俺は右手に柏木の名残を感じつつも展望台を後にして、
俺の答えを聞く場所としてそこを指定したのはもちろん高瀬だった。彼女と約束した時間はとうの前に過ぎていた。すっかり遅くなってしまった。夜は深まり、雪はひとときの間断もなく降り続けている。高瀬は待つのに疲れて帰ってしまったりしていないだろうか?
その心配は
俺は安堵すると同時に緊張して、その背中に近づいた。そして声をかけた。
「ごめん高瀬、けっこう待ったよな?」
彼女は振り返って、いやに優しく微笑んだ。「待つのには慣れてるから、大丈夫」
この三年間、彼女を待たせ続けたのは誰かと言えば、俺に他ならなかった。ひとりでに眉がゆがんだ。
「ご、ごめん」と高瀬は言った。「そんなに深い意味はなかったんだけど」
「チクリと小言を言われるのには慣れてるから、大丈夫だ」
「たぶんそれに慣れちゃったのって、私のせいだよね?」
俺は短く笑った。
高瀬も小さく笑った。それから俺の顔をしげしげと見た。
「神沢君。もうあの二人には会ってきたんだね?」
「ああ。会ってきた」
「会って、答えを伝えてきたんだね?」
「ああ。伝えてきた」
「そう……」彼女ははにかんで目を伏せた。
俺が月島と柏木に別れを告げてきたであろうことは、高瀬ならば俺の表情から容易に読み取れたはずだった。そしてそれからこう考えたから、照れてうつむいたはずだった。「神沢君は私との未来を選んだんだ」と。顔を上げたら、秋にお願いした通り、神沢君があの指輪をもう一度はめてくれるんだと、そう思っているに違いなかった。
でも、俺は指輪を持ってきていなかった。うっかり忘れたわけじゃない。ミスでもなんでもない。それは意図して家に置いてきていた。
俺が出した答えは、彼女が思っているのとは別のものだった。
「高瀬」と俺は名を呼び、顔を上げさせた。そして深呼吸をしてから、用意していた言葉を口にした。
「今夜は高瀬に、さよならを、言いに来た」
高瀬は何を言っているのかわからない、というようにすっかり固まってしまった。それでも俺は態度を変えなかった。けわしい表情を崩さなかった。
しばらくすると彼女はやっと言葉の意味を理解したらしく、ため息をついた。そして口を開いた。
「ちょっと待って。え? だって神沢君は、月島さんにも晴香にも、『さよなら』を言ってきたんでしょう?」
言ってきた。俺はそれを認めた。
「ということは神沢君が出した答えは――」と高瀬は考えてから言った。「私たち三人のうち、誰ともいっしょに生きていかないってこと?」
俺は深くうなずいた。「誰との未来も選ばない。俺はその第四の選択肢を選んだ」
「他に未来を誓い合った女の子がいるの?」
「まさか」
「それじゃあ……」
「ああ。俺はひとりで生きていく。それを伝えに来た」
「どうして?」と高瀬は素っ頓狂な声で言った。「どうしてそういう決断になったの?」
俺はこの冬のあいだ考え続けてきたことを順序立てて語ることにした。
「季節が秋から冬に変わって、決断の時が日に日に迫ってくるなかで、俺はある思いが自分の中に芽生えていることに気づいた。高瀬も柏木も月島も、俺のせいで誰も傷ついてほしくない。俺はそう思うようになった。
それは三人と未来の展望について細かく話せば話すほど、俺と同じ未来を生きていきたいっていう三人の気持ちを知れば知るほど、強くなっていった。俺は三人に出会えたことにすごく感謝している。誰か一人がいなくても、今の俺はなかった。いろんなものを与えてくれたし、いろんなことを教えてくれた。三人とも一人の人間としてとても尊敬しているし、大事な存在だ。でも俺がもし誰か一人だけを選べば、他の二人は傷つくだろう。深く傷つくだろう。つらい過去を背負ってこの先生きていくことになる。俺は大事な人を傷つけたくはない」
「だから誰も選ばないっていうの?」
「もちろん、それはそれで傷つけることになる」と俺は言った。「というか、三人ともまったく傷つけないというのは、どうやったって不可能だ。それでも傷を最小限にとどめる方法がある。それが第四の選択肢だ。俺が誰も選ばなければ、傷はまだ浅く済むはずだ。少なくとも俺が誰かと幸せな日々を過ごしていることを想像して、気に病むことはないはずだ。『誰も選ばなかったのならしょうがない』とある程度は割りきれるはずだ。
もちろん迷ったよ。すごく迷った。三人のうち誰を選んでも、俺は幸せになれたと思う。でも最後は自分の幸せよりも、三人が誰一人不幸せになってほしくないっていう気持ちの方が、勝ったんだ」
高瀬は何も言わなかった。何かを言う気配もなかった。ただ目の前の一点を見つめているだけだった。
「この冬のはじめにさ、俺たち四人は同じような夢を見ただろ?」と俺は言った。「そもそも俺たちは出会っていなくて、どこを探してもいないっていう夢。あの夢に続きがあれば、当然俺は誰と同じ道も歩まないんだろう。今にして思えば、あれはこういう結末を暗示していたのかもな」
沈黙があった。長く重く痛い沈黙だった。
「納得いかない」やがて高瀬はそうつぶやいた。「全然納得できない。神沢君。私との約束は? 一緒にこの大学に通うっていう約束は? 春から一緒にここに通えなくなったのは、仕方がないよ。晴香の命を救うためだったから。でも四年以内にもう一度試験を受けて合格すれば、それは果たされるんだよ?」
「その約束は守れない」と俺は言った。「でもタカセヤとトカイの政略結婚を阻止して、高瀬を大学に行かせるっていう約束は守っただろ? どうかそれで許してくれ」
高瀬は聞き分けのない子どものように首を大きく振った。
「私は神沢君と一緒にこのキャンパスを歩くことを夢見てきたからこそ、どんな時もがんばってこられたの。神沢君がいないのなら、なんのために大学に行くのかわからないよ。私も入学を辞退しようかな」
「駄々をこねるようなことを言わないでくれよ」と俺は言った。「高瀬には大学に行く理由がきちんとあるだろ。翻訳家になるっていう夢を叶えるためだろ。それを忘れるなって」
「私は翻訳家になる自分をしっかり神沢君に見届けてほしいの。そして獣医さんになる神沢君を見届けたいの。だからどうかお願い。考え直して」
俺は高瀬とは目を合わせず首を横に振った。
「大学に行くっていう夢はどうするの? 獣医さんになるっていう夢は?」
「また他の夢を探すさ」
「ひとりで生きていくって言うけど、お金もおうちも夢もないのに、春からどうやって生きていくの?」
「なんとかなるって。日々の生活のなかにささやかな幸せを見いだして、なんとかやっていく」
高瀬はもどかしそうに唇をしばし噛んでいた。それからとっておきの切り札を切るように目を鋭く光らせた。
「神沢君はひとつ重要なことを忘れている」
「重要なこと?」
「取引のこと」と高瀬は言った。「まなとと取引したじゃない。私のお父さんのスキャンダル記事を揉み消してもらう代わりに、神沢君が私を選ばなければ、私はまなとと結婚して
「覚えてるよ」と俺は冷静に答えた。「忘れるわけないよ、そんな大事なこと」
高瀬はあからさまに動揺した。
「それじゃあどうして? 相手は神沢君の大嫌いな周防まなとだよ? 私がそんな人と結婚してもいいっていうの?」
「周防はたしかに人間性も性格もひん曲がっている。でもそんなあいつにも、ただひとつだけまっすぐなところがある。それは高瀬の幸せを願う気持ちだ。その気持ちに偽りはない。そのことはあいつと幼稚園の頃から一緒だった高瀬が実はいちばんよくわかっているんじゃないか? 周防の攻撃性や凶暴性は俺のような相容れない人間には牙を向くが、決して高瀬本人には向かない。あいつは高瀬の前では紳士だ。周防は悪魔的な奴だが悪魔じゃない。高瀬の幸せを願ってる。その証拠に、春からここに通って翻訳家を目指すことを許可しただろ」
それを聞くと高瀬は静かに天を仰いだ。そして言葉を空に吐き出した。
「まなととの結婚のことを持ち出しても考えが変わらないなんて、もう神沢君の決意は揺るがないみたいだね」
俺は否定しなかった。すると高瀬はこちらに背を向けて、鳴大の大講堂を無言で眺めた。俺はその後ろ姿を黙って眺めた。今夜のこれまでの言葉をすべて撤回して、抱きしめたくなるほどそれは美しい後ろ姿だった。ともすると手を伸ばしてしまいそうだった。俺は彼女と生きる未来を想像してしまうことのないよう、思考を遮断した。そしてただ降りしきる雪の音に耳を澄ましていた。