「未来の君に、さよなら」しばらくして、高瀬は背を向けたままそう言った。
俺は言った。「どうしたの、急に?」
「いやね、ほら、前に葉山君が言ってたでしょう? この世界の80億人っていうとんでもない数の人の中から出会ったんだから、神沢君にとっては私も晴香も月島さんもある意味では運命の人――“未来の君”なんだって。そして神沢君はその三人ともに別れを告げた。私たちの物語も、最後は結局あの小説のタイトルと同じ結末になっちゃったな、ってふと思って」
俺は何を言えばいいかわからず黙っていた。すると高瀬は覚悟を決めたように凛と振り向いた。
「うん。正直今でも納得はできないけど、でも、私も踏ん切りをつけなきゃね。いつまでもグズグズ言っていたら、神沢君がこの決断を下した意味がなくなっちゃうもの。わかった。わかったよ。うん。お別れ、しよう」
「すまない」と俺は言った。
「私からは、最後に感謝を伝えたい」と高瀬は言った。そして俺の目を笑顔で見つめた。「神沢君。わがままで、頑固で、気難しくて、あまのじゃくで、負けず嫌いで、向こう見ずで、意地っ張りで、見栄っ張り。そんな私とよく辛抱強くいろんな冒険に付き添ってくれたね。おかげで最高の三年間を過ごすことができたよ。こんなに充実した高校生活を送れた女子高生は世界中どこを探したっていないよ。
私はこの先も神沢君との冒険が続くんだと思ってた。世界一充実した大学生活を送って、世界一充実した翻訳家生活を送って、いつか庭に咲いた桜でも眺めながら、縁側でいっしょにあの時はこうだったね、あの時はああだったねって昔話をするんだと思ってた。
でもそれは欲張りすぎってものだね。最高の三年間を過ごせただけでも感謝しなきゃね。いっしょに夢を追って走り続けたこの日々の記憶は胸の大事なところにしまっておく。神沢君。本当に、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」と俺は無感情に徹して言った。
「最後に、ひとつだけ聞いてもいいかな?」と高瀬は言った。
俺はうなずいた。
「神沢君が好きだったのって、結局三人のうち、誰なの?」
「それは……」
答えが喉まで出かかったところで、高瀬がはっとして俺の口をふさいだ。
「やっぱりいい。質問した私が馬鹿だった。答え次第では未練が残っちゃう。今のは聞かなかったことにして」
俺はその名を乾いた唾と一緒に呑み込んだ。
「そろそろ行かなきゃ」と高瀬は言った。「明日は卒業式だしね。それにほら、私は卒業生代表として壇上で答辞を読まなきゃいけないから。寝不足で目の下にくまを作って全校生徒の前に出るわけにはいかない」
高瀬はまるで今壇上へ向かうように背筋をきりっと伸ばし、大学の校門の方へ歩き出した。
すれ違いざま、彼女の髪の毛先が俺の頬にかすかに触れた。ほんの束の間の出来事ではあるけれど、その一瞬にこの三年間の彼女との思い出が一気に蘇った。
それで俺は高瀬を呼び止めたい衝動に駆られた。それは言葉では言い表せないくらい強い衝動だった。でも両手の拳を握りしめてなんとか堪えた。あとを追うこともしなければ、振り返ってその後ろ姿を見ることもしなかった。
そうしてしばらく時間が経った。もう高瀬はとっくに校門を出て、姿を消しているはずだった。
もし、と俺は思った。もし振り返って高瀬がいたらどうしよう、と。そして目が合ってこう言ってきたらどうしようと。やっぱりこれからも私の冒険に付き合ってよ神沢君、と。
それは決してあり得ない話じゃなかった。十分に考えられることだった。なにしろわがままで、頑固で、気難しくて、あまのじゃくで、負けず嫌いで、向こう見ずで、意地っ張りで、見栄っ張りなのが高瀬優里という人だ。
私の冒険に付き合える人はこの世界で神沢君しかいないの。きっと彼女は俺の目を見てそう続けるだろう。私は神沢君のことが好きで、神沢君も私のことが好きなの。そうでしょ?
そう言われても俺はかたくなに首を振る続けることができるだろうか? 誰も選ばないという決意を貫き通すことができるだろうか?
無理だろうな、と俺は思った。おそらく無理だ。いや、絶対に無理だ。俺はその冷え切った体を強く抱きしめるだろう。それから今度は一緒に大講堂を眺めるだろう。そしてなにがなんでも四年以内にここに戻ることを誓うだろう。
気づけばそんな少し先の未来を期待している自分がいた。振り返ればそこに高瀬がいることを望んでいた。
俺は深呼吸をしてから、なかば祈るような思いでゆっくり後ろを振り返った。しかしそこには高瀬の姿はなかった。あったのは新雪に残された足跡だけだった。校門まで点々とまっすぐに続くそれは、彼女が一度もこちらを振り向かずに去ったことを寡黙ながら示していた。
これでよかったんだ、と俺は自分に言い聞かせた。これで高瀬も柏木も月島も、新しい季節を新しい気持ちで迎えることができる。古い靴を履き捨て、新しい靴を履いて、新しい道へ旅立っていける。これでよかったんだ。これでこの物語はおしまいだ。
誰も見たことがないハッピーエンドを手に入れてやる――。
そう意気込んで始まったこの高校生活だったわけだけど、その目標は果たせただろうか? どうだろう? きわめて怪しいが、思いつく中で最善の選択をしたのだと思えば――三人とも春から前を向いて生きていけると思えば――果たせたと考えていいかもしれない。そう考えないことには報われない。
いずれにしても、世界の果てみたいな人ひとりいない場所で、降りしきる雪に埋もれそうになりながら、何もかも失った男が狂ったように涙を流している。こんな結末の物語なんて誰も見たことがないのはたしかだ。
この物語にもしタイトルをつけるとしたら、なんだろう? どんな題名がふさわしいだろう?
ひとつしかないな、と俺は思った。ちょうど今夜、高瀬がその言葉を口にした。
『未来の君に、さよなら』
それがこの物語の名前だ。
* * *
「というわけで、僕は三人の“未来の君”のうち、誰も選ばないという道を選びました。三人はそのあと、それぞれの道に進んで幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
「ちょ、ちょっと待ったぁ!」と隣で娘の
娘は両手をぶんぶん振り回した。おのずとその手は、隣に座っている僕の体に当たる。
「いたいいたいって! ごめんって! 冗談だって!」
「えっ?」
「悪かった、愛。ここでおしまいと聞いたら愛はどういう反応をするか、ちょっと興味が湧いたんだ。ほんの出来心だ。試すようなことをして謝るよ」
「それじゃあ……」
「ああ。安心しろ。この物語はこれで終わりじゃない」
「本当?」
僕は娘の頭を撫でた。
「よく考えてみろ。愛がこうしてこの世に生まれたことが、なにより、その証拠じゃないか」
僕に似て疑い深い6歳児は、自分が実在していることを確かめるみたいに、体をべたべた触った。
「そっか。たしかにお父さんがひとりで生きてきたなら、私は生まれてないもんね」
「そういうことだ」
「それじゃ、まだ物語は続くんだね?」
僕はうなずいた。
「あの時の僕は、大事な人を傷つけたくないという思いに囚われるあまり、視野が狭くなって、本当に大切なことが見えなくなっていた。とても重要なことを見落としていた。誰も選ばないのがベストだと思っていた。それが正解だと。でも次の日――高校生活最後の一日となる卒業式の日に
「おおっ!」娘はにわかにそわそわする。「ついに今度という今度こそ、ハッピーエンドだねっ!」
「それは愛がしっかり自分の耳で聞いて、自分で判断してくれ」
「よしっ! 朝早くから眠い目をこすって三年間の物語を聞いてきたんだもん。最後まで聞き届けるよっ!」
「途中で寝るなよ?」と僕は言った。そして時計を見た。「いかんいかん。花見をするために、もうそろそろみんなが来る。長かった物語も泣いても笑ってもこれで最後だ。もうエンディングまで止まらない。休憩なしで行くぞ。これから話すのが、この物語の本当の結末だ」