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第116話 それは誇っていいことなんだろう 2


 俺と柏木にとっての“最後の試練”とやらがなんなのか結局わからないまま、俺は鳴大の二次試験前日を迎えていた。


 月島は有名私大の政経学部を受けるため東京へ、太陽は公立の単科医大を受けるため札幌へ、それぞれおもむいていた。この街の定員割れ私大に特待生で受かった柏木をのぞく四人は、ここからが本当の勝負だった。


 俺が思いがけぬ人物と再会したのは、勉強の息抜きに外へ散歩に出た午後三時すぎのことだ。


 そのクルマは俺の横を通り過ぎるとゆっくり減速し、やがて路肩に停まった。よりによってまわりには他に誰も人がいなかった。


 夏に似たようなシチュエーションで高瀬の母姉に連れ去られたことのある俺は、本能的に逃げ出していた。するとそのクルマはしつこく後を追いかけてきて、俺の進路を妨害するように停まった。


 廃屋の軒先からツララを武器として拝借したところで運転席の窓が開き、見覚えのある中年男の顔が現れた。誰かと思えばそれは、短いあいだとはいえ俺の飼い犬――いや、相棒だったモップを看取った人であり、春に一日だけ仕事を手伝わせてもらった獣医だった。


「僕だよ僕」と柴田医師は言った。「なにもそんなに逃げ回らなくても」

「先生」俺はツララを放り捨てた。「なにもそんなに追いかけ回さなくても」


「いやはや、すまない」と先生は運転席から降りてきて言った。「車の中から見かけて『あっ、神沢君だ!』と思ったんだけどいまいち確信が持てなくてね。それでつい。なんせ春に比べるとずいぶん顔つきが変わっていたから。この一年のあいだに、いろいろあったのかい?」


 いろいろあった。拉致されたり退学させられたり、挙げればきりがない。そりゃあ春と同じ顔はしていない。俺は笑顔を無理に作った。


「ちょうどよかった」と先生は妙にあらたまって言った。「実は君に、どうしても謝らなきゃいけないことがあったんだ」

「謝らなきゃいけないこと? 俺に、ですか?」


 柴田先生は小さくうなずいた。

「春に君が獣医の仕事を見学するということで、うちの動物病院に来ただろう? そのとき僕はこう尋ねたね。どうして獣医になりたいんだと。すると君はこう答えたね。幸せになりたいからだと。獣医になれば平穏な日々と円満な家庭が手に入るからだと。それを聞いて僕はこう言ったね。君は幸せになれないかもしれない、と」


 俺は大きくうなずいた。それは進路に迷う高校三年生の心を少なからず揺さぶる言葉だった。


「今だから打ち明けるが」と先生は言った。「僕はあの頃ちょっと精神的に参っていた。仕事で嫌なことが続いていたせいもあるし、妻と娘が家を出ていって孤独にさいなまれていたせいもある。正直、心がすさんでいた。そんなときに耳にしたのが君のあの言葉だ」


「幸せになりたいんです」と俺はその時を思い出して言った。


「そのまっすぐな言葉をまっすぐに言える君が羨ましかった。意地悪をしてやろう、というわけではなく、簡単なことではないよ、ということを自分の経験を踏まえて伝えたかった。でもなにも、獣医をこころざす若者にあんなひどい言い方をすることはなかった。努力すればなれるよ、とでも言うべきだった。神沢君。遅ればせながら、どうか訂正させてほしい。そしてあのときは、すまなかったね」


 俺は謝罪を受け入れた。突っぱねる理由もない。


「ひとつ聞いてもいいかな」と先生は聞きにくそうに聞いた。「結局、大学はどうすることにしたんだい?」

「鳴大の獣医学部を受けます。明日が二次試験なんです」


「それはよかった」先生の顔はようやくほころんだ。「もし僕のあの言葉のせいで君が獣医師への道をあきらめていたなら、後悔してもしきれなかった。そうか。君の夢は続いているのか。それは本当によかった」


 事実、何度もあきらめかけたわけだが、全部が全部先生のせいではないので俺は黙っていた。


「これはわたくしごとで恐縮なんだがね」と先生は続けた。「実は家を出ていた妻と娘が帰ってきたんだよ。だからもう孤独じゃない。今は仕事を少しセーブして、家族との時間を作っている。まぁこれもひとつの努力だね」


 俺は聞いているしるしにうなずいた。


「それから、ずっと僕の仕事を嫌っていた娘は、獣医という職業を理解してくれて、将来は僕の跡を継ぎたいと言ってくれているんだ。娘は今19歳だ。一年浪人して、あの子も明日、鳴大の獣医学部を受ける。試験会場で神沢君と会うかもしれないね」


「限られた席を奪い合う、ライバルですね」と俺は冗談交じりに言った。


「お手柔らかに」先生は苦笑した。「まぁでも、君もなんだか自分の息子のようだよ。影ながら応援している。君には受かってほしい。心からそう思う。そうだ。合格したら、一度うちにおいで。歓迎するよ。獣医学の未来について、語り合おうじゃないか。がんばれよ、神沢君!」


 柴田先生と別れた俺はそのまま家には帰らず、ある公園まで足を伸ばした。そしてその中でひときわ目を引く桜の木の前まで進んだ。そこはモップが眠っている場所だった。モップは桜の花が好きだった。もちろん今は冬なので樹木は雪に覆われている。


 それでもここに来ると俺はモップと過ごした日々のことを思い出すことができた。さらにあいつの生物兵器レベルで臭かった口のニオイまで。俺は木の根っこに積もった雪を軽く払い、それからしゃがんで手を合わせた。


「モップ。いろいろあったけど、俺はやっぱり獣医になりたいよ。明日は鳴大の二次試験だ。泣いても笑っても明日ですべてが決まる。どうかモップ。おまえの力も貸してくれ。頼んだぞ」


 ♯ ♯ ♯


 ついに迎えた二次試験当日の朝。鳴大のキャンパスに着くと、緊張した面持ちの高瀬がいた。その隣にはどういうわけかある人物・・・・の姿があった。そしてどういうわけか彼女は高瀬よりも緊張しているように見えた。一瞬どっちがこれから試験に挑むのかわからなくなるくらいだった。


「柏木!」と俺は彼女に声をかけた。「なんでおまえがここにいるんだよ?」

「き、決まってるでしょ」その声は上ずる。「ふたりの応援に来たんでしょうが」


「なんか私より緊張してない?」と高瀬が尋ねた。

「そりゃするよ。ふたりが鳴大を目指してがんばってるのを三年前から間近で見てきて誰より知ってるんだから。なんかこう、まるで、自分の子どもたちが試験を受けるみたい」


「晴香は私のことも応援してくれてるの?」よせばいいのに、高瀬はそんな質問をする。


「ははーん」柏木は高瀬の顔を凝視した。「さては本当はこう聞きたいんだよね? 『晴香は神沢君をめぐるライバルである私のことも応援してくれてるの?』って」


 高瀬は否定しなかった。柏木はそんな高瀬を軽蔑しなかった。


「まぁたしかに、優里が鳴大に落ちれば、悠介が優里と約束した『一緒に鳴大に行く』っていう未来は訪れなくなる。あたしが有利になる。でもね、あたしはね、相手のエラーで”勝たせてもらう”なんていうのはイヤなの。せっかく勝つなら、自分でどでかいホームランをかっ飛ばして、誰にもいちゃもんをつけられることなく勝負を決めたいの。それに――」


「それに?」


「それに、これまで優里とはあれこれあったけど、なんだかんだ言っても、あたしの一番の友達はやっぱり優里だもん。恩人だもん。そしていろんなピンチを一緒に乗り越えてきた仲間だもん。そんな大事な人の失敗を望むわけないでしょ。だから優里。がんばって。絶対、受かって」


 その言葉に偽りがないことは、俺が保証してよかった。柏木は自身の合格ではなく俺の合格を祈るため、御札を自宅の神棚にひそかにまつっていた。そんなまっすぐな人間がわざわざここに来てまで嘘をつくはずがなかった。


 それから柏木は何を思ったか、右手を俺の背中に、左手を高瀬の背中にあてた。

「さ。今からふたりに気合いを入れてあげる。なんてったってあたしは、特待生だからね。わかる? 特別待遇生徒様なの。パワーが違うよ。……あっ、今、どうせ定員割れ大学の特待生だろって思ったでしょ?」


 図星を突かれて俺は思わず小さく笑った。

 隣で高瀬もくすくす笑った。


「もう!」柏木は叱咤のつもりか激励のつもりか、とにかく俺たちの背中を力強く叩いた。「よし! これでOK。ふたりとも、行ってきなさい!」


 俺と高瀬はところどころに設置されている案内板を頼りに、広い構内を進んでいった。やがてある掲示がその足を止めた。そこには文学部の受験生は西へ向かうよう、獣医学部の受験生は東に向かうよう指示が書かれていた。


 どうやらここから先はひとりで戦場へ赴かなきゃいけないようだ。


「やっぱり受ける学部が違うと、試験会場も違うんだね」と高瀬は言った。そしてバッグから小さな巾着袋を取りだした。ふたつ、ある。「共通テストのときは同じ大講堂で試験を受けられたから、私の笑顔で神沢君に元気を与えられた。でも今日はそうすることができない。だから、これを私だと思って持っていて」


 そう言って彼女は巾着袋のひとつを俺の手に握らせた。そして残ったもうひとつを自分の手に収めた。


「中には同じものが入ってる。離れていても、同じ光を目指そうっていう思いでこれを作った。まぁ言ってみれば、お守り、ってことになるのかな」


 俺はそのお守りを胸ポケットにひそめた。それを見届けると高瀬は軽く微笑んで、こちらに背を向け、西へ向かって歩き出した。


 その背中が小さくなると、俺はお守りの正体が気になった。中身を見るなとは言われていない。それで俺は胸ポケットから巾着袋を取り出し、中を確認した。


 なるほど、と俺は納得した。そこにはいつまでも輝き続ける、奇跡のヒカリゴケが入っていた。淡く美しい緑の光は、俺にまたひとつ大きな力を与えた。


「高瀬!」と気づけば俺は叫んでいた。彼女は振り返る。もちろんその他大勢の受験生も振り返る。でもこうすることが彼女の1点にでもなれば、というただその思いで俺は声を張り上げた。


「高瀬、ありがとう! 絶対に夢を叶えよう! 高瀬は翻訳家になるため、俺は獣医になるため、次の春からここに通うぞ! 俺たちの挑戦を無理だって言って笑っていた奴らに、見せつけてやろう! 不可能なんてないってことを!」


 それを聞くと高瀬は、他の受験生の目をはばかることなく、両手をメガホン代わりにして叫んだ。

「こちらこそ、ありがとう! 今日この試験を迎えられるのは、神沢君のおかげだよ! 不可能を可能にしてくれた! でもここでもし神沢君だけ落ちたら、それこそ笑いものだからね! がんばってね!」


 高瀬の姿が見えなくなったところで、ふいに強い風が吹いた。その風はなぜかなつかしい匂いを運んできた。生物兵器レベルの悪臭だった。それは何かといえば、モップの口臭の匂いだった。俺は思わず顔をしかめたが、悪い気はしなかった。


 俺は感慨にひたっていた。


 思えば高校に入学した時点では、俺は自分ひとりだけのために大学合格を目指していた。でも今は違う。いろんな人の想いを背負っている。そしてその人たちのためにも大学合格を目指している自分がいる。


 それは誇っていいことなんだろう。


 この三年間で出会った大切な人たちのためにも――ああ、犬も忘れちゃいけない――モップのためにも、この勝負、絶対に勝つ。

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