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第115話 だって君は運命の人だから 5


 翌日の昼休み、さっそく俺と高瀬は校内で悪魔を――いや、周防すおうまなとを探した。


 しかしその姿はなかなか見つからなかった。それもそのはずだった。彼は校舎の隅に人知れずたたずむ旧地学準備室で文庫本を読みながら、ぽつんと一人で弁当を食べていた。もし高瀬がその存在に気づかなければ、素通りしていたくらいだ。


「周防」と俺は戸を開けて言った。「おまえ、こんなところで何やってんだ?」


「ふん」彼はちょっと恥ずかしそうに文庫本を閉じた。そして弁当箱の中から、赤身の肉を箸で持ち上げた。「教室だと目障りな連中の耳障りな話を聞きながらランチをとらなきゃいけないからな。せっかくの但馬たじま牛ステーキを心ゆくまで味わえない。その点、ここはいい。なにしろ静かだ。男同士のサルみたいな意地の張り合いもなければ、女同士のアホみたいな腹の探り合いもない」


「孤独なやつだな」と俺は言った。


「孤高と言ってくれ」と周防は返した。「それはそうと神沢。キミと会うのは久しぶりだな。僕はキミのことをちょっと見直したぞ。まさか本当にタカセヤとトカイの政略結婚を阻止してみせるとはな。優里があの鳥海慶一郎ヒキガエルの元にとつぐのは僕にとっても絶対に避けたい未来だった。助かったよ。この件に関しては素直に褒めてやる。神沢。よくやった」


「俺一人の力じゃねぇよ」自然にその言葉が口から出た。「高瀬自身のがんばりも当然あったし、柏木や月島、それから太陽の協力も大きかった。俺一人じゃ無理だった。仲間がいたからこそ、成し遂げられたんだ」


「なんだそれは。僕に対するイヤミかな?」

「そう思いたきゃ但馬牛を食いながら勝手に思ってろ。孤高な王子様」


 そこで高瀬が隣から肘で小突いてきた。

「ちょっと神沢君。今からまなとにお願い事をしなきゃいけないんだから、挑発するようなことは控えて」


 俺ははっとした。たしかにそうだ。なにも俺はこの男とケンカがしたかったわけじゃない。

 周防は但馬牛を食べかけて、やめた。

「それで、僕にいったい何の用だ? 二人そろって」


「実はおまえにひとつ頼みたいことがある」と俺は低姿勢で言った。そして例の写真を数枚取り出した。「まずはこいつを見てくれ」


 周防は箸を置いて写真を手にとった。性格には問題があるが頭脳は明晰な男だ。そこに写っているものを見て、すぐに要点・・を理解したようだ。


「なるほどね。優里の親父さんと若い女のランデブー写真。こんなものが世に出回ったら、タカセヤは大打撃だ。でも親父さんには悪いが、女は本気じゃない。目を見りゃわかる。誰かに雇われてる。この写真を週刊誌の記事にするために。色仕掛けを仕組んだのは、タカセヤの独占状態をこころよく思わないトカイの重臣。おおかた、そんなところだろう?」


「そんなところだ」俺は感心した。本当にそんなところだ。「なぁ周防。たしかおまえの父親って、この街ではとんでもなく大きな力を持ってるんだよな? あまり大きい声では言えない力のようだが。でもその力を使えば、この写真の記事を揉み消すことができたりしないか?」

 毒をもって毒を制す。それが俺の考えだった。


「余裕だよ」と周防はこともなげに言った。「僕の父はその気になれば市長選の結果だって発言一つで左右できる人間だよ? そんな父にかかれば、くだらん記事のひとつやふたつ叩き潰すことくらい、ジャングルジムと梅干しを見分けるほど簡単さ」


「周防、頼む。記事を揉み消すよう、おまえからお父さんに掛け合ってくれないかな?」


 高瀬も続いた。「こんな写真が出回ったら、私たち一家はこの街じゃ暮らしていけない。もし鳴大めいだいに受かっても通えなくなっちゃう。これまでの努力が全部台無し。まなと、お願い。力を貸して」


 周防は写真を持ったまま無言で固まってしまった。愛すべき高瀬のために動きたい気持ちと、忌むべき俺のために動きたくない気持ちとが、彼の中でせめぎ合っているらしい。


 長い沈黙があった。


 やがて高瀬が待ちくたびれたように前に出た。

。まなと。それでいいの? 神沢君は私の前に立ちはだかる壁を壊すって一年生の春に宣言して、本当に壊してみせたよ。すごく高くて頑丈な壁だったけど。それにひきかえ、まなとは私のことを好きだとか大事だとか昔から言っていたくせに、この三年間、結局なんにもしてくれなかったよね。まなと。いい? これは、私のために何かできる最後のチャンスだよ? せっかくそのチャンスを与えてあげたっていうのに、ふいにするつもりなんだね? それでいいんだね?」


 周防はあからさまに動揺した。写真が床に落ちる。「ゆ、優里。いつからそんなことを言うようになっちゃったんだ。それじゃまるで、男を手玉に取る悪女じゃないか……」


 どうやら彼は天使のようなホワイト高瀬しか知らないらしい。悪魔のようなブラック高瀬をこれでもかというほど知っている俺は、少なからず優越感を覚えた。


 高瀬は周防の元にひたひたと迫った。そして写真を拾い上げて、彼に突きつけた。

「さぁどうするの、まなと! 決めなさい!」


 周防は季節外れの汗をかきながら考えた後で、「わかったよ」と渋々答えた。「父さんに、頼んでみる」


 それを聞くと高瀬はこちらを振り返った。それからしてやったりという顔で悪魔っぽく微笑んだ。しかし転んでもただでは起きないのが周防まなとという男だった。そしてこの男もやはり悪魔だった。ただし、と不穏な声でつぶやいた。

「ただし、それには条件がある」


「条件?」俺は眉をひそめる。「なんだよ、条件って」


「それを話す前にいくつかおまえたちに聞きたい」と周防は言った。「優里、おまえは神沢のことが好きなのか?」


「好きだよ」と高瀬は答えた。「たぶんもうこんなに人を好きになることはないっていうくらい、好きだよ」


「なぁ神沢」と周防は言った。「優里がここまで言ってくれているというのに、キミは優里、柏木晴香、月島涼のうち、誰と一緒の道を歩んでいくのか、まだ決められないんだよな?」


 決められなかった。俺は居心地の悪さを感じつつうなずいた。


「優里。こんなどうしようもない男が、本当に好きなのか?」

「好きだよ」と高瀬は答えた。「どうしようもない人でも、好きなんだからどうしようもない」


「それじゃ優里、こうしよう」と周防は言った。「この男が優里と鳥海慶一郎クソったれの結婚を阻止したのはまぎれもない事実だ。よくやった。一報を聞いたときは、僕でさえこいつに感謝したくらいだ。それに免じて、もし神沢が優里を選ばなかったら、でいい。もしその時は、そうなった時は、優里、僕のものになれ」


「僕のもの」と高瀬は繰り返した。「というと?」

「僕と結婚して周防家の一員になれということだよ。それが条件だ」


「ふざけたこと言ってんなよ!」俺は反射的に声を張り上げた。「高瀬は望まない結婚からようやく解放されたばかりなんだぞ!? それなのにまた結婚か! もううんざりだ。高瀬。こんなくだらん取引に応じることはない。周防を頼ろうとした俺がバカだった。記事のことは俺がどうにかする。だから教室に帰ろう」


 俺はそそくさとこの部屋から出ようとする。正直どうにかする目算なんてまったく立っていなかった。俺がはったりを言っていることなんて、聡明な高瀬なら絶対に気づいていた。それでも後をついてくると俺は思っていた。


 でも彼女は周防の前に立ち尽くしたまま、一歩も動かなかった。そして思いがけぬことを口にした。

「わかった。神沢君が私を選ばなかったら、まなとのお嫁さんになる。それでいい。ちなみにもし私が鳴大めいだいの英米文学科に合格したら、四年間通い続けてもいいんだよね?」


「ああ、もちろんさ。高い壁・・・を壊せなかった僕には、それを止める資格がないよ」


「いいでしょう。取引成立。しっかり記事は揉み消してね」

「いいだろう。その時に備えて、式場の手配を進めておこう。参考までに聞いておく。挙式のスタイルは和式がいいか? それとも洋式がいいか?」


「洋式でお願い」


 ♯ ♯ ♯


 旧地学準備室を後にした俺と高瀬は、無言で廊下を進んでいた。彼女の横顔には、後悔のようなものはかけらも表れていなかった。それどころか「私は当然のことをしたの」とでも言わんばかりにその歩みは堂々たるものだった。俺は高瀬の真意がどうしても知りたくて口を開いた。


「どういうつもりだ? 相手はあの周防だぞ? 後になって『やっぱりあれはなかったことにして』なんてのが通じる相手じゃないんだぞ?」


「そうだろうね」と高瀬は依然として胸を張って歩きながら答えた。「式場も確保するっていうし、すっかり私と結婚する気になってるみたいだね」


「おい……」俺はついに立ち止まった。


 高瀬はそのまま何歩かひとりで歩き続けた。それから立ち止まって、こちらに振り返った。「大丈夫」と言う。「結果的に、私がまなとと結婚することにはならないから」

「どういうことだ?」


「だって神沢君は、必ず私を選ぶもの」

「どうして言いきれるんだ?」


「ちょっと想像してみて」と高瀬は質問に答えず言った。「場所は教会。私は純白のウエディングドレスを着て、お父さんと手をつないでバージンロードを歩いてる。その先にはタキシードを着たまなとが待っている。お父さんは私の未来をまなとにゆだねるようにそっと手を離す。そして私はまなとの元に進んで、誓いのキスをする。神沢君。想像できた?」


 そのイメージが頭に浮かんだ瞬間、廊下中の窓という窓を叩き割りそうになるほど、俺の心は荒廃した。落ち着くのに時間がかかった。冷静になると、高瀬の本当の狙いがやっとわかって、俺は苦笑いした。

「なるほど。そういうことか……」


 高瀬は答え合わせを始めた。

「もし神沢君が晴香や月島さんを選ばなくても、あの二人がすぐに誰か他の人のものになることはない。でも私を選ばなければ、そうなる。ましてや神沢君が一番嫌いなまなとのものに。これは私にとって、とても大きなアドバンテージ」


「周防の提案を逆手にとったわけだ?」


「あれを聞いた時、チャンスだと思ったの。お父さんの記事も揉み消せるし、そのうえ神沢君が私を選ぶ可能性も大きく跳ね上がる。まさに一石二鳥。たしかに賭けにはなるけど、いちかばちかの勝負に出るだけの価値はあるなって思ったの。まなとには、悪いけど」


 俺にだって悪いだろ、と俺は思った。


「それにしても、神沢君の言う通りだったな」と高瀬は言った。「私が困ってるっていうのに、あんな提案を――ましてや神沢君のいる前で――するなんて。本当にまなとは、悪魔だね」

「その悪魔を利用した誰かさんもなかなかだけどな」と俺は言った。


「私のこと、嫌いになった?」

「ぜんぜん」と俺は正直に言った。


 たぶんもうこんなに人を好きになることはないっていうくらい、好きだよ。そんなことを言ってくれた初恋の人を、嫌いになれるわけがない。天使であれ悪魔であれ、それが高瀬優里という人だ。


「さぁ高瀬。鳴大の二次試験も近づいてきた。午後の授業が始まるまでにはまだ時間がある。一緒に勉強しよう」

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