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第116話 それは誇っていいことなんだろう 1


 二月に入って最初の水曜日の放課後、俺は大仕事・・・があると柏木に言われ、彼女が住んでいる“鉄板焼かしわ”まで連行されていた。


 でも毎週水曜日はたしか定休日のはずだった。やはり店内に客の姿はなかった。妊娠中の叔母のいずみさんもいなかった。


 大仕事の内容を聞こうと思った矢先、柏木はこまごました雑用があるとか言ってエプロンを着けて厨房に行ってしまった。それで俺は仕方なくマガジンラックから最新号のローカル週刊誌を取り出し、客席に座った。


 週刊誌の隅から隅まで目を通してみたが、タカセヤ社長の醜聞記事はどこにも見当たらなかった。どうやら周防すおうは約束を守って、大きな力を持つ父上フィクサーに記事を揉み消すよう頼んだらしい。そしてその力が影できっちり働いたらしい。


 喜ぶべきなのか嘆くべきなのか、俺は複雑な気持ちになった。これで高瀬は鳴大に受かりさえすればもう何物にも進学を邪魔されることはなくなった。ただし俺が彼女と共に生きることを選ばなければ、彼女は周防と結婚しなければいけなくなった。それが周防の提示した、俺たちに手を貸す条件だった。馬鹿げた取引だ。しかしどういう取引であれ、高瀬が応じてしまったのだから仕方ない。


「どしたの悠介」とそこで、柏木が厨房から出てきて言った。「珍しいね、週刊誌なんか読んで。エッチな写真が見たいの? あたしが脱いであげよっか?」


「そ、そんなんじゃねぇよ」俺は慌てて週刊誌を閉じた。それから、本当に脱がれても困るので、高瀬の身に降りかかったことを話した。


「へぇ。お父さんがハニートラップに引っかかるなんてね。松任谷先生の言っていた『最後の試練』って、このことなのかな?」

「高瀬の場合はそうなんだろう」


「娘の未来を邪魔するなんてどうしようもない父親! なんだか好き勝手やって死んだうちのバカ親父のことも思い出してまた腹が立ってきた!」


「まぁまぁ」俺はいったい何しに来たんだっけ、と思った。受験勉強の時間をいてまで。そうだ。ここに連れてこられた本当の理由をまだ聞いていなかった。「ところで柏木。俺の大仕事って、なんなんだ?」


 彼女はエプロンを外すと、緊張をほぐすように深呼吸した。

「悠介には、ある郵便物をあたしの代わりに受け取ってほしいの」

「ある郵便物?」


「そう。ほら、トーダイ受験には失敗したから、前も話したようにこの街の私立大学を受けたのね。教職免許をとって小学校の先生になる未来も選択肢として残しておくために。それでその試験の結果が、今日この後、郵送で来るのよ」


 この店内にプラネタリウムでも作ってよ。そのレベルの無理難題を覚悟していた俺は拍子抜けした。

「いや、それくらい、自分で受け取れるだろ?」


「意外と思うかもしれないけど、あたしって、こういう合格不合格の通知を見るの、すごく苦手なの。どうしてもだめなの。心霊写真とかは平気なのに。なんだか『不合格』ってのが自分のすべてを否定されたような気がしちゃう。高校入試の結果だって見るのに三日かかったんだから。だからあたしの代わりに、悠介が合否を確認して。そして結果をあたしにうまく伝えて。これは一世一代の大仕事だよ」


 俺は柏木の張り詰めた表情とその大学の偏差値のギャップを考え、不謹慎ながら笑いそうになってしまった。なにしろそこは地方都市の私学にありがちな万年定員割れ大学だからだ。名前さえ書ければ受かるどころか、試験に行かなかったのに受かった人がいるとかいないとか、そんな噂さえ存在するくらいだった。


 柏木がいくら落ちこぼれとはいえ、不合格通知が届くなんてまず考えられなかった。

「試験には行ったんだよな?」

「あたりまえでしょう?」


「解答用紙に名前は書いたんだよな?」

「あたりまえでしょう?」


「それなら大丈夫だって。あそこはどうやったって受かるから。落ちる方が難しい。あの大学にまつわる『落ちない伝説』はおまえもこの街の住民ならよく知ってるだろ?」


「わかんないよ」と柏木は真顔で言った。「試験って何が起こるかフタを開けてみなきゃわかんないでしょ。あたし、ひとりだけ落ちたっていう人の話を聞いたことがある。なんでもその人は大学にどうしても行きたくなくて――親にムリヤリ受けさせられたのね――解答用紙に女の人のヌードを描いたんだって」


「おまえはヌードを描いたのか?」

「描くわけないでしょう?」


 それなら大丈夫だって、と俺は繰り返した。それからふと神棚を見やった。そこには「合格祈願」と書かれた札のようなものがまつられていた。東大ならともかく定員割れ大学の合格を願われても神様としても張り合いがないだろうなと思った。


 そうこうしているうちに呼び鈴が鳴った。店の玄関のすりガラス越しに、赤いカブと配達員らしき姿が見える。

「来た来た!」柏木は俺の背中を押す。「さ、悠介、頼んだからね!」


 俺は大仕事を果たすべく、すりガラスの戸を開けて配達員に応対した。郵便物は大型の封筒で、下の方には柏木が受けた大学のロゴが入っていた。俺は礼を言ってそれを受け取った。


 はっきり言って、封筒を手に持った時点で合否はたやすく判別できた。もし不合格なら紙っぺら一枚にその事実を事務的に記せばいい。でもこの封筒にはとした確かな重みがあった。


 たいしてドキドキもせず開封してみる。中にはやはり合格通知に加え、入学手続きに関する書類、キャンパス案内のパンフレット、サークルの勧誘ポスターなどが入っていた。


 そこまでは想定内だった。しかしどんな時だって俺の想像を超えてくるから、柏木といると退屈しない。俺はある紙を見て愕然とした。そこには彼女からはほど遠い三文字が印刷されていた。


 本人に伝えるべく振り返る。彼女は耳をふさぎ、歩き回り、童謡の『アイアイ』を大声で歌っていた。こちらとは目を合わせようとしない。「受かってるぞ!」と声をかけても両手で大きく○を作っても気づいてもらえない。それで俺は仕方なく「愛してるぞ!」と叫んだ。

「え?」


 両耳から手が離れたのを見て、「合格だ」と口早に続けた。「それもただの合格じゃない。特待生・・・だ」

「トクタイセイ!? あたしが!?」


「ああ。入学金も授業料も全額免除される。よっぽど試験の成績が良かったんだろう。金なんて要らないから是非ともうちの大学に来てください、ってことだ」

「それって、すごくない?」


「すごいよ。落ちることはないと思ってたけど、まさか特待生とは」

「やるじゃん、あたし!」柏木は小躍りしてよろこんだのも束の間、悔しそうな顔をした。

「こっちで奇跡を起こしちゃったか。せっかくなら東大受験で起きてほしかったんだけどなぁ」


「まぁそう言うなって」と俺はなぐさめた。そしてここにはいない三人の顔を思い出した。「それにしても五人のなかでいちばん進学する気のなかったおまえが真っ先に『サクラサク』とはな。世の中わからんな。とにかく合格は合格だ、おめでとさん」

「ありがとさん。ところで悠介。さっき、『愛してるぞ』って言わなかった?」


「言ってないよ?」

「そう?」


「『アイアイ』と『受かってるぞ』が混じりあって、そう聞こえただけじゃないか?」

「そう?」


 しつこく詮索される前に、俺は書類一式を封筒に戻し、柏木に手渡した。彼女はそれを持つとようやく受かったことを実感したらしかった。自分の目であらためて合格通知を確認すると、どういうわけかため息をついた。

「いよいよこれでわからなくなっちゃったな」


「何がだ?」

「松任谷先生の言っていた、“望む未来を手にするための最後の試練”って、なんなんだろう? 月島は実家のせんべい屋さんが全焼することだった。優里はお父さんのスキャンダル記事が世に出回りそうになることだった。それじゃ、あたしの場合は? 卒業まであと一ヶ月だってのに、こうして大学まで受かったら、もう本当にわかんないんだけど……」


 言われてみれば、俺の場合も不明だった。まだこれといった試練らしきものは訪れていない。いずれにせよ、今は柏木の話だ。

「よく考えてみろ。なにか思い当たることはないか?」


「ひとつだけ、予兆みたいなことならある」と彼女は言った。「あたしの叔母さんの件なんだけどね」

「いずみさんに何かあったのか?」


 姪っ子はうなずいた。

「叔母さんは秋に妊娠していることがわかって、お腹の子の父親とこの春に結婚するつもりで、挙式に向けて準備を進めていたのね。叔母さんもその婚約者も、いろんな意見の違いはあっても、互いにもう中年できっと『最後の恋』だし、式くらいは贅沢しようってのは一致していたの。費用はもちろんそれなりにかさむ。


 でも婚約者は式場を運営する人にツテがあるらしくて、『僕に任せてくれれば、費用はだいぶ安く済む』って言うの。ただ仕事の事情で今はお金をあまり自由に動かせないとも言うの。それで叔母さんは彼を信じて式にかかるお金を全額送金した。ところが、それ以降ぱったり、その彼とは連絡がとれなくなって。ねぇ悠介。これって、だよね?」


「あれ、だろうな」俺はその犯罪名を口にする。「結婚詐欺、ってやつだ」


「それも典型的なやつ」柏木は顔をしかめる。「でもね、こう言っちゃ叔母さんには悪いけど、これは叔母さんの試練であってあたしの試練ではないじゃない? この店を改装する分のお金はきちんと他に残してあるし、大学にはタダで行ける。居酒屋を経営する夢も、小学校の先生になる夢も、どっちも壊されない。もしこの件が試練の予兆だとしたら、あたしにどういう影響があるんだろう?」


 柏木はひとしきり考えて、わかんないや、という風に肩をすくめた。俺は気づけばため息をついていた。


「どうしたの?」


「月島の実家をタバコの不始末で燃やしてさっさとトンズラした野郎といい、高瀬のオヤジさんをハニートラップでおとしいれようとした連中といい、いずみさんを孕ませたあげく大金をせしめたその男といい、このところひどい人間のことばかり聞いているからさ。しかもそいつらにはなんの罰も下ってない。ひどい世の中だ。この世界がイヤになる」


「そう言いたくなる気持ちはわかるよ」柏木は苦笑する。「ま、あたしはこの世界が好きだけどね。たしかにろくでもない人は多いし理不尽なことばかり。でもそういう世界に生まれてきちゃったんだから愛するしかないじゃない? 世界は今日も回ってる。うん。それでいい。どれだけひどい世の中でも、あたしはここで生きていたい」


 それを聞いて俺は感心した。「さすが、特待生様の言うことは違うな」

「馬鹿にしてる?」


「いや、素直に尊敬してる。おつかれさん」

「ありがとさん。ところで悠介。さっきやっぱ、『愛してるぞ』って言ったよね?」


「言ってないよ?」

「そう?」


 しつこく詮索される前に、おいとました方がよさそうだ。

「さて。大仕事も終わったことだし、そろそろ帰ろうかな」


「えぇ? もうちょっといてよ」

「でもさ、俺は鳴大の二次が控えてるから……」


 そこで玄関の呼び鈴がまたしても鳴った。すりガラス越しには、ビールか何かの樽を持った人が見えた。

「酒屋さんだ!」と柏木は商売人の顔に戻って言った。「ごめん悠介、ちょっと待ってて」


 柏木が酒屋に応対するため戸を開けると、外から突風が吹き込んできた。そしてそれは神棚へと向かった。例の「合格祈願」と書かれた札が落ちてくる。俺は読めない風の動きに右往左往しながらなんとかそれを受け止めた。


 手に取ってみるとそれは二重構造になっていることがわかった。「合格祈願」と書かれた紙の内側に、もう一枚、何かの紙がある。


 俺は好奇心からその紙を開かずにはいられなかった。柏木は定員割れ大学に受かるため、どんな言葉をそこに記したのだろう? 彼女は持ち前の愛嬌を活かして酒屋に値下げ交渉をしている。俺は悪いなと思いながらも紙を開いた。書かれていたのは、自分の合格祈願なんかじゃなかった。そこには彼女の手書きでこう書かれていた。


「もうすぐ悠介の鳴大の二次試験が始まります。悠介はこの三年間、とてもがんばってきました。あたしの運を全部悠介にあげちゃっていいので、どうか、悠介を受からせてあげてください。お願いします!」


 俺は急いでその紙を元通りに復元し、椅子を使ってそれを神棚の元あった場所に戻した。店の玄関ではちょうど柏木と酒屋のやりとりが終わったらしかった。


「さっきはごめん、悠介」と柏木は戸を閉めて言った。「鳴大はあたしが受かった大学とはレベルが全然違うもんね。悠介の言う通りだよね。早く帰って勉強しなきゃ。今日はありがと。すごく良い時間を過ごせた」


「勉強したいんだけど、腹が減ったな」と俺は言った。「腹が減っちゃ、勉強どころじゃない。そうだ。久し振りにここのお好み焼きが食べたいな。あれ、めちゃくちゃうまいもんな。柏木。今から、俺の目の前で焼いてくれないか?」

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