月島が東京からこの街へ戻ってきたのは、共通テストが終わって三日後のことだった。彼女は気丈にもその翌日からさっそく登校してきた。
入試当日の朝に自宅が焼失するという憂き目にあった月島を気遣う生徒は、ほとんどいなかった。無理もない。もうすぐ私立大学の入試が本格的に始まる。さらにその先には国公立の二次試験が待っている。進学校というこの空間では大半の三年生が自分のことで頭がいっぱいだった。
放課後、俺は月島に話があると呼び出されて校舎二階のラウンジに来ていた。彼女がやってきて俺の向かいの席に座ると、近くにいた三人組の女子生徒が何やらひそひ話をして遠くの席へ移った。それを見て月島は眉をひそめた。
「やれやれ。これじゃまるで私が厄病神みたいじゃないか」
俺は同情した。「まぁでも、死神よりはマシじゃないか」
「それは言えてる」月島はシニカルに微笑んだ。「ところで神沢。共通テスト二日目の出来はどうだった?」
まずまずだった、と俺は答えた。一日目の結果と合わせれば
「なんだよちきしょう。私のことが心配で心配で、一問たりとも解けなければよかったのに」
「そんなこと、みじんも思ってないくせに」
月島はもう一度微笑んだ。そして脚を組み、表情をリセットした。
「さてさて。そろそろ本題に入りますかね。三日間、ママ、パパ、ばあさんとじっくり話し合ってきましたですよ。ええ。これからのことについて」
「月島庵の未来について」
「そういうことだ」
「聞かせてくれ」
「まずうちに住み込みで修業していたニコちん君なんだけどね。こいつとはすっぱり縁を切ることになった。当然だよね。300年続く店を寝タバコで燃やしやがった野郎に跡を継がせるわけにはいかないからね」
「そいつに賠償みたいなものを求めたりはしないのか?」と俺は聞いてみた。
月島はうれしそうに指を鳴らした。
「私はそのつもりだったの。お金だけじゃなくケツ毛の最後の一本までむしり取ってやれって家族に言ったの。でも火事は故意ではなく不注意で起きたものだし、だいたいニコちん君の動画配信者としての収入なんてスズメの涙だし、それになにより修行に来てくれた若者を裁判で訴えたりしたら世間体が悪くなるってことで他の人は大反対。結局、秘伝のせんべいのレシピを口外しないって約束を取りつけて、手打ちになったの」
「なんだかなぁ」と俺は釈然とせずつぶやいた。
「おかしな世の中だよ」月島は実感のこもった声を出す。「うちの火事が全国ニュースで報道されたことでニコちん君もちょっとした有名人になって、彼の動画の視聴者が急増しているってんだから。まぁでも、どういう世の中であれ、私たちはここで生きていかなきゃいけない。不平ばかり並べてもいられない。そうだね?」
「そうだね」としか言えない。
「続きを話そう」と月島は文句のひとつもこぼしたいだろうに言った。「次は家の建て替えについてだ。これもいろんな意見が出た。新しい土地で心機一転、新しい生活を始めるのも悪くないって声もあった。でも結局、前と同じあの場所に、新しい家を建てることになった。昔からの知り合いも多いし、それになんといっても月島庵創業の地だしね」
「墨田区亀沢」
月島はうなずいた。「新しい家が完成するまで、うちの人たちが住む場所に困ることはなさそう。運良くちょうど公務員宿舎に空きが出たみたいで。ほら、私のパパは墨田区職員だから」
「それはよかった」
「不幸中の幸いだ」と彼女は言った。それからどういうわけか唇を噛んだ。「そんなわけで家族四人で話し合っていろんなことを決めたんだが、ひとつだけ、どうしてもひとつだけ、三日間のあいだに決められないことがあったんだ」
「どんなことだ?」
「新しい家にこれまで通り、
「いちばん大事なことじゃないか」
「そうなの。つまりね、家族内は月島庵をこれからも存続させようっていう意見と、もういっそこれを機に廃業しようっていう意見とで、真っ二つに割れたんだ。存続派は私とばあさん。廃業派はママパパ。まぁ両親の気持ちもわかる。贅沢しなければパパの収入だけで十分に生活していけるし、跡継ぎもいないのに大枚をはたいて店舗部分を作るのは、割に合わないし」
「なんだかすまん」跡継ぎの最右翼として期待されていた俺は思わず詫びた。
「やめてよ、キミが謝ることじゃない」月島はバツが悪そうに前髪を払う。「というか、むしろこっちからキミに謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「ん?」
「さっきも話したように賠償金はどこからも出ないし、火元が寝タバコだと重過失と見なされて火災保険も下りない。だから完全に自前で家を建て替えなきゃいけない。まぁそれなりの出費だよ。家を一軒建てるんだから。想定外の大きな出費。そんなわけでもしキミが私との未来を選んだとしても、キミの大学進学費用までうちでまかなうのは難しくなったんだ。……ごめんよ」
「やめろよ。おまえが謝ることじゃない」
聞こえているのかいないのか、彼女は奥行きを欠いた目で話し続けた。
「私と一緒になれば春からは都心まで30分の一軒家に住めるし、一生食うに困らない仕事も手に入るし、おまけに大学だって行かせてあげられる。得意になってそう豪語していた自分が恥ずかしくてたまらないよ。結局何一つその約束を守れない。お願いだから、私のみっともないドヤ顔を記憶から消し去ってくれ」
俺はその望みを叶えるつもりはなかった。どうやら彼女は大きな誤解をしているようだ。それを正すため、目をまっすぐに見て口を開いた。
「あのな月島。おまえは一つ勘違いしている。俺がおまえと一緒に生きる未来を選択肢に入れているのは、大都会の一角にすみかを確保したいからでも、死ぬまで安泰の職業に就きたいからでも、ましてやタダで大学に行きたいからでもない。おまえが魅力的な人間だからだ。きれいだし、賢いし、面白いし、優しいし、温かいからだ」
「泣かせる気?」月島は鼻をぐすんと鳴らす。「やめてよ。うちが燃えたって聞いた時から、もう何日もずっと泣くのをガマンしてるんだから。いつ溢れ出てもおかしくないくらい涙がたまってるんだから。床がびしょびしょになったら、責任とって掃除してよ」
しばらく時間が経った。その目にはようやく光が戻ってきた。俺は安堵した。
「なぁ月島。新しい家にも月島庵ののれんを掲げることを、まだ諦めてはいないんだろ?」
「そりゃあね」と月島は言って空を見上げた。「死んだじいさんとも約束したし。私の代で終わらせることだけはしない、って」
「そのために、何か良い方法はないのか?」
月島は腕を組み、それについて身じろぎひとつせず考えた。やがて前髪をかきあげた。「ひとつだけある。ただし、これにはキミの協力が不可欠だ」
「俺の協力?」
「ああそうだ。このプランを実行すると、場合によっては、キミは悪人になってしまう。でもこれだと確実に月島庵は存続する。新しい家にものれんを掲げることができる」
「そのプランを聞かせてくれ」
「こうするのさ――」
それを聞いて俺は思わず顔をしかめた。正直まったく気が進まなかった。「いや、悪人どころか、大悪人になるぞ?」
「でも私の危機は救われる。私の望む未来は継続する。違う?」
「それは、そうだけど……」
俺が難色を示し続けていると、月島はスマホを取り出し、何かを見て、笑みを浮かべた。
「実は私、葉山氏から貴重な情報をゲットしたのだ。なんでも神沢を思いのまま動かすことのできる“魔法の言葉”があるらしい」
「はぁ? そんなもんあるわけないだろ」
「それがあるんだよ。まさにこういう場合で使うんだね、この言葉は」
俺が平静を装っていると、彼女は「おほん」とわざとらしく咳払いし、それからこう言った。
「私は80億人の中から運命の出会いを果たした“未来の君”なんだよ? お願い。力を貸して」
未来の君。それを持ってくるのは反則だった。
俺は太陽が語っていたことを思い出した。あいつは言っていた。
80億人もの人間が生きている今この世界で、そのひとりと出会えるだけで奇跡だと。それはものすごく低い確率を引いているんだと。奇跡だと。ある意味では80億人中の3人である高瀬と柏木と月島は、もはや運命が引き合わせたんだと。それはもう3人とも“未来の君”と呼んでいいんだと。
いらんことを吹き込みやがって、と俺は悪友を呪った。しかし月島がすっかりその気になっている以上、俺はこう答えるしかなかった。
「わかりましたよ。大悪人にでもなんにでもなりますよ。だって君は運命の人だから」