が近くにおりますれば、万一の場合でも、助けを借りることができまする。円滑な式の遂行のため、どうかご理解を」
スタッフは迷ってから時計を見て、渋々首を縦に振った。彼が控え室から出て行くと、俺たちはほっと安堵した。
「ヒヤヒヤもんだな」と太陽は言った。
「トンカチで打つものが釘から杭に変わったよ」と俺は胸を抑えて言った。
ほどなくして会場では司会が“スペシャルプログラム”の開始を告げた。いよいよその時が来た。
俺は深呼吸をしてから、両の頬を叩いて気合いを入れた。
「よし。純潔作戦、開始だ」
「ああ。ショータイムの幕開けだ」
俺と太陽が占い師とその弟子に成りすましている理由――それは俺が幸せをつかんでこの物語をハッピーエンドで終えるために他ならない。いったい何がどう転んでそうなったのか。話は卒業式の三日後にさかのぼる。
♯ ♯ ♯
周防との結婚式の真っ最中に高瀬を俺がかっさらう。
卒業式のあと、起死回生の一手として悪友が思いついたのは、そんな古典的で痛快なアイデアだった。俺はそれに乗った。花嫁泥棒になる覚悟はすぐに決まった。そして太陽とふたりでよく話し合って、計画を立てていった。
俺が名付けた作戦名は純潔。桜の花言葉は? と以前聞かれた高瀬が答えたのがその言葉だった。
これからずっと春には一緒に桜を見ようという意思の表れでもあるし、なによりも周防に彼女を渡さないという意志の表れでもある。この作戦にこれ以上ふさわしい名はないように思えた。
とはいえこの純潔作戦を成功させるには、どうしてもクリアしなければいけない問題がひとつあった。
「問題は」と俺は言った。俺と太陽は小高い丘のチャペルを望遠鏡で眺めていた。「どうやって式場に入って、どうやって高瀬に接近するか、だ。子育て中のクマ並に警戒心の強い周防のことだ。間違いなくセキュリティをガチガチに固めるはずだ。そうなると例えば真っ正面からチャペルの扉を開けて、『ちょっと待った』と叫んで、高瀬を連れ去っていくなんてのはまず不可能だ。さて、どうしようか」
「城を攻めるにはまず、
「そうは言っても、どうすれば」
彼は得意げに口角を上げて、バッグから何かを取りだした。
「じゃじゃーん! こいつがなんだかわかるか? 結婚式のプログラムだ」
「ああっ! どうやってこんなもの手に入れたんだよ?」
「オレの顔の広さを見くびってもらっちゃ困るな。友達の友達のまたその友達あたりに周防に近しい人物――X氏がいることを突き止めたオレは、彼に接触をはかった。そして厳しい交渉の末、あるものと引き換えにどうにかゲットしたのがこいつだ」
「あるもの?」
太陽はバッグから今度はDVDか何かのパッケージをちらっと出した。「爆」であるとか、「豊」であるとか、「巨」であるとか、「乳」であるとか、そういうワードが所狭しと躍っている。
「なんだよ、これ……」
「我々胸フェチ界隈では知らぬ者はいない伝説の逸品だ。表には出回っていない。X氏はオレの同志だった」
俺は呆れた。「X氏、たいそうな堅物かと思ったら、こんなんで動くのかよ」
「バッカ野郎。エロは世界を動かすんだぞ」
俺は太陽にこの後どんな未来が待っていようとも、外交官にだけはならないことを祈った。
「とにかく悠介。まずはこいつを読んでみてくれ」
「わかった」俺は気を取り直して、そこにイヤみったらしいフォントで記された式次第を順番に確認した。新郎新婦入場、オルガン演奏、讃美歌斉唱、それ以降は招待客の祝辞が続く。そこまでは何の変哲もないチャペルウエディングだ。注目すべきはその後だった。俺は思わず目を剥いた。
「なんだこの、
太陽はよくぞ気づいたという風に指を鳴らした。
「やっぱそこが引っかかるよな。オレもそうだった。だからX氏に尋ねた。オレたちは同志としてすっかりその頃には打ち解けていたから、彼はすんなり教えてくれた。聞いて驚け。周防はそこで、“未来の君”の占いを再現する気だ」
「あの占いを、再現する?」俺は意味がよくわからず、首をかしげた。「どういうことだ?」
「そのまんまだよ」と太陽は言った。「占い師を式場に特別ゲストとして呼んで、高瀬さんの“未来の君”が誰なのか、あらためて占わせるつもりなんだ。周防の奴、自分が高瀬さんの“未来の君”だと知って以来、そのことによっぽど気を良くしているらしい。あの占いはこの街じゃ当たると評判だ。いかに自分と高瀬さんが運命の絆で固く結ばれているのか、大勢の招待客に見せびらかしたいんだろうよ」
俺は卒業式の日に、“未来の君”のことを勝手に話して勝手に舞い上がる周防を思い出した。
「そうか! あいつは本当のことをひとつも知らないんだ。占い師の正体は松任谷先生であることも、占いはなんの根拠もないデタラメであることも、“未来の君”ってのは松任谷先生が娘を救うために作り出したいかにもそれらしい造語であることも!」
「この占いの後に指輪交換、誓いの言葉、誓いのキス――とまさに結婚式のメインイベントが続くところを見ても、周防がこの余興にいかに熱意を込めているかわかるってもんだよな。まったく、何も知らないで、おめでたい野郎だよ」
俺はプログラムにある「誓いのキス」という五文字を目に焼き付けた。そしてこのキスだけは絶対に阻止しなければ、といっそう決意を固くした。
「なぁ太陽。周防があの占いを式で再現するつもりだというのはわかった。それで結局、どうやって俺はあのチャペルに侵入するんだ?」
「なんだ。まだわかんねぇのか?」
「すまん。わからん」
「悠介、おまえさんが占い師になるんだよ」
「はぁ?」
「おまえさんが占い師になれば、こそこそせず、堂々と式場にも入れるし、高瀬さんにも近づけるじゃねぇか」
「待て待て。言うのは簡単だけど、すぐに俺だってバレるって。そんで摘まみ出されるって」
「それじゃ尋ねるが、未来の君の占い師はどんな格好をしていた?」
「そりゃ、顔を含めた全身を覆う漆黒のマントで……」そこで俺はようやく太陽が思いつきで言っているわけじゃないことを理解した。「なるほど、そういうことか!」
「ああ。あの格好をすれば、まずバレねぇよ。だいたいが謎の人物なんだ。誰もホンモノかどうかなんて疑いすらしないだろうよ」
「となると次は声だな。あの独特のしゃがれ声をどうやって出すか」
「ホンモノの占い師を頼ればいい」と太陽は言った。「その声もたしかループタイに内蔵されたボイスチェンジャーで出してたんだろ? いっそマントもループタイも本人から借りればいいんだ」
たしかに、と俺は思った。事情を話せば、松任谷先生なら必ずや協力してくれるはずだ。なぜなら先生は俺にひとつ大きな借りがあるからだ。
娘の命を救うためとはいえ、占いによって俺の高校生活を混乱させたことに彼は罪悪感を抱いていた。そして良心の
これはあの人の心残りを解消する、またとないチャンスでもある。
「わかった。さっそくこの後、先生に会って頼んでみる」
「よし。着実に作戦成功が近づいているな」
「あとは高瀬をうまく連れ去れるかどうかだ」と俺は腕組みして言った。「結局はそこだ。それにすべてがかかっている。取り押さえられたりでもしたら、一巻の終わりだ」
太陽はひとしきり考え、それから言った。
「やっぱりオレもいた方がいいな。よし。オレも当日、チャペルに潜り込むぞ。占い師の弟子とでも言えばなんとかなるだろ」
俺は華やかなチャペルの中で怪しいマント姿の二人組がいる光景を思い浮かべた。可笑しいったらなかった。でもハッピーエンドをつかむためのれっきとした作戦なのだから、笑っちゃいけない。なんだかそれはギリシャ神話に出てくるトロイの木馬作戦を
「おもしろくなってきた」と太陽は言った。「それじゃ悠介。先生から衣装一式を借りることができたら、さっそく今夜から街に出て占い師になるんだ。そのうち周防家の人間がこのプログラムと菓子折でも持ってきて、向こうから式に招待してくれるだろうよ。招かれざる客だとも知らずにな」
俺はうなずいた。そしてあらためて、“スペシャルプログラム”という字に目を落とした。
「周防のやつ、独断でこいつを決めたんだろうな。もし高瀬に一言でも相談していたら、“未来の君”が本当はどういうもんなのか、知ることができたはずだ。そういう独りよがりなところが結果として、俺たちに付け入る隙を与えた。まったく。最後の最後にあの占いに助けられることになるとはな」
太陽と立てた作戦のことを話すと、松任谷先生は一も二もなく首を縦に振った。よろこんで協力を申し出てくれた。
彼はどうやら以前授業中に重箱の隅を突くようなことを周防に指摘された苦い経験があるらしく、それをひそかに根に持っていた。他者に対する敬意がないと嘆いていた。同感だった。
先生はマントやループタイを貸してくれるどころか譲ってくれた。そして占い師の話し方や身振り素振りのレクチャーまでしてくれた。
そのようにしてホンモノからお墨付きを得た俺は、その夜から占い師として街に身を置いた。当然ながら人生に迷える人たちが占いを求めてきた。俺はそれっぽい言葉を並べ立てて、なんとかしのいだ。代金は受け取らなかった。練習相手となってくれるだけで十分だった。
そして五日目の夜、本当に周防家の人間がやってきた。俺は弟子の付き添いを条件にして、式への参加を承諾した。そしてフードの下でほくそ笑んだ。先生に教わった笑い方で。
♯ ♯ ♯
「さすが先生じきじきの指導を受けただけあって、占い師姿もすっかり板についてるな」と太陽は隣で言った。俺たちは舞台袖で出番を待っていた。「この作戦が失敗したら、春から二代目・“未来の君”の占い師としてやっていくのもアリだな?」
「縁起でもないことを言うな」
「冗談だって。緊張をちょっとでもやわらげようと思ってよ」
「わかってる」俺はマントの下から
会場では司会がマイクに向かって台本を読んでいた。
「それでは続きまして、いよいよスペシャルプログラムに移らせていただきます。ご出席の皆様はご存じでしょうか。今
俺と太陽は無言でグータッチを交わしてから、いざチャペル内へ足を踏み入れた。万雷の拍手が我々を迎えた。俺はフード越しのわずかな視界から会場を見渡した。高瀬はやはり浮かない表情をしている。対して周防は勝ち誇った顔をしている。高瀬家の面々も見える。バージンロードで娘の手をなかなか離さなかった父の直行さん。それから母の汐里さん。姉の明里さん。三人とも家族を花嫁として送り出すというよりはむしろ、いけにえに差し出すような、そんな暗い面持ちだ。
俺は隣り合って立つ新郎新婦の前で立ち止まり、ふたりに向かい合った。そこにはスタンドマイクがすでに用意してあった。事前に打ち合わせていた通り、太陽は俺から五歩ほど後方に陣取った。周防がこっちを怪しんでいる様子は少しもない。俺はもう一度ほくそ笑んだ。
「それではさっそく新郎新婦の相性を占っていただきたいと思います」と司会は言った。「先生、よろしくお願いします」
俺は精神を研ぎ澄ませると、幾度となく練習して頭にたたき込んだセリフを口にした。
「まずはこのようなおめでたい場にお招きいただき、心よりうれしく感じております。しかしながらわたくしめは普段、夜の闇に身を委ねる言わば隠者。こうして輝かしい場はとかく不慣れにございます。ややもすると、
それからも俺はホンモノに
「占いに入る前に、わたくしからひとつ提案がございます。音楽などありますれば、これから迎える時間がいっそう
それを聞くと周防は目尻を下げた。
「それはいい。たしかにこのままではちょっと味気ない。『ジュ・トゥ・ヴー』というのも悪くない選曲だ。たしか意味は、『あなたが欲しい』。僕と優里の結婚式にピッタリじゃないか」
馬鹿め、と俺は思った。それは俺と高瀬の思い出の曲だった。ふたりが惹かれ合っていることを互いに意識したその日に高瀬が弾いていたのが『ジュ・トゥ・ヴー』だった。
見れば高瀬は周防とは対照的に眉をひそめていた。それもそのはずだ。私の目の前にいるのは誰だ? そう思っているはずだ。占い師はBGMを指定したりなんか絶対にしない。
周防の関係者に楽譜がなくても『ジュ・トゥ・ヴー』を弾ける人がいて、演奏が始まった。俺はその軽快で優雅なメロディに乗せるように言葉をつむいだ。
「人には誰しも、どのような名刀をもってしても断ち切れぬほど、強い絆で結ばれた存在がございます。皆様はそれを“運命の人”とあるいは呼ぶやもしれませぬ。わたくしめはそれを“未来の君”と呼んでおります。そして幸せを望むのであれば、未来の君と手を取り合って生きていかねばなりませぬ。それでは花嫁様の未来の君が誰なのか、拝見するといたしましょう」
俺はパイプオルガンの音色に耳をすませた。その一音一音が高瀬との一つ一つの思い出を脳裏に蘇らせた。これからも思い出を増やすんだ、と俺は自分に言い聞かせた。
「見えましてございます」と俺は言った。「花嫁様の未来の君は――」
会場全体が息を呑んだ。この場を今、支配しているのはまぎれもなく俺だった。俺は『ジュ・トゥ・ヴー』が最後の山場を迎えるのを待っていた。その時が来るのと、周防がしびれを切らすのは、同時だった。
「おいじいさん」と彼は小声で言った。「ボケちまったのか? 優里の未来の君は僕だろ? 僕なんだろ? 僕の名は周防だ。周防まなとと言えばいいんだ! わかったか、この老いぼれ」
「そういうところだぞ」と俺は彼の未来を案じてたしなめた。
「は?」
「このかくも美しい花嫁様に幸せをもたらす存在――運命の絆で固く結ばれた“未来の君”。それは、周防まなとじゃないっ!」俺はそこで満を持してマントとループタイを派手に脱ぎ捨てた。それからこう叫んだ。「この俺だっ!」
「神沢君!?」高瀬は驚く。でもすぐにこの状況を理解したようで、瞳は輝く。
「高瀬! 俺と一緒に来てくれるか!?」
それを聞くと彼女の顔はようやく晴れの日らしく、晴れ渡った。「もちろん!」
呆然としている周防を尻目に、俺は高瀬の手をとった。そして共犯者に役割を果たしてもらうべく、背後に声をかけた。
「今だ! あとは頼んだぞ!」
「任せとけっ!」
太陽はマントの下に隠し持っていた煙玉を周防の足下に投げつけた。チャペル内にもくもくと白煙が立ち込めていく。会場は騒然となる。でもそんなことはおかまいなしに第二第三の煙玉も投げつける。もちろん人体には無害のおもちゃだが、周防を足止めさせることに限れば、効果は絶大だ。
「行けっ、悠介! 何があってもその手を絶対に離すんじゃねぇぞ!」
「ああ! 太陽、いろいろとありがとな!」
俺は高瀬と目を合わせ、それから一緒に駆け出した。バージンロードを逆走し、まずはチャペルからの脱出を目指す。
「待てっ! 神沢っ!」振り返れば、周防が咳き込みながらもしぶとく後を追ってきていた。「この野良犬野郎! 逃してたまるか!」
そこで客席から誰かが足をバージンロードにひょいと出した。煙で視界が悪いせいもあって、周防はその足につまずき、豪快に転んだ。足を出したのは、高瀬の父親の直行さんだった。彼は俺に向けて親指を突き出した。
「とんだ粗相をやらかしてくれたな! いいぞ、悠介! 野良犬の意地を見せてやれ!」
「直行さん! 今度会うときは、お
背後から周防の発狂する声が聞こえる。でももう振り返らない。俺たちはチャペルの扉を開けて、そこから射し込む光に吸い込まれるように外へ出た。
「神沢君、どういう心境の変化があったの?」と高瀬は言った。
「話は後だ」と俺は言った。「まずはとにかく逃げよう! あいつは執念深い」
「わかった」と高瀬は言った。そしてブライダルシューズを脱ぎ捨てた。「こんなヒールの高い靴じゃ、走りにくい」
「裸足で、大丈夫か?」
「あんな靴、最初から履きたくなかったの。裸足の方がよっぽどいい」
「でも痛いぞ?」
「神沢君と一緒の道を進むなら、それくらい、なんでもない!」
「よし。だったら俺についてこい! 何があってもこの手を離すな! このまま走り抜けるぞ!」
「走り抜けるって、どこまで?」
丘をくだって街の中に紛れ込めば、さすがに周防の追跡はかわせるはずだが、ここで俺はどうしようもなくキザったらしいセリフを思いついてしまった。高揚しているのもあって、それを言わずにはいられなかった。
「高瀬、今日くらい、カッコつけてもいいよな?」
「え?」
「もう一度、同じ質問をしてくれ」
「走り抜けるって、どこまで?」
「決まってるだろ。俺たちの未来まで!」
♯ ♯ ♯
俺たちは街へと続く道を一心不乱に走り続けた。そこはほとんど獣道と呼んでいいほど荒れた道だった。でも行く手を阻むものはなにもなかった。俺が転びそうになっても、高瀬が転びそうになっても、ふたりの手は決して離れなかった。やがて丘をくだりきって市街地に出た。それでも俺たちは走るのをやめなかった。
あまりぱっとしない青年が見目麗しいウエディングドレス姿の美女の手を引いて突っ走る光景は、当然ながら娯楽の乏しい地方都市の市民の目を引いた。
マンションの窓から身を乗り出して見る人もいれば、クルマの中からスマホで撮影する人もいた。でも俺たちはそんな連中のことはまったく気にならなかった。どう見られようと知ったこっちゃなかった。そこに道がある限り、とにかく前へ走り続けた。
静かな住宅街の中にある無人の小さな公園に入ったところで、俺たちはどちらからともなく立ち止まった。限界だった。これ以上は走れなかった。どれだけの距離を走ったかはわからない。でも同時にぶっ倒れるくらい、体力は消耗しきっていた。
誰かが追ってきている様子はない。周防は完全に振りきったと考えていいようだ。俺たちは公園の真ん中で手をつないだまま仰向けになった。
息が落ち着くのを待つあいだ、俺は横目でそっと高瀬を見た。ドレスは元の形がわからないほど乱れ、化粧は汗で崩れ、足には生傷がついていた。それでも美しかった。世界中の誰よりきれいだった。
ほどなくして彼女は泣き出した。泣いて、俺の体の上に覆い被さってきた。それから抱きついて、激しく俺の胸を叩いた。
「神沢君の馬鹿! もうだめだと思った! 私はあとちょっとでまなとと指輪を交換して、誓いのキスをして、正式に籍を入れるところだったんだよ!? 生きた心地がしなかった! まなとと初夜を迎えるくらいならもういっそ死んじゃおうと思った! 私にこんなひどい思いをさせるなんて、本当に馬鹿! もう、許さないんだから!」
「ごめん。本当にごめん」俺は彼女の背中に手を回して、その体をしっかり抱きしめた。
「好きだった!」と高瀬は泣きじゃくりながら言った。「神沢君のこと、ずっとずっと好きだった! 鳴大のキャンパスで一人で生きていくって聞いたときは、もうきっぱり忘れようと思った。あの悪夢みたいに出会ってなかったことにしようと思った。でもできなかった! やっぱりまだ神沢君のことが好きだった! お別れなんかしたくなかった! そんなの絶対イヤだった! 本当に悲しかった。つらかった。あれ以来夜も眠れなかったんだから! 許さない!」
俺は彼女の涙を受け止めた。そして目を見て口を開いた。
「高瀬。眠れない夜はもう終わりだ。今夜からは隣に俺がいる。今ならようやく言える。俺も高瀬のことがずっと好きだった」
「いつから?」
「一目見た、その時から。打ち明けると、一目惚れだったんだ」
「何日前?」
俺は今日の日付から逆算を試みた。でも恋に落ちた正確な日まで覚えていなかった。「はっきりとは言えないけど、あれは一年生の春のことだから、1067日前から1073日前あたりだろうな」
「それじゃあ、1073回好きって言って。そうすれば許してあげる」
「えぇ?」
「わかった。まけて、1000回でいい」
「本気か?」
「本気だよ。私はずっと神沢君の気持ちが知りたかったんだもん。ずっとこの時を待っていたんだもん。これくらいのワガママは許されるよ。1000回好きって言ってくれなきゃ、許さない」
好きだ、と73回言ったところで、これじゃ日が暮れちまうな、と俺は思った。それに650回目あたりで周防がここに辿りつく可能性だってある。
とはいえ、ここでやめたら高瀬が納得しないのは目に見えていた。だから俺はとっておきのものをポケットから取り出した。そして自分と彼女の体を起こし、それを左手の薬指にはめてあげた。
「高瀬優里さん。この指輪をもう一度贈ることで、千日分の想いを君に捧ぐ。
「はい」と高瀬は涙を拭って言った。「私でいいのなら、これからも冒険に付き合わせてください」
「君じゃなきゃ、だめです」
彼女はそこでやっと笑った。
俺は言った。「ようやく許してくれたみたいだな」
高瀬は薬指の指輪を見ていた。その京都の路地裏で謎の外国人から買った偽物のダイヤがついた安物は、豪華なティアラやドレスに比べればみすぼらしいとしか言いようがなかった。
「ごめんな。いつかもっといいのを買うから。今はこれで我慢してくれ」
「ううん、これでいい」と高瀬は空に指輪をかざして言った。「いや、これがいい。神沢君のこれまでの想いと、これからの想いがつまった指輪。こんなに欲しかったものはない」
俺はたまらなく高瀬が愛おしくなって、彼女の唇を奪った。誓いのキスだ。長い口づけの後で、俺は言った。
「高瀬。好きだよ」
「神沢君。好きだよ」と彼女は答えた。でも首をかしげた。「あのさ。ここまでやって、今まで通り名字で呼び合うの、ちょっとおかしくない?」
「それもそうだな」俺は姿勢を整え、この先の道を共に歩む人の顔を見つめた。「やり直そう。これからは名前で呼び合おう。愛してるよ、優里」
「悠介」と優里はくすぐったそうに言った。「愛してるよ」
※ ※ ※
「というわけでお父さんはお母さんと無事にめでたく結ばれましたとさ。今度こそ、本当の本当におしまい」
僕は娘の
「まったく」僕はため息をつく。「あれだけ寝るなよって釘を刺しておいたのに……」
そこで二階の書斎のドアが開く音がして、次に階段を下りてくる足音が聞こえた。その足音はそのまま真っすぐ僕たちのいる縁側に近づいてきた。軽快な足取りだった。大仕事が片付いたんだな、と僕は確信した。
「やっと終わったよ」と優里は大きなあくびをして言った。彼女は髪を後ろで一つに縛り、よれよれのトレーナーを着て、だぼだぼの半ズボンをはいていた。それが彼女が仕事をするときの定番スタイルだった。「お花見が始まるまでにはなんとか間に合わせたかったから、きのうの夜は徹夜しちゃった」
「お疲れさま」と僕は妻の労をねぎらった。
「そういえば今日は朝から、高校時代の思い出話を愛に聞かせていたんでしょう?」
「ああ。どうして俺たちが一緒になったのか、愛がどうしても知りたいって言うから話してきたのに、この通りだよ」僕は左隣の娘の頭を撫でた。「卒業式のあたりまではまだ起きてたんだけどな。このぶんだと肝心の結婚式の場面は寝ていてまるまる聞いてないな。あそここそがまさにこの物語のクライマックスだってのに」
「しょうがないよ、まだ6歳だもの。またいつか話してあげなよ。今度は私も一緒に話すよ。私しか知らないこともあるし。占い師は本当は悠介なんじゃないかってかなり早い段階で感じていたこととか、悠介に手を引かれて走っている最中、どんなことを考えていたか、とか」
「おお! 俺もぜひ聞きたいな」
「それはまた別の機会に」優里はいたずらっぽく笑うと、空いていた僕の右隣に腰を下ろした。そして庭の桜を眺めて、息をひとつ吐いた。「あれからもう十年経つんだね。なんだかきのうのことみたい。あっという間だったな」
僕も満開の桜を眺めた。「この十年、いろいろあったな」
「あったね」と優里はしみじみ言った。「ちょっと振り返ってみようか」
僕はうなずいた。思えば愛が生まれて以来、こうしてふたりだけでじっくり話をする時間はあまりとってやれなかった。
「俺たちはあの後すぐ結婚したんだよな。でも式は挙げられなかった。周防家との挙式をあれだけ派手にぶち壊しておいて、またすぐ招待状を出すってわけにはいかなかったもんな。優里、式は挙げたかったか?」
「ううん。ふたりでチャペルから走り抜けた後の、公園での儀式が私にとっては結婚式だもの。ケーキもない。フラワーシャワーもない。ドレスはめちゃくちゃ。でもあれ以上の式はない」
「そう言ってくれてうれしい」と僕は言った。「それでいろいろ話し合った末に、俺が高瀬家に婿入りするっていうことにしたんだよな。俺は神沢悠介から高瀬悠介になった」
「互いを名前で呼ぼうって決めたはずなのに、全然馴染まなくて、結局あの後一年くらいそれまで通り『神沢君』『高瀬』って呼び合ってたよね」
「そうそう」僕は当時を思い出して笑った。「神沢君はもういないのにな」
「悠介だって高瀬なのにね」彼女もくすっと笑った。
僕は言った。「春から優里は将来翻訳家になることを目指して、鳴大に通い始めた」
「悠介はタカセヤの社員になった。そして社長――私のお父さんの運転手として働いてお金を貯めながら、次の年以降の鳴大合格に向けて勉強を続けた」
「それまで住んでいた家に居場所がなくなった俺は、優里の家で住まわせてもらうことになった」
「文字通り、高瀬家の一員になったんだよね」
僕はうなずいた。「直行さんも汐里さんも明里さんも、実の息子かっていうくらい、俺によくしてくれた。家族の一人として温かく迎えてくれた。優里の愛犬のチェリーまで。おかげで俺はとっても居心地良く過ごすことができた。ありがたいことに個室までもらって勉強もはかどった。ただ――」
「ただ」と優里は繰り返した。
「ただ残念ながら、大恋愛を経て結ばれた若い新婚の夫婦が愛を育む場所としては、あまりふさわしくなかったかな?」
「全然ふさわしくなかったかな?」と彼女は修正して、娘がぐっすり眠っていることを確認した。「私のお母さんが専業主婦ってのもあってあの家には誰かしらいることが多かったから、そうなるとどうしても……ねぇ?」
「声とかが……ねぇ?」
「それで私たち、しかたなく毎日のようにラブホテルに行ってたんだよね」
「この街と近郊のラブホテルは全部制覇したよな」
「誰かさんったら、ふたりきりなのをいいことに私に高校時代の制服を着せたり、ミニスカサンタの格好をさせたり、巫女さんのコスプレさせたり、やりたい放題だったなぁ……」
「わ、若気の至りってやつだ」と僕は弁明した。「そう言う誰かさんだって、自分から進んで白衣を着て女医になりきったり、鞭を持って女王様に変身したり、なかなかだったぞ」
「若気の至りってやつです」と彼女は頬を染めて言った。「あの頃は、若かったね」
「若かったな」と僕は自省をこめて言った。「脱線しすぎた。話を戻そう。俺は鳴大の試験になかなか合格できなくて、優里は大学三年生になってた。たしかあの年だよな。悲しい別れがあったのは」
「そうだね。私が小さいときから妹同然に可愛がってきたチェリーが、
「優里が一週間近くずっと泣いているのを見て、俺はあらためて獣医になりたいっていう思いを強くした。次の年こそ鳴大に合格すると誓った。でも――」
「でも」と優里が継いだ。「でももう、悠介が大学を受験することはなかったね」
僕はうなずいた。21歳の時の入試が、最後の受験になった。
「チェリーを亡くした悲しみで優里は魂が抜けたみたいになってた。大学にも行けないし、メシもまともに食べられない。それで俺は見るに見かねて旅行に誘ったんだ。冬が近づいて寒くなってきた頃だったから、行き先は沖縄。青い空と青い海を満喫すれば、傷も癒えると思った。新婚旅行にも行ってなかったしな」
「沖縄、楽しかったねぇ」優里はまるで今南国から帰ってきたかのようだ。「シュノーケリングで海に潜ってウミガメと写真撮ったり、パラセーリングで空を飛んで鳥の気分を味わったり、バギーでさとうきび畑の中を駆け抜けたり。悲しんでいる暇がなかった。おいしいものをたらふく食べてお酒もいっぱい飲んで、二人してはっちゃけた」
「ただいかんせん、はっちゃけ過ぎちゃったんだよなぁ……」
優里は決まりが悪そうに娘の方を見た。
「普段は気をつけていたんだけどね。旅行の開放感で、つい盛り上がっちゃってね」
僕も娘の無垢な寝顔を見た。「たしかあの日は安全日だから大丈夫って言ってたよな?」
「完全な安全日はないともいつか言ったはずだよ?」
「若かったな」
「若かったね」と優里は言った。そして肩をすくめた。「妊娠がわかって、私やうちの人たちは堕ろす方向で考えてた。私はまだ大学卒業まで一年あるし、悠介もまだ運転手兼浪人生だし。でも悠介だけがそれに反対したんだよね。何があっても俺が立派に育て上げてみせる。だから産んでくれって」
僕は照れくさくなって鼻をかいた。
「ふたりの夢の実現を考えれば、産まない方が賢明だったんだろう。でもその選択をすると、代償として俺たちは大事なものを失ってしまうような気がしたんだ。俺と優里が出会ってから積み上げてきた、尊い何かを。この子を望まれない子にしたくなかった」
「産んで正解だったよ」と優里は慈愛に満ちた顔で言った。「この子がいない人生なんて、もう考えられないもの」
「その言葉が聞けてよかった」それは僕が母親から聞けなかった言葉だった。
優里は右隣からやさしく僕の肩を撫でた。そして一呼吸置いてから回想を再開した。
「それまで悠介が運転手として働いて貯めてきたお金は、この子の出産費用や養育費に充てることになったんだよね。悠介はまたこつこつ蓄えた進学資金でひとつの命を救った。高三の冬に晴香を救ったように」
「神様はよっぽど俺を大学に行かせたくないらしい」
優里は同情するように微笑んだ。
「この子を無事に産んだ私は、一年遅れで鳴大を卒業した。ちょうどそのタイミングで出版社から、発売前の小説の校正依頼が来るようになった。高校時代にリライトした『未来の君に、さよなら』で新人賞をとった実績から声がかかったみたい。本当は翻訳がしたかったんだけど、この子のことを考えたら、仕事の選り好みはしていられない。それで私は依頼を引き受けた」
「ていねいな仕事ぶりが評価されて、それから続々依頼が舞い込むようになってきた。高額の報酬を払ってまで優里を指名する作家も出てきた。売れない鳴かず飛ばずの作家よりずっと稼いだ。業界じゃ『予約が取れない校正屋』として、優里はちょっとした有名人になった」
「良い仕事をするには良い環境が必要」と彼女は言った。「でも近所に保育園ができるとかで工事が始まって、あの家ではなかなか仕事に集中できなくなった。それで静かな場所にあるこのおうちに引っ越してきたんだよね」
「愛が3歳の時だ」と僕は言った。そして庭を見た。「桜の木もあるしな」
優里はうなずいた。
「ここに越してきて私が二階の書斎で仕事漬けになると、家のことはどうしても悠介がやるしかない。それで私のお父さんの運転手もやめて、完全に家事と育児に専念するようになったんだよね」
「専業主夫、今年で三年目です」
「仕事が忙しくて、家と愛のこと任せっきりにしちゃってるよね。つらくない?」
「大丈夫だ」と僕は答えた。「ガキの頃からひとりだったから家事は慣れてるし、育児に関しても、高校時代に
「そっか。がんばってくれてるお礼に、今度、たまには私がごはんを作るね」
僕は大きく手を振ってその申し出を断った。妻の料理下手は高校時代からちっとも直っていなかった。彼女の作るものは料理ではなく毒物に近い代物だった。そんなものを未来ある娘の口に入れるわけにはいかない。
「いいっていいって。メシ作りは俺の仕事だ。それにもし慣れない包丁を使って指を切ったりしたら、仕事にも差し支えるだろ?」
「ま、まぁ、そうだけど。おいしいシチューを作る自信があるんだけどな……」
僕はにっこり微笑んだ。誰にだって欠点のひとつやふたつくらいある。
「優里は順調にキャリアを積んで、ついにベストセラー作家の最新作の校正を任せられた。これまでで一番の大仕事だ。それが今日、ついさっき終わって、二階から下りてきた」
ぱちぱちぱち、と彼女は右隣で小さく手を叩いた。そしてまたあくびをした。
「この十年をざっと振り返ると、だいたいこんなところだな」
「いろいろあったね」
「いろいろあったな」
「そしてこれから、高三の冬に約束した通り、みんながここに来てお花見しながら答え合わせをする」
「それぞれ望む未来は手に入れられたのか。幸せになれたのか」
「十年ぶりかぁ、みんなと会うの」
「ああ。十年ぶりだ」
「なんだかみんなと顔を合わせるの、ちょっと気まずいよね」
「な」僕は苦笑してうなずいた。
「だって、私たちだけが夢を叶えられなかったもんね」
「な」
「小学校の先生になる夢を叶えた晴香は、『教室はホーム、児童は家族』をモットーにして日々奮闘。絶対にいじめを生まない最強のお母さん先生として、テレビでも紹介された。最近はいろんなメディアで学校教育の問題点を鋭く指摘して、そこも評価されてる。ついには晴香をモデルにしたドラマも夏から始まる」
「心臓の病気の治療法も六年前に確立されて、あいつがもう死の恐怖に怯えることはなくなった」
「葉山君は医者になる夢を叶えた。アメリカにも留学して、帰国後はいくつも論文を発表。医学界のホープとして期待をかけられている」
「十年前に一緒に全身マントを着て結婚式に忍び込んだ奴とは思えない」
優里は笑った。「そういえば、幼馴染みの日比野さんを植物状態から目覚めさせることはできたのかな?」
「このあとわかるさ。太陽の奴、今日の花見に日比野さんを連れて行くって意気込んでいたから。どうなったかな?」
「江戸時代から続いてきた跡継ぎのいない実家のおせんべい屋さん『月島庵』を立て直す。それが月島さんの夢だった。伝統の焼き印が十年前の火事で使えなくなっちゃって、結局お店の名前を変えたんだよね」
「和風パティスリー月島」と僕はその新店名を口にした。「屋号が変われば、男しか跡を継げないっていう古いしきたりに縛られる必要もない。それで、月島の親友の城之内ユズが店主になったんだ。せんべいの味は健在で、そのうえ今の時代に合わせたメニューをユズが考案して、昔よりずっと繁盛してる」
「店名は変わったけど、そういう意味では夢を叶えたんだよね」
僕はうなずいた。「そして月島にはもう一つ夢があった」
「女性初の総理大臣」
「墨田区の区議会議員選挙に立候補して、史上最年少で当選しちまった。あいつ、着実にそっちの夢にも近づいてる」
優里は映画のエンドロールを見るような目で青空を見上げた。そしてため息をついた。「みんな、すごいなぁ。夢を叶えて、それぞれのフィールドで活躍して。なんというか、ちゃんと社会の役に立ってる」
「優里だってすごいじゃないか」
「やめてよ。私はただの校正屋。ゴーストライターみたいなもの。翻訳家とは違って、決して表に名前が出ることはない。世間から注目を浴びるあの三人に比べれば、ぜんぜんたいしたことないよ」
「それを言うなら、俺なんて専業主夫だぞ?」
「何言ってるの」優里は僕の左隣を見る。「この子をしっかり育ててるんだもの。もっと誇りを持って」
「優里こそ家計を支えてるんだから、もっと誇りを持って」
僕らは自嘲気味に笑い合った。そしてしばし黙って桜の木を眺めた。庭と道を隔てる竹垣の向こうでは高校生カップルが仲睦まじく歩いていた。彼らが見えなくなると優里が口を開いた。
「ねぇ悠介。十年前に私を選んだこと、後悔してない?」
僕は驚いて目を瞬いた。「どうした、急に?」
「結果的には悠介の夢を叶えさせてあげることができなかったな、と今ふと思って。もし晴香や月島さんを選んでいれば、悠介にはもっと良い未来が待っていたかもしれないよ? もしこういう未来が来るってわかっていても、私を選んだ?」
「よせよ」と僕は左肩で眠る娘の黒い髪を撫でて言った。「これでいいんだ。優里との未来が一番どうなるか読めなかったからこそ、この選択をしたというのもあるんだ。優里と一緒に生きていったらどんな未来が待っているのか、俺はどうしてもこの目で見てみたかった。だからこうして優里が隣にいてくれさえすれば、どんな未来だって、正解なんだよ」
彼女は安心したように微笑んだ。「ありがと」
「それに」と僕は言った。
「それに?」
「それに、誰が夢をあきらめるなんて言った? この子が大きくなって子育てが一段落ついたら、俺はまた大学を目指す。そしてゆくゆくは獣医になる。そういうの、どうだろう?」
「いいねぇ! 私は応援するよ!」優里の声は弾んだ。「そっか。私もここで終わりじゃないんだ。まだ未来があるんだ。これから翻訳家を目指したっていいんだ。うん、私もいつか、今度こそ本当に翻訳家になる。夢を叶えるのに、遅いも早いもないよね」
僕は可笑しくなって吹き出した。「なんだか俺たち、十年経っても高校生の時とおんなじようなこと言ってるな」
「本当だね」優里もひとしきり笑った。そしてさりげなく後ろで一つに束ねていた髪をほどいた。その人形のように黒く美しい髪は風になびいて僕の頬に触れた。その一瞬の出来事は僕が彼女に一目惚れした日のことを思い出させた。
「きれいだよ」と僕は久しく言ってやれなかった言葉を口にした。
「え?」
「きれいだよ、優里」
「な、なに? どうしたの?」
「優里、世界一きれいだ」
彼女は僕の顔を試すような目で見た。「こんなよれよれのトレーナーを着て、だぼだぼの半ズボンをはいて、徹夜明けで肌もぼろぼろで、子持ちの30歳手前の女が世界一きれいだって悠介は言ってるの?」
「そうだよ」と僕はなんなら人生史上いちばん真剣な声で言った。「何度だって言う。優里が世界一きれいだ」
彼女はまんざらでもないようだった。鼻が、ひくひく動いた。そして色っぽく微笑んだ。「今度この子を実家に預けて、また二人きりで沖縄旅行でもしよっか?」
「いいね」と僕は賛同した。「前に行きそびれたところもあったしな。ただし今度は、はっちゃけ過ぎないようにしないとな」
「そう? 私はもう一人くらい子どもがいてもいいけどな。悠介はもういらない?」
「いや、優里がその気なら」と僕は言った。「ただ、そうなると、ふたりの夢の実現がまた遠のくな」
「この調子だと、おじいちゃんおばあちゃんになってもこうして縁側に座って、夢を語り合ってたりしてね」
「ああ、俺たちなら、普通にあり得るな」
「それはそれで素敵な未来だ」
「そうだな」
そこで会話が途切れた。僕たちは黙って桜を眺めていた。春の風は優しく、陽の光は暖かかった。愛が目を覚ます気配は一向になかった。彼女は僕の左肩を枕にして相変わらずすぅすぅ寝息を立てていた。僕はどうしても妻に聞いてみたいことがあった。思いきってそれを口にした。
「なぁ優里。みんなが来る前に、一足先に、答え合わせしてもいいかな。優里は今、幸せか? 俺は君を幸せにしてあげられたかな?」
僕はどんな答えが聞けるかどきどきしながら待っていた。でもいくら待っても右隣から声は聞こえなかった。聞こえてきたのは
「なんだよ」僕はもう一度ため息をつく。「でもしょうがないよな。徹夜明けだもんな」
とたんに話し相手がいなくなってしまった。愛も優里も僕の肩で寝てしまった。それで僕は自分に問うことにした。尋ねるべきことは一つしかない。
「俺は幸せになれたのか――?」
孤独な少年時代からずっと渇望していたものが、幸せだった。果たして僕はそれを手に入れることができたのだろうか?
僕はその質問を自分の胸にぶつけた。でも考えはじめて三秒もしないうちに頭を振って思考をやめていた。それは愚問と言うしかなかった。
左右の肩にかかる重みがとても心地良い。両耳で聞こえる寝息が心を癒やしていく。それがすべてだった。
たしかに高校時代に思い描いていた未来とはだいぶ違ってしまった。
20代前半で一児の父になり、それからは娘のおむつを替えたり、ゲップ出しをしたり、妻に夜食を作ったり、半額シールが貼られる時間を見計らってスーパー巡りしたりと、家族のために生きる日々。
十年前にはちょっと想像できなかった未来だ。
こんな未来も案外悪くないぞとあの頃の自分に言って信じるだろうか? おそらく信じないだろうな、と僕は思った。なにしろ素直じゃないのが神沢悠介という少年だ。そんなわけあるか、とかたくなに否定するはずだ。心の奥底では本当はそういうものこそ求めていたくせに。
そこで優里が何かをぼそっとつぶやいた。
「神沢君、数学で教えてほしいところがあるんだ」
僕は声を出さずに笑った。どうやら彼女は夢の中で高校生に戻っているらしい。
「神沢君はもういないんだって」と僕はささやいた。でもそれが寝ている妻に聞こえるはずもなく、彼女はこう続けた。
「神沢君、私のことを一人にしないでね」
僕は彼女の左手にそっと手を重ねた。それから薬指にすっかり馴染んだ銀色のリングを撫でた。
「しないよ。この指輪に誓って。優里――いや、高瀬。なにがあっても、ずっと一緒だ」
それからしばらくして、僕まで眠くなってきたところで、竹垣の向こうの道がにぎやかになりだした。何人かの男女の声がする。懐かしい声だ。その声を僕の耳はよく覚えていた。彼らは笑っていた。
一人は底抜けに明るい声で笑っていた。
一人はクールに涼しい声で笑っていた。
一人は近所迷惑になりかねない豪快な声で笑っていた。
一人はそんな幼馴染みを軽くたしなめつつ、ほがらかな声で笑っていた。
僕の唯一のダチもひとつの物語をハッピーエンドで締めくくることができたようだ。
家のチャイムが鳴る。
できればこうしてもうちょっと両肩に重みを感じていたかったが、この時間もどうやらここまでらしい。なんせガミガミ口うるさいあいつらのことだ。あまり玄関先で待たせると、あとで何を言われるかわかったもんじゃない。
僕は両手で愛する人たちの頭を撫でて、それから声をかけた。
「さぁふたりとも、そろそろ目を覚まそう。花見の始まりだ。今日は楽しい一日になるぞ」
未来の君に、さよなら〈完〉