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第118話 この物語はこれで終わりじゃない 6


 俺の出した答えを聞く場所として柏木が指定したのは、街が一望できる展望台だった。


 そこに着く頃には陽が沈んで、すっかり夜になってしまっていた。夕方から降りはじめた雪はあたりを白く染めあげ、長い冬がまだ終わっていないことを春が恋しい人たちに教えていた。


 柏木はグレーのハイネックセーターにブルージーンズ、オレンジのダッフルコートという格好で俺を待っていた。雪で髪型が崩れるのを防ぐためか、フードを深くかぶっている。


「おっそーい!」と彼女はフードから顔を出して言った。「約束の時間からもう一時間以上経ってるんですけど。ナンパしてきたお兄さんによっぽど着いていっちゃおうかと思った!」


「すまんすまん」

 俺は平謝りするしかない。実は月島がな、とあけすけに打ち明けるわけにもいかない。ただ俺も謝るだけが能じゃなかった。柏木が立腹していることを見越して、ここに来る途中の自動販売機でホットコーヒーを二缶買っておいた。その片方を彼女に手渡すと、嘘みたいに機嫌は直った。俺は安堵して自分の缶を開けた。俺たちはコーヒーで体を温めながら、しばし展望台から生まれ育った街の夜景を眺めた。


「どうしてこの場所に呼んだんだ?」と俺は聞いてみた。

「この展望台の下ってさ、ラブホテル街でしょ。悠介の答え次第では、盛り上がってそのまま……っていう?」

「おいおい」俺はコーヒーを噴きそうになる。


「というのは冗談で」柏木はおちょくるように缶を頬に当ててくる。「なんとなく、よ。なんとなく。悠介と出会って、一度は恋人同士になって、一緒に泣いたり笑ったりしたこの街を、悠介と一緒に見てみたかった。ただそれだけ。チカン視点で」

「それを言うなら、フカン視点、な」


「ああ、俯瞰あれってフカンって読むんだ。言われてみれば、チカン視点って、なによ?」

「しっかりしてくれよ、特待生様」


 柏木は笑った。

 俺も笑った。二人の笑い声を風がかき消すと、彼女は口を開いた。

「さて、突然ですがここで問題です」

「なんだよ。本当に突然だな」


「あたしが一番好きな食べ物は、なんでしょう?」


 記憶の中の彼女はそれが人の食べ物である限り、なんでもうまそうに食べていた。一番好きな食べ物。なんだろう? 思いつくのは、俺のためによく作ってくれた、アレだ。

「お好み焼き、か?」


「ぶっぶー」柏木は口を尖らせる。「それはあたしの中では商品だもん。そば屋のせがれが好物はなにって聞かれて『そば』って答えないでしょ? それと同じ。正解は納豆トーストでした。作るのラクだし、チーズをかけても目玉焼きを乗せても絶品なの」


「納豆トースト?」食べているところを見たこともなければ、好きだという話を聞いたこともない。


「第二問!」

「おい、いつまで続くんだよ」


「悠介が正解するまで」と柏木は当然のように言った。「あたしが尊敬する歴史上の人物は誰でしょう?」


 尊敬する人がいるということ自体、初耳だった。

「さっぱりわからん。ヒントがほしい」


「そうだねぇ、あるものを発明した人。今のあたしが生きるために欠かせないあるものを」


 俺はすぐにピンときた。

「X線を見つけてレントゲン撮影を発明したレントゲン博士だな。心臓の検査では欠かせないもんな」


「ぶっぶー。正解はエジソンでした。エジソンはすごい人なの。だってトースターを発明したんだよ? トースターがなきゃ、あたしは納豆トーストを食べられないじゃない」

「どんだけ好きなんだよ……」


「それでは第三問。あたしが無人島にひとつだけ持っていけるとしたら、何を選ぶでしょう?」

 傾向が見えてきた。ひとつしか思いつかない。「トースターだな」と俺は自信を持って答えた。


「ぶっぶー。無人島だよ? 電気がないんだから使えないじゃん」

「いや、急に真っ当だな」


「答えは英会話の本。めちゃくちゃ英語の勉強して、いつか近くを通りかかったジョニー・デップ似のイケメン海賊に見初められるの」

「当たるわけがない」


「もう、しっかりしてよ」と柏木は言った。「第四問。あたしが理想とする異性との出会い方って、どんなのでしょう?」

「無人島にいたら、カッコイイ海賊に助けられる」


「ぶっぶー。だってそれはあまりにも現実的じゃないでしょ。もっとソボクでいいの。正解は、学校の前と後ろの席同士になって、話をするうちに仲良くなる、でした」


 それは身に覚えのある出会い方だった。この三年間、俺は教室で後ろの席から今隣にいる女の背中を見続けた。


「そう。あたしにとって、悠介との出会いはまさに理想的だったの」と彼女は言った。「まったく。ゼンゼンあたしのことわかってないねぇ。そろそろ正解してくれないと」

「お、おう」


「第五問」と彼女は言った。そして一拍間を置いた。「それでは、あたしが理想とする異性との別れ方って、どんなのでしょう?」


「――え?」

「どんなのでしょう?」


 俺はそれについて考えた。柏木の性格を考慮に入れれば、答えはさほど難しくなかった。

「笑顔で、後腐れなく、互いの幸せを願い合う、そういうような別れ方だ」


 彼女は静かに手を叩いた。

「やっと正解が出たね。さすが悠介。やっぱりあたしのことをよくわかってる。そうなの。あたしはさ、なみだナミダで湿っぽくじめじめした別れ方は大嫌いなの。最後はやっぱ良い思い出でスッキリ終わりたいじゃない? だから悠介。あたしたちも笑顔でお別れしよう」


「柏木おまえ……」

 俺が二の句を継げないでいると、彼女はこちらの顔を見てこう言った。

「あたしじゃないんでしょう? 悠介が選んだのは、あたしと一緒の未来じゃないんでしょう?」


 それはまぎれもなく、俺がこの後彼女に伝えようとしていたことだった。俺の出した答えだった。


「どうしてわかった」と俺は言った。

「わかるよ」と彼女は言った。「だって今夜の悠介の口ぶりとか仕草とか、『この女と一緒に生きていく』っていう覚悟を持った男のそれじゃなかったもん。そんなの、わかるよ。あたしを誰だと思ってんの。そんくらい、見抜いちゃうって」


 見抜かれていないと思ってクイズに答えていた自分を俺は恥じた。柏木はすっかり冷めたであろうコーヒーを飲み干して、口を開いた。


「保留になってたあの約束――高校卒業後はそれぞれのしたい勉強をして、あたしの病気の治療法が確立したら、一緒になって居酒屋をやろう。それが果たされることはなくなっちゃったけど、ま、文句は言えないよ。悠介が大学進学をあきらめなきゃいけなかったのは、他でもなくあたしのせいだからね」


「おまえのせいだなんて思ってないよ」と俺は気休めではなく言った。


「ありがと」と言って柏木は夜の街を眺めた。「あたしは特待生で受かったこの街の大学に行くよ。それで将来は小学校の先生を目指す。そんなわけであたしは春からもこの街にいるからさ、ひょっとしたらばったり会うこともあるかもしれないね。その時は、高校時代に共にいろんな困難を乗り越えてきた戦友同士として、笑って昔話でもしようよ。どっかのカフェでフレンチトーストでも食べながら」


「そこは納豆トーストじゃないのか」

「それでもいいよ? うちに来ればお店よりおいしいのをあたしが作ってあげる」


 柏木はくすっと笑った。それにつられて俺も笑った。


 やがて彼女はコートの上から自分の胸に手を当てた。

「悠介が夢を犠牲にしてまで救ってくれたこの命、大切にする。もうあたしは生きていていいのかなんて疑問に思わない。生きていていいんだよ。この心臓が動き続けてくれているのがその証拠。あたしはもう大丈夫。ひとりでも大丈夫。だから悠介。悠介もこの先、なにかつらいことがあっても、絶対にへこたれたりしないで。前を向き続けて」


 俺はうなずいた。

「どんな困難に見舞われてもこの世を恨まなかったおまえを見習って、少しはこの世界を好きになる努力をしてみるよ」


「バシッと決めるところなのに、これじゃあ台無し」と言って柏木は、俺の頭に積もった雪を払い落とした。「まったく、カッコ悪いったらない」


 見れば柏木の頭にだって、うずたかく雪が積もっていた。「人のことは言えないだろ」と言って俺も雪を払ってやった。すると彼女は茶目っ気たっぷりに笑った。


 この三年間、幾度となく繰り返してきたこういうやりとりもこれが最後だと思うと、ふいに俺は目の奥が熱くなるのを感じた。それは抑えようと思っても抑えられるものじゃなかった。


「ちょっと悠介! あたしさっき言ったでしょう? 涙の別れはイヤだって。泣いちゃダメじゃない」


 そう言う柏木の声はえらく震えていた。彼女はぐすんと鼻を鳴らして、手を叩いた。


「だめだ。これ以上悠介の顔を見てると最悪の別れになっちゃう。手を出して。互いの幸せを願い合う握手をして、おしまいにしよう」

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