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第116話 それは誇っていいことなんだろう 3


「8083、1107、2918、8739」


 僕のそのつぶやきは、当然ながら隣に座る6歳の娘を困惑させた。


「お父さん、急にどうしちゃったの? 今の数字って電話番号か暗証番号?」


「ああ、ごめん、愛」僕は娘の頭を撫でた。「これはお父さんたちの受験暗号なんだ。あれから十年経った今でもよく覚えてる。四人ともたまたま合格発表が同じ日でさ。あの日は朝からずっと受かってるかどうかって話をみんなでしていたから」


「私知ってるよ」と娘は得意顔で言った。「大学の合格発表って、受かった人の受験番号が張り出されるんでしょ? アニメで見たもん」


「ああ、そうだ」と僕は言った。そして十年前を思い出し、口元を手で覆った。「ただ残念なことに、さっき言った四つの受験番号のうち、一つだけは、張り出されなかったんだ」

「えっ? ということは……」


「話を再開しよう」と僕は言った。「あの日のことは今でも忘れられない。人生でいちばん緊張した日と言ってもいいだろう。あれはたしか記録的な大雪に街が見舞われた日だった」


 * * *


 昨夜未明から降り続けた雪が街を白く覆い尽くしたこの日、俺たち五人は朝から高校の旧手芸部室に集まっていた。


 五人の中でただひとりすでに合格を手にしている柏木はホワイトボードに全員のフルネームを書くと、自分の名前の上に手作りの赤い花をつけた。

「きちんと五つ用意してあるから。余ることがないといいね」


 太陽は花を見て苦笑した。「なんだか選挙みたいだな」


 柏木は次にみんなの受験番号を聞いて、それをそれぞれの名前の下に記した。そしてわけのわからないことをつぶやいた。

「月島は八百屋さん。優里はいい女。葉山君は憎いわ。悠介は花咲く」


「うちはせんべい屋だ」月島は訂正する。

「それはありがとう」高瀬は否定しない。

「憎しみは何も生まんぞ」太陽はさとす。「柏木おまえ、急にどうしたんだ?」

「なるほど」俺は自分の受験番号を見て意味を理解した。「8739で。語呂合わせか」


「そうそう。四人ともちゃんと言葉になるから面白いなと思って」


 それを聞くと受験番号1107は恥ずかしそうに鼻をかいた。


 受験番号2918は羨望のまなざしを向けてくる。

「悠介はいいな。『花咲く』なんてめちゃくちゃ縁起が良いじゃねぇか。それにひきかえオレときたら……。不合格で結果が『憎いわ』なんてことにならなきゃいいが」


「ちなみに柏木はなんだったの?」と8083番の月島が訪ねた。

「あたし? あたしは三桁だった。たしか、081」


 俺は太陽と男同士で顔を見合わせた。同じ四文字を思い浮かべているに違いなかった。言わないけど。「それはそれは」


「さて」と柏木は言った。「どういう順番で四人の合否がわかるのかしらん?」


「最初は私だ」時計を見て挙手したのは、東京の有名私大の政経学部を受けた月島だ。「私はもうまもなくわかる。思いのほかママが盛り上がっちゃって、キャンパスまで結果を見に行ってくれてる。ネットでもわかるけどせっかくだから、ママからの連絡を待つことにする。ま、模試ではC判定を一度とれただけだからね。あまり期待しないでおくよ」


「その次はオレだ」と札幌の医大を目指す太陽は言った。「オレはネットで見ちまうぞ。手っ取り早いからな。とはいえ、万が一間違いってもんがあったら大変だから、念のためキャンパスに札幌住みのいとこを向かわせた。大学本部に掲示される番号に、さすがに間違いはないだろ」


 残ったのは鳴大を受けた俺と高瀬だ。実はあらかじめふたりで相談して、どうするか決めていた。高瀬が口を開いた。

「鳴大もネット発表はあるけど、私たちは直接キャンパスに行く。同じ市内だし。葉山君の結果がわかったら、ここを出ることになる」


 月島は皮肉っぽい笑みを浮かべた。「一緒に大学に行こう。そう約束し合った男女がモバイル機器で合否を知っちゃうなんて、なんだか味気ないもんねぇ」


「別にそういうことではないけど」高瀬は肩をすくめる。「とにかくずっと夢だったから。私も神沢君も。合格発表の日に大学の構内でたくさんの受験番号のなかから自分の番号を探すのが。待っている結果が合格でも不合格でも、それを叶えに行く」


 スマホで合否を知るなんてぜんぜんドラマティックじゃない。俺の記憶がたしかなら昨夜高瀬はそう声高に言っていたはずだが。まぁここは黙っておく。


 そうこうしていると、ふいに月島のスマートフォンが鳴った。ママンからだ、と彼女は言った。室内はにわかに緊張が高まった。俺たち四人の体はこわばった。しかし当の本人はどうやら受かっている可能性を本当に考えていないらしく、涼しい顔であっさりスマホを手にとった。そして電話に出た。


「うん。うん。うん? うん!? それは間違いないの? 八百屋さんなのね? 八百屋さんがあるのね!? 写真? うん、お願い」


 月島は通話を終えると、スマホを操作して、ママンから送られてきた画像を確認した。そしてそれを俺たちにも見せた。8083。そこにはたしかにその数字がある。

「なんかよくわかんないけど、受かっちゃった」


 誰からということもなく拍手が巻き起こる。月島は柄でもなくガッツポーズを決めた。

「不思議なもんだね。大学なんて正直あんまり行きたくなかったのに、こうして受かるとなんだか急に行きたくなってきた。うちの店の再建をしながら女子大生になったっていいよね? せんべい屋の娘が日本で最初の女性総理を目指すってのも、アリだよね?」


 それを肯定するように柏木はホワイトボードに花を一つ増やした。月島はまたしても柄でもなく俺たちに一礼をした。

「キミたちと出会っていなければ、絶対私はあの大学に受かってなかった。火事でうちが燃えて家族が落ち込んでいる今の状況を考えても、この合格は大きかった。ママ、すっごくよろこんでた。みんな、ありがとね」


 次は太陽の番だった。


 発表時間が迫ると彼は左手に日比野さんのお守りを握り、右手でスマホをしきりにチェックしていた。そしてその時が来た。


「大学のサイトが更新された」と言って太陽は大きく深呼吸した。2918、と何度もつぶやきながら、右手で画面を少しずつスクロールさせていく。額には大粒の汗が浮かび、やがてそれは頬をつたって机に落ちた。それからほどなくして、太陽の右手がぱったり止まった。見ればその手は小さく震えている。


「2900台まで来たけど、どうしても指が動かねぇ。すまねえが、誰かオレの代わりにこの先を見てくれねぇか?」


 太陽の指が動かなくなるのも無理はなかった。彼は幼馴染みを救うため、なにがなんでも合格を勝ち取らなきゃいけなかった。それも現役で。


「貸して」と柏木が代打を買って出た。彼女は太陽からスマホを受け取ると、画面をゆっくりスクロールさせた。そこに2918番があることを――あるいはないことを――たしかめると、何かを思いついたように眉をわずかに動かした。それから無言でどういうわけか俺にそのスマホを手渡した。


 俺は画面を確認してようやく柏木の意図がわかった。この結果はあたしからじゃなく親友ダチから伝えてあげなきゃ。彼女の眉は雄弁にそう語っていた。


 俺は今にも失禁するんじゃないかというくらい緊張している悪友に、優しく声をかけた。「太陽、よくがんばったな。おめでとう。春から医大生だ」


「憎いね! やることが!」太陽はお守りを両手で握りしめ、しばし一人で感慨にふけった。それから思い出したように札幌のいとこに電話をかけ、キャンパスにも2918番が掲示されていることをたしかめた。三つ目の花がホワイトボードに咲くと、やっとその顔には安堵が訪れた。


「忘れちゃいけねぇのは、あくまでもオレはこれでようやくスタートラインに立ったってことだ。まひるを目覚めさせるため、ここからまた長い戦いが始まる。でも、でもよ、今日くらいはパーッと遊んじゃってもいいよな!?」


「いいよ!」柏木が許可する。「あたしも遊ぶ! ずっとガマンしてたんだもん。カラオケでしょ。ボーリングでしょ。ダーツでしょ。食べ放題でしょ。今日はもう全部やっちゃおう!」


「やぶさかではない」月島はワクワクを隠せない。「私も今日くらいはイヤなことを忘れて、楽しもう。歌って倒して投げて食って飲もう!」


「よし、それじゃさっそく予約しとくか。どこもオレたちみたいな受験生で混みそうだからな。今日はとことんみんなで――」みんなで、と太陽は小声で繰り返し、俺と高瀬の顔を気まずそうに見た。「す、すまねぇ。ふたりは、これからなんだよな。合格がわかってつい、舞い上がっちまった……」


「いいよ、謝らなくても」俺は手を振る。まぁ気持ちはわかる。


「神沢君、そろそろ行こうか」高瀬は時計を見て、凛と立ち上がった。「葉山君。予約を入れるなら、五人分・・・お願いね」

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