アリスの見送りを終えて縁側に戻ると、依然として娘は絵を描くことに熱中していた。僕が隣に腰掛けてもそれに気づかないくらいだった。ちょっとだけスケッチブックに嫉妬して僕は口を開いた。
「なぁ
「うん。ゲームと同じか、それ以上に好き!」
「本当に将来は絵を描く仕事につくつもりなのか?」
「そうだよ」と娘は当然のように答えた。「私の夢は、いや――十年前のお父さん的に言えば
「なにもわざわざ言い直さなくても」
娘はしてやったりという顔つきで笑った。そしてようやく関心をこちらに向けた。
「そうだ! “十年前”で思い出した! 昔話がまだ途中だった! たしか大学入試の途中で止まってたよね。続きが気になる。お父さん、はやく話してよっ!」
僕はうなずいて、縁側に座り直した。
「長かったこの物語もいよいよ大詰めだ。ここからがクライマックスだ。唯の好きなゲームでたとえるなら、ラスボス――当時のお父さんはそれがてっきりトカイだと思っていた――を倒したのに、まだ戦いは終わっちゃいなかった。そんな展開になっていく」
「おーっ! それは熱い!」
僕は庭の桜の木を眺めて、十年前の冬の記憶をたどった。そして言った。
「それぞれの夢を叶えるため、お父さんたちの最後の戦いが始まったんだ」
* * *
共通テスト二日目は頭が
それは言うまでもなく、“月島庵が全焼した”という悲報が絶えず脳裏にちらついていたからだ。
俺は問題を解きながらも、思い出さずにはいられなかった。
あの店をキミと一緒に立て直すのが私の夢なんだと語っていた月島の希望に満ちあふれた顔を。父親が囚人だと知っていても俺を温かく迎えてくれたあの家の人たちを。彼女の今は亡きじいさんの豪快な「どあっふぁっふぁ」の笑い声を。その豪快なじいさんが焼く、せんべいの繊細な味や匂いを。
よっぽど試験会場から抜け出して、月島のそばにいてやろうと思った。でもそんなことをしたらこれまでの努力がすべて水の泡になってしまう。高瀬が勉強時間を割いてまで『未来の君に、さよなら』をリライトしてとった新人賞も。なにより、月島本人がそれを許すはずがなかった。
そんなこんなでテスト二日目が終わり、一夜明けた。月島は高校に来なかった。これからのことを家族と直接話し合うため、早朝の便で東京へ向かったのだ。
校内は月島庵の火事の話題でもちきりだった。クールな彼女がいかにも毛嫌いしそうなガサツな男子数人が――おそらく過去に冷たくあしらわれた腹いせなのだろう――廊下で面白おかしくその件を話していた。茶化していた。
よっぽどそいつらをぶん殴って窓から外に放り投げてやろうかと俺は思った。でも月島本人がそれを望むはずがなかった。
それに戦う相手はこんな連中じゃない。俺が戦うべき相手はもっと他にいる。
そして迎えた昼休み。共通テストを無事に受けることができた月島をのぞく俺たち四人は、いつもの旧手芸部室で自己採点を行っていた。最初に結果がわかったのは東大志望だった。
「ムネン!」とたいして無念じゃなさそうに柏木は言った。「半分しか取れなかった。さすがにこれじゃ“足切り”ってやつだよね。二次試験に進めない。奇跡は起きなかったか。柏木晴香、この一ヶ月、それなりにがんばったけど参りました、トーダイ様」
二年八ヶ月ものあいだ学業をおろそかにしてきた受験生が、たった一ヶ月勉強しただけで五割取れたこと自体が奇跡のような気もするが。もし勉強を始めるのが三ヶ月早ければ、ひょっとしたかもしれない。
次に自己採点を終えたのは高瀬だ。その顔には安堵が浮かんでいた。
「最低でも七割は取れてるみたい。鳴大は足切りはないけど、60%とかだと二次試験でそうとう良い点をとらなきゃいけなかったから、よかった」
それを聞いて俺もほっとした。そして採点が終わった。
「俺も大丈夫だ。マークミスさえなけりゃ72~3%は固い。二日目はボロボロだったけど、一日目の貯金が活きた。よかった」
俺と高瀬はどちらからともなく目を合わせた。また一歩それぞれの夢の実現が近づいたことを無言ながら
ほどなくして、ずっと険しい表情だった太陽が、相好を崩した。
「ヤバイ。95%、取れてやがる」
「95!?」俺たちは驚く。とりわけ、つい一年前までは学年最下位を譲り合っていた柏木は。それにしてもさすが幼少時代、神童と呼ばれた男だ。
太陽は幼馴染みの日比野さんからもらったお守りを握りしめた。
「これででっかいアドバンテージを持って、二次に挑める。まひる、待ってろよ。助けてやるからな」
そこからは沈黙が部屋の中に漂った。四人中三人が納得いく結果を得たとは思えないほど、空気は重かった。やがて太陽が
「まぁなんだ、その、喜ぶに喜べねぇな。ここに本来いるはずの奴のことを思うと」
高瀬はうなずく。「松任谷先生が話していた『望む未来を手にするための、最後の試練』って、このことだったのかな?」
「月島の場合は、おそらくそうなんだろう」と俺は言った。
「それじゃ、あたしたちの場合は?」と言って柏木は腕を組んだ。「月島の望む未来は実家のせんべい屋を復活させること。でもその実家が燃えてなくなっちゃった。こんなの、試練どころの騒ぎじゃないでしょ。そんなレベルのことがあたしたちにも起こるっていうの?」
高瀬は三人の顔を見渡した。「あのおかしな夢を見ていない葉山君以外は、その覚悟はしていた方がいいんだろうね」
太陽は他人事とは思えないらしく、顔をしかめた。「まだ戦いは終わっていない、ってやつか」
俺はため息をつく。「みんなの敵だったトカイをやっつけて、一件落着だと思ってたんだがな……」
「なんか気分が沈むね」と柏木はみんなの心の声を代弁するように言った。「あーやだやだ。ねぇ誰か、前向きになれるような話題、なにかない?」
ややあって、口を開いたのは太陽だ。「期待に沿えるかどうかわからんが、ついこないだちょっと面白い話を仕入れたんだ。聞いてくれ」
俺たちはうなずいて、彼の方を見た。
「さっそくだが、ひとつみんなに問題だ。オレたちが一生で出会う人間の数って、どれくらいだと思う? ああ、ここで言う『出会い』ってのはなんらかの接点を持つ人な。学校で一回でもクラスメイトになった人や会えば挨拶する近所の人なんかはもちろんだが、たった一度話をしただけの関係でも――名前がわからなくても――立派な接点だ。道ばたでただすれ違う人は含めない。そして80年生きるものとする。途中でひきこもりになったらどうするとか面倒なことはナシだ。さぁ、考えて」
「600人か?」と俺は答えた。
「8000人?」と高瀬は答えた。
「27000人!」と柏木は答えた。
「柏木がほぼ正解」と太陽は言った。「答えは約30000人だ。悠介よ、普段からどんだけ人と接点を持たない生活を送ってるんだ? まぁそれは置いといて、今世界の人口はだいたい80億人だ。すると人と人とが出会える確率ってのは0.0004%くらいになる。すごい低い確率だよな? ちなみにアマチュアがゴルフでホールインワンを決める確率は0.002%らしい。それよりずっと可能性が小さいってことになる。
客として行ったコンビニで面倒臭そうに『お弁当温めますか?』って聞いてくるバイトの兄ちゃんだって、行列に並んでいたら『ゴメンね』の一言だけで強引に割り込んでくる図々しいおばちゃんだって、計算上、実は奇跡的な確率で出会っているってわけだ」
「なるほどなぁ」高瀬は、目から鱗が落ちたようだ。「今までそういう考え方をしたことなかったけど、言われてみればたしかに、その通りだね。ひとつひとつの出会いは、決して当たり前なことじゃないんだ」
柏木は深くうなずいて、俺たちの顔を見渡した。
「たった一度会うことでさえ奇跡的な確率を引いているなら、仲間とか親友とか呼べるほど親しくなる人と出会う確率って……」
「それこそ天文学的な確率だ」と太陽は言った。そして我々に計算させる時間を与えるように、しばらく間をあけた。「オレが何を言いたかったかっつーとな。おまえさんたちはこの三年間、ずっと“未来の君”ってもんに翻弄されてきただろ? 未来の君――わかりやすく言えば運命の人ってことだよな? 結局“未来の君”は松任谷先生が娘を救うために作り出した嘘の運命の人だったわけだが、こう考えてみると、ある意味じゃ、本当の本当に運命の出会いを果たしてんじゃねぇのか?」
俺も高瀬も柏木も、何も喋れなかった。たぶん月島がここにいても何も喋れなかっただろう。太陽は続けた。
「オレはずっとおまえさんたちのことを一歩引いたところから見てきた。だからこそ感じること、言えることがある。……悠介!」
「おう!?」出し抜けに名前を呼ばれた俺はつい、背筋を伸ばす。
「結局よ、悠介にとっての“未来の君”って、ある意味じゃ
試練もなにもなく、植物状態になってしまった幼馴染みの日比野さんを救うため医者を目指している太陽のその言葉には、強い説得力が宿っていた。
やがて柏木がいつも通り明るく手を叩いた。
「まぁ、なんとかなるでしょ!」
それに続いて高瀬が顔を上げた。
「まぁ、なんとかしなきゃね!」
雰囲気は俺の言葉を待っていた。なんとかするよ、としか言えなかった。
「なんとかするよ。80億人の中から3人のため。確率で言えば0.000000………とにかく、この出会いは奇跡を超えたもんなんだろう。戦おう。戦うしかない。今度という今度こそ、本当に最後の戦いだ」