外は思いのほか寒くなかった。コートはいらないくらいだった。
ひと冬のあいだ降り続けた雪がとけきった道を歩いていると、俺は嫌でも新しい季節の訪れを感じることになった。すぐに頭が冷えると思っていたが、このぶんだとしばらく歩かなきゃいけないみたいだ。
そうしてあてもなく街をぶらぶら歩き続けて、だいたい一時間が経ったその時だった。
俺の足はひとりでに動きを止めた。それはなぜかといえば、前方のさびれた街灯の下に、
そいつは今夜俺が大きな迷いを抱えてこの道を通ることをわかっていたかのように――いや、実際にわかっていたのだろう――ほのかな笑みを浮かべてそこにたたずんでいた。思えばこいつの言葉がすべての始まりだった。
「あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております。心当たりがおありなのでは?」
俺は無意識に天を仰いだ。そして月の満ち欠けのタイミングに運命じみたものを感じ、思わず苦笑した。
今日は、すべてが始まったあの日と同じく、満月だった。
占い師だ。街灯の下にはフィクション世界を
「ご無沙汰しておりました」と占い師はしゃがれ声で言った。
言うまでもなく俺は黒マントの下の正体が誰なのか、わかっていた。そしてそのことを、彼もまたわかっていた。
それでも俺は小芝居に付き合うことにした。なにしろご丁寧にシワの一本まで
「今でもあんたに呼び止められた夜のことをよく覚えてるよ」と俺は言った。「あの時も今夜と同じ、満月だった」
「あれからもう三年になりますな。いかがでしたかな。この三年は?」
「何も起こらない平穏無事な高校生活を望んでいたわけだけど、
占い師は皮肉に気づいてひとしきり笑った。
俺も笑った。ただし、ひっきりなしに面倒事が起こり続けた三年間を思い返して。
「それで、こんな時間にこんなところでなにしてんの。また幸せな未来を願う不幸な少年にもっともらしい甘い言葉をかけて、惑わすつもりでいたの?」
「いやはや、これは参りましたな」と占い師はバツが悪そうに言った。「そのようなつもりはいささかもありませぬ。わたくしは、何を隠そう、あなた様にお目にかかりたかったのでございます」
「光栄なことで」と俺は言った。そうだろうとは、思っていた。「で、何の用?」
「不本意ながらあなた様を惑わせてしまったことの、お詫びをしたいのです」
「お詫び?」
占い師は卓の上の水晶に視線を落とした。
「見えまする。いくつもに分岐した道の前で、立ち止まってどの道に進もうか迷うあなた様のお姿が。
なるほど、と俺は思った。先生は――いや、占い師は例の能力を使って、文字通り“見る”つもりなのだ。俺の前にあるいくつかの未来を。
「もちろんお代などちょうだい致しませぬ。いかがなされますかな?」
それについて俺は考えた。答えが出るのにさほど時間はかからなかった。
「正直言うと、それぞれの道の先に何が待っているのか、占ってほしい思いはあります」気づけば敬語になっていた。「でも、遠慮しておきます」
「ほう。もしよろしければ、その理由をお聞かせ願えますかな?」
「俺はこの三年間で数えきれないほど多くの人と出会いました」と俺は切り出した。「いろんな人がいました。そのなかには、人の未来が見えるという人すらいました。その人は学生時代に雷に打たれたことで、人知を超えた能力が身についたそうです」
占い師は身じろぎひとつしなかった。俺は話し続けた。
「今から二十年ほど前、その人はある未来を見てしまいます。自分の愛する娘が若くしてみずから命を絶つ未来です。それ以来、彼はその未来だけに意識を向けて生きるようになりました。今身の回りで何が起こっているのかなんて、まったく気にかけなくなってしまいました。良いことだって、すばらしいことだって、日々の中でたくさんあったはずなのに。
そうなんです。未来を知るっていうのは、そういうことなんです。娘を亡くすという絶望とは対極にある、希望に満ちた未来を知ったとしても同じです。きっとその未来だけに意識を向けて生きてしまう。今をないがしろにして。人間って、そういう生き物です。
俺はずっと、自分にとっての幸せとはなにか、考え続けてきました。でもきっとそれは、億万長者になるとか、ノーベル賞をとるとか、そういう偉業を成し遂げた先にあるものじゃなくて、あったかいメシを食えるとか、ふかふかの布団で寝られるとか、そんな日々のささやかなことの積み重ねのように思うんです。
それを俺に気づかせてくれたのは、明日なにが起こるのかすらわからなかったこの三年間です。未来に何が起こるかをここで知って、今が――自分の身のまわりで何が起きているかが――見えなくなるんじゃ、本末転倒です。
だから占いはいりません。未来はわからない。それでいいです。これまでもそれでやってきましたし、これからもそれでやっていきます。何が起こるかわからない人生を、俺なりに楽しんでいきますよ」
占い師は卓の上で手を組んで長いあいだ黙っていた。やがて息を大きく吐くと、意を決したように立ち上がった。そして顔を覆っていた黒マントをみずから脱ぎ、それからボイスチェンジャー内蔵のループタイを首から外した。
「どうやら私は君のことをまだ子供だと思って
「おかげさまで、いろんな体験をさせてもらいましたから」今度は皮肉抜きで答えた。
先生はうれしそうに笑った。それからこちらの顔をまじまじと見つめた。
「神沢君。どうやら、その顔からするに、迷いが消えたようだね?」
俺はうなずいた。深く、うなずいた。
「今、自分の幸せについての考えを話してみると、はっきりと見えました。進むべき道が。実はもう答えは出かかっていたんですが、簡単な選択じゃないだけに、それでいいのかずっと自問自答していました。でも決めました。やっぱりはじめに進もうと思った道に進むことにします」
「そうかい」と先生は言った。そしておそらく、その未来を見た。「ほうほう。なるほどなるほど。
俺は微笑んだ。
先生も微笑んだ。そして言った。
「それにしても、君の言葉にははっとさせられるよ。『何が起こるかわからない人生を楽しんでいく』か。私も叶うならそんな生き方がしてみたかった」
「今からでも遅くないんじゃないですか?」
「え?」
「未来が見えたって、気にしなきゃいいんです。未来なんて、いくらだって変えられます。現に、娘のジュンさんがみずから命を絶つ未来は変わったじゃないですか。先生も明日から、何が起こるかわからない人生を楽しめばいいんですよ」
* * *
「もったいなぁーーーーい!」隣で
「これでよかったんだよ」と僕は6歳の娘をなだめた。「これでよかったんだ。だいたい、十年前のあの夜にもし先生に未来を教えてもらっていたら、きっと愛はこの世に生まれてなかったんだぞ? それでもいいのか?」
娘はおもしろくなさそうに頬をふくらませた。
「わたしなら、ゼッタイに未来を見てもらうな。うん。知りたい。ねぇお父さん。マツトーヤ先生に、会わせてくれないかな?」
「すまんな。それはできないんだ」
「どうして?」
「もう占い師はこの世にいないからだ」
「え?」
「松任谷先生は去年、病気で亡くなった。70歳だった」
「そう、だったんだ」
「実はな、先生はあの夜の時点で一年後に自分が死ぬ未来を見ていたらしいんだ。でもそんな未来のことはまったく気にしないことにした。するとそこから十年も生きたんだ。ずっと運命に囚われていた先生は、ようやく人生の最後の十年を生きたいように生きることができたんだ」
娘は何か思うところがあったのか、庭の桜の木を無言でひとしきり眺めた。それから口を開いた。
「とにかく、お父さんは、その夜にどの道に進むか決めたんだね?」
「ああ」と僕は当時を思い出して言った。「あとは家に帰って寝るだけ、だったんだけどな。問題はもう一つあった。その決断の結果を、どう三人に伝えるか。それも考える必要があった。それで家に帰ったはいいが、考えて考えて考えて、一睡もできなかった。結局、徹夜でその日を迎えたんだ」
「その夜眠れなかったのは、お父さんだけじゃないね」
「違いない」と僕は言った。「それじゃ、いよいよ語ろうか。高校三年間でいちばん長い日になった、あの一日のことを」