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第117話 明日、晴れたら 2


 その一報・・・・を俺が知ったのは、鳴大の入学金を振り込むため、銀行に到着したちょうどまさにその時だった。


 電話をかけてきたのは柏木の叔母のいずみさんだった。「晴香が倒れたんだ」と彼女は動揺した声で言った。


 それを聞くと俺は反射的に銀行から飛び出していた。どうして柏木が倒れたのか、尋ねるまでもなかった。心臓の病気がまた悪さをしているとしか考えられなかった。俺は柏木の無事を祈りつつ、タクシーを拾って彼女が通っている病院へと向かった。


 院内に入ると、どういうわけか妊婦さんに声をかけられた。誰だ? と思ってよく見てみると、他でもなくそれはいずみさんだった。しばらく会わないうちに腹は大きく膨れ、顔つきも別人のように変わっていた。それもそのはずだ。早ければ来月には母親になるということをすっかり忘れていた。


「悠介、なんだい、来てくれたのかい!」

「あんな電話があればそりゃ来ますよ」そりゃあ来る。「あいつの――晴香の状態は、どうなんですか?」


「とりあえず今は眠っている。麻酔と鎮痛剤が効いているから」


「晴香が倒れた理由はやっぱり――」と言ってから、俺は胸に手を当てた。


 いずみさんも胸に手を当ててうなずいた。

「たった今、主治医の先生から検査の結果とこれからのことを聞いてきた。悠介。せっかく来てもらったのに悪いけど、晴香なら大丈夫だから、帰っていいよ」


「嘘ですね」と俺は断定した。彼女の声は電話で聞いた時以上に動揺していた。「いずみさん。隠さないでください。担当の医者はなんて言ったんですか?」


「悠介は聞かない方がいいと思う。あんたに電話をかけた私が馬鹿だった。気が動転していたんだ。あの電話はなかったことにしておくれ。たしか鳴大の獣医学部に受かったんだろう? 入学手続きやらなんやらで忙しい――」


「いずみさん」と俺は彼女の言葉をさえぎった。「このままじゃ帰ったところでなにも手につかないですよ。いずみさんは間違っていません。俺に電話でこのことを教えてくれて正解です。俺は亡くなった恭一さん――あなたのお兄さんから『晴香のことを頼んだぞ』と遺言を託されているんです。どうか本当のことを聞かせてください。俺はそれを知らなきゃいけない」


 いずみさんは亡き兄を恨むように天を仰いだ。それから近くの自動販売機でお茶を二つ買うとその一つを俺に手渡して、二人がけのソファに腰を下ろした。俺が隣に座ると彼女はお茶を飲んでからゆっくり口を開いた。


「悠介もだいたい予想はついていると思う。うん。きびしい状況・・・・・・だよ。専門的な難しい話は私もよくわからなかったけれど、早い話が、どうしたって手術が必要になるそうだ。それもかなり特殊な手術が」

「特殊な、手術」


「そう。ほら、あの子は春にも一度ひどい発作が起きて手術をしているだろう? 患部が患部だけに、同じ場所にそう何度もメスを入れるのは良くないらしいんだ」


「なるほど」たしかにそこは、心臓だ。「それで前回と同じ方法はとれないというわけですね?」

「ああ。ただその手術ってのは、本当に特殊らしくてね、どうも保険とかがいっさい利かないっていうんだ」


「つまり手術の費用は高額になると」

「かなりの高額に」といずみさんは言いにくそうに言い直した。「もちろん手術をしたからといって100%必ず晴香の命が助かるっていう保証はない。失敗する可能性もある。でも望みがあるなら、私はそれこそ家中ひっくりかえして、あるだけの金を集めてでも手術をしてもらうつもりさ。ところが……」


「ところが?」


 彼女は自身の膨らんだ腹を撫でた。「この子の父親のことは、晴香から聞いている?」


 聞いている。もっともらしい理由をつけて結婚式の高額な費用を振り込ませ、さっさと行方をくらませた男。そういう奴をこの世界では結婚詐欺師と呼ぶ。

「聞いています」と俺は正直に言った。


「計算してみるとどうやら、うちにあるだけの金を集めても、求められる手術費用には足りないんだよ。それがあろうことか、私がこの子の父親に振り込んだ分だけ」


 慰めるのも、責めるのも、違う気がした。俺はふとロビーに備え付けのテレビを見た。ちょうどローカルの天気予報が映っていた。明日は久し振りの快晴ですと気象予報士は自信たっぷりに言っていた。


「もうこうなったら消費者金融でもどこでもいいから足りない分を借りて手術を――と言いたいところだけど」いずみさんは再び腹をさすった。「もうすぐ始まるこの子との新生活が借金から始まるってのもね……。だってほら、この子にだって未来ってもんがあるじゃないか。なにも晴香を見殺しにするって言いたいわけじゃないんだよ? たださ、私ももう、一人の母親なんだよ。晴香には悪いけど姪っ子と実の子、どっちが大事かって言われたら……。参ったな。なにか良い方法はないかねぇ……」


 気づけば喉がカラカラだった。俺はお茶を一気に飲み干して、ある質問を彼女にぶつけた。

「ちなみに、手術のために足りない金額は、いくらなんですか?」


 ♯ ♯ ♯


 俺はいずみさんと別れて、柏木の病室に一人で来た。


 彼女はベッドで仰向けになって静かに眠っていた。その表情はどこまでも穏やかだった。ともすると暖かい春の日に野山の木の下でうたた寝しているだけみたいに見えた。


「なぁ柏木」と俺はベッドの隣に椅子を置いて座り、声をかけた。「びっくりしたよ。手術費用の足りない分、いくらなのかいずみさんに尋ねてみたら、ある金額とぴったり同じだったんだ。驚くぞ。なんだと思う? 俺の鳴大への進学資金だ」


 もちろん柏木はうんともすんとも言わなかった。


「つまり俺が三年間、居酒屋バイトで貯めた金に高瀬が『未来の君に、さよなら』で新人賞をとって獲得した賞金を合わせると、ちょうどいずみさんが結婚詐欺師に騙し取られた金額になるんだよ。信じられん。こんなことってあるんだな」


 俺は一息ついてから、話し続けた。


「それにしてもさ、なんだっていずみさんはまんまとカモにされちまったんだろうな? あの人、頭は切れるし人を見る目だってあるのにな。まぁでも仕方ないのか。長い間ずっとおまえの親代わりをしてきて、これからやっと自分の好きなように生きられるとなれば、舞い上がっちゃうか。恋は盲目ともいうしな。一度くらいやらかしたからといって、誰も責められないよな」


 叔母さんは何も悪くない。枕の上の表情はそう言いたげだった。


「なぁ柏木。今、俺の頭の中は、どうなってると思う? 迷ってるよ。すごく迷ってる。なにで迷ってるって? 決まってるだろ。春から大学生になるか、それともおまえの救世主・・・になるか、だよ。俺はまだ鳴大の入学手続きをしていない。入学金を振り込もうとしたところでいずみさんから電話が来たんだ。金は全額手元にある。そうなんだよ。おまえを救おうと思えば、救えちゃうんだよ」


 そこで俺の耳に、松任谷先生の言葉がよみがえった。「君たちにはそれぞれ、試練が待っているようだ。望む未来を手にするための、最後の試練」と彼は言った。俺は苦笑いするしかなかった。


「これがまさに俺の“最後の試練”なんだろうな。神様が文字通り試練を与えてるんだろうさ。俺がどれだけの覚悟で大学に行きたいか試してるんだ。本当に夢を叶えたければおまえを見捨てろって言ってるんだ。まったく、いくらなんでも厳しすぎないか? 俺はこれまでにだってさんざん試練を乗り越えてきたぞ? それでようやく掴んだ大学合格だぞ? それも鳴大の獣医学部だ。俺、がんばったよなぁ? 神様ならそこを考慮してもうちょっとやさしい試練にしてくれたっていいのにな? おまえもそう思うだろ?」


 しばし待ってみたが、もちろん答えはなかった。


「ま、とにもかくにもこれが俺の試練だ。そして同時に、おまえの試練でもあるよな」


 それから俺は口をつぐんで、静寂の中、どうしようか考えた。自分の未来をとるか。それとも柏木の未来をとるか。


 公平に自分のことと柏木のことを同じだけ考えようと努めた。でもだめだった。頭に浮かんでくるのは柏木のことばかりだった。自分のことなんか何一つ思い浮かばなかった。


 俺はあきらめて柏木の未来を想像した。いろんな立場の彼女がそこにはいた。


 居酒屋の女将として店を切り盛りする柏木。

 小学校の教師として教壇に立つ柏木。

 聞き分けの良い子の母親になっている柏木。

 やんちゃな子の母親になっている柏木。


 さまざまな姿がイメージできた。でもどの柏木にも共通しているのは、笑っていることだった。暗い顔をしている柏木はまったく浮かんでこなかった。彼女は雲一つない晴れ間のような笑顔で未来を生きていた。


 そうして彼女の未来を想像してしばらく時間が経った。明るかった外はいつしか闇に覆われていた。


 やがて俺は柏木と出会ったばかりの頃をふと思い出した。高校一年の春だ。あの頃の彼女はまだ母親を亡くしたショックから立ち直れていなかった。高校の屋上のふちに立って、生きている意味を空に問うていた。あたしなんか生きていていいのかな、と。


「なぁ柏木」と俺は何時間かぶりに口を開いた。「こないだ、おまえ、こんなことを言っていたよな。『あたしはこの世界が好きだ。ろくでもない人は多いし理不尽なことばかり。でもそういう世界に生まれてきちゃったんだから愛するしかない。どれだけひどい世の中でも、あたしはここで生きていたい』。この三年で、そんなことを言えるようになったんだな。今ならあの問いの答え、俺が言ってやれるよ。おまえは生きていていいんだよ。世の中の有り様に文句ばかりつけている俺なんかより、よっぽど生きる資格があるよ」


 ああ、とそこで自然と口から息が漏れ出た。「生きていていいんだよ、なんて言っちまったら、俺がとる選択肢は、どうやら一つしかないみたいだな」


 なんの気なしに目を閉じると、俺の夢を応援してくれた人たちの顔が思い浮かんだ。高瀬はもちろん、月島、太陽、日比野さん、湯川君、それから、獣医の柴田先生。彼らはその選択に多かれ少なかれ疑問を持っていた。「それでいいの?」「考え直して」そんな声がどこからともなく聞こえてくる。


「悠介、それは絶対にダメ!」そう大声で言ったのは――最後に思い浮かんだ顔は誰かというと――柏木だった。


 はっとして俺は目を開いた。考えてみれば、ある意味ではいちばん俺の夢を応援してくれていたのは柏木だ。自分のせいで俺が夢をあきらめるなんてことを、彼女が許すはずがなかった。


 俺は椅子から立ち上がり、ベッドで眠る柏木の手をとった。そして語りかけた。


「なぁ柏木。俺は鳴大にも行きたいし、おまえにも生きていてほしい。でもどっちもってわけにはいかない。どっちかは切り捨てなきゃいけない。究極の選択だ。こういうときはもう、天に決めてもらうしかないよな。それならおまえも文句はないだろ? 


 そういうわけでここはひとつ、勝負をしよう。明日の天気がもし曇りや雪なら、おまえの勝ちだ。俺は大学に行って獣医を目指す。でも晴れなら、おまえの負けだ。柏木。いいか? 明日、晴れたら、生きろ」

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