出来過ぎと言ってもいいほど確かな手応えを得た共通テスト一日目が終わり、二日目の朝を迎えた。
きのうと同じく無事に試験会場の鳴大につくと、きのうと同じく仲間の四人がいた。しかしきのうとは違ってその輪の中にもう一人、女子の姿があった。見覚えがある顔だ。誰だろうと思って近づいてみると、俺ははっとした。
見覚えがあるもなにも、そこにいたのは、つい二週間前まで“未来の君”の占い師――松任谷先生への復讐に燃えていた女だった。藤堂アリス。俺がすぐに彼女だとわからなかったのには、わけがある。トレードマークだった金髪から落ち着いた黒髪に変わっていたからだ。
「どうして二年生のおまえがここにいるんだ?」と俺はさっそく彼女に声をかけた。「もしかして、俺たちの応援に来てくれたのか?」
馬鹿言わないでよ。彼女の刺々しい性格からすると、十中八九そう答えると踏んでいた。ところが、それもある、と返ってきたから驚いた。「それもあるけど、一番の目的は、来年のための下見」
「下見?」
「この子、心を入れ替えるんだって」と柏木が代弁するように言った。「もう復讐とかそういうのは頭から完全に捨て去って、来年の美大現役合格だけを考えて残り一年の高校生活を過ごすことにしたんだって」
アリスは照れ臭そうに俺の目を見た。
「ま、まぁ、なんだか悔しいけれど、二週間前にアンタが私に言った通りだと思う。松任谷をナイフで刺したって何が戻ってくるわけじゃない。それにもしそんなことをしたら、世界的な画家として活躍しているパパの名前に傷をつけちゃう。うん。私は変わる。アンタのおかげ。その、えっと、ありがと」
髪を地毛に戻したのは決意の表れか、と俺は合点がいく。
アンタ、と育ちの良い高瀬は繰り返して眉をひそめた。
「アリスさん。心を入れ替えるというなら、言葉遣いもちょっとは改めないとね?」
「それはおいおい。いきなり全部は変えられない」
「ねぇアリスっち」と月島がいやに親しげに声をかけた。「私のために一枚描いてくれない? 将来アリスっちが有名になったタイミングで売りに出せば、ガッポリ儲かる」
「最低」画家志望は呆れる。「本当に心を入れ替えなきゃいけないのは、この人じゃないの?」
「違いない」と柏木が認めて、ひとしきり笑いが起きた。アリスのおかげでみんな、入試直前とは思えないほど、良い具合に肩の力を抜くことができた。
このままリラックスした状態で試験に挑みたかったところだが、あるニュースがそれを許さなかった。その一報に気づいたのは、スマートフォンを見ていた太陽だった。
「えっ!?」美男子は整った顔を引きつらせる。「月島嬢の実家のせんべい屋さんって、月島庵っていう店名だっけ?」
月島庵の娘はうなずく。「そうだけど、どうかした?」
そこで太陽ははっとした。そして首を振った。
「い、いや、なんでもない。みんな、今のは聞かなかったことにしてくれ。悪いことは言わん。今日の試験が終わるまで、絶対にスマホを見るな」
東京都墨田区の月島の実家に何かが起こったことは、彼の曇った顔色からして明白だった。聞かなかったことにできるわけがなかった。それでみんなすぐにスマホを取り出した。もちろん俺も取り出した。
最新ニュースとして信じがたい情報が目に飛び込んできたところで、月島がひどく慌てて誰かに電話をかけた。きっと家族にかけたのだろう。
長い通話だった。
その最中、月島は泣きそうになりながら、歯を食いしばりながら、うん、であるとか、そう、であるとか、最低限の相づちを打っていた。おそろしく生気のない声で。無理もない。もし俺が月島家の子でもそうなる。
俺はもう一度スマホに目を落とした。そこには『創業300年の老舗せんべい店月島庵、火事で全焼』とあった。
通話を終えると、月島は天を仰いでから、言葉を
「とりあえず、うちの人たちは無事みたい。ママもパパもばあさんも、ちょっとヤケドはしたけれど、命に別状はないみたい。どうしてすぐに私に連絡を寄越さなかったかっていうと、今日が共通テストの日だから。私を動揺させたくなかったらしい。火事の原因はタバコの火の不始末。ニコちんの野郎が寝タバコしてたんだって」
「
俺が月島に代わってみんなに説明した。このところ月島庵では、後を継ぎたいという25歳の男が次の当主を目指して住み込みで修業していたこと。その男は動画配信者としての顔も持ち、修行の様子をネット上で公開していたこと。ニコちんという名で活動していたこと。
高瀬は早くも利きタバコの動画を見つけた。
「ニコちんって名乗るだけあって、ヘビースモーカーだったみたいだね」
アリスはニュースの続きを読んでいた。
「皮肉なもんね。よりによって火事の原因を作ったこの
高瀬は今度は言葉遣いをたしなめなかった。俺もニュースの詳細を確認した。どうやらこの25歳は火の気を感じると、自分一人だけすたこらさっさと外に逃げ出したらしい。立派な15代目候補だ。
「全部なくなっちゃった……」月島は奥行きのない目でつぶやく。「せんべいを焼くための器材も、そのせんべいが月島庵のものだと証明する三日月を刻む伝統の焼き印も、いろんな思い出の詰まった私の部屋も、家族と過ごした茶の間も、じいさんの仏壇も、夢も未来も、全部燃えてなくなっちゃった……」
私は月島庵をなんとしても立て直したいんだ。クールな彼女が熱くそう語っていたのを俺は思い出さずにはいられなかった。その話をする時、彼女はいつも機嫌が良かった。笑顔だった。
松任谷先生が正月に言っていた『望む未来を手にするための、最後の試練』とはこのことなんだろうか? 月島の場合はおそらくそうなんだろう。となれば他の三人は――。
いずれにせよ、月島の心中は察するにあまりあった。誰も何も言葉もかけられずにいると、やがてアリスが時計を見て、気まずそうに口を開いた。
「言いにくいけど、そろそろ最初の試験が始まるよ? 行かなくていいの?」
月島はまるで背骨が消失したみたいにその場にへなへなとへたり込んだ。
「私は棄権する。いいんだ。入試の雰囲気に慣れたかっただけだから。とてもじゃないけど、試験を受ける気分になんかなれない」
「ねぇ悠介」と柏木が見かねたように言った。「月島と一緒にいてあげたら?」
「それはダメ!」どこにそんな力が残っていたのか、月島が叫んだ。「なに考えてるの柏木! それだけは絶対ダメ! 神沢がどれだけの思いで今日の日を――この試験を迎えているのか、柏木だってよくわかってるでしょう? 神沢、試験は受けて。というか、受けなさい。ずっと夢だった大学進学にもうちょっとで届くんだぞ。きのうの一日目は良い出来だったんでしょ? 出来過ぎだったんでしょう? なら、なおさら。さぁ、神沢だけじゃなく、みんなも行って!」
「月島……」俺は体が二つあればと思いながら、覚悟を決めて彼女に背を向けた。そしてアリスに声をかけた。「すまないが、月島に付き添ってやってくれないか?」
アリスは素直にうなずいた。そして月島の隣に腰を下ろした。
* * *
「そんなことがあったんだ……」
娘は父親の昔話を聞いたというよりはむしろ、怪談を聞いたかのようにぶるぶる震えた。「私やっぱり、ビダイに行くのはやめる。大学ジュケンしたらおうちが燃えちゃうなんて、いやだもん」
僕とアリスは娘の頭越しに苦笑した。僕が誤解を解くことにした。
「あのな、
「でもジュケンって、なんだかいろいろと大変なんだね」
「まぁ、簡単ではないよな」
「ねぇ先生」娘は家庭教師のアリスの方を向いた。「画家さんって、ビダイを卒業しなきゃ、なれないの?」
「そんなことはないよ」アリスは優しく言い聞かせる。「絵画の世界は完全に実力がものを言うところだから、大学を出ているかどうかなんて関係ない。大事なのはどこで学んだか、じゃなくて、何を学んだか、だから。愛ちゃんも今から勉強し続ければ、きっと夢は叶うよ」
それを聞くと愛はさっそく、宿題として出されていたフクロウの絵の
「愛ちゃん、ごめんね。私そろそろ行かなきゃ。個展の準備もあるし」
「先生、次はいつ来てくれるのー?」
「うぅん。ちょっとこれから忙しくなるから、けっこう先になっちゃうかも」
「えぇ? 寂しいなぁ」
「愛ちゃん。しっかり絵のお勉強を続けるのよ」
「わかりました。先生、バイバイ」
「うん。バイバイ」
愛はフクロウの手直しに夢中になっていたので、僕一人でアリスを玄関まで見送ることにした。アリスはブーツを履くと、後ろめたそうに縁側の方を見た。
「愛ちゃんにひとつ、嘘をついちゃったな……」
「嘘?」
「あのね、実は私、活動の拠点をシカゴに移すの」
「シカゴ!」彼女がそこに行く理由は一つしかなかった。「ということはつまり……」
アリスは深くうなずいた。「画家として独り立ちできた。画集も出せた。来週には個展も開ける。さすがにもう、パパに会いに行ってもいいでしょ。これからはシカゴのパパのアトリエで絵を描くつもり。だから、愛ちゃんの家庭教師は今日でおしまい。でもさ、あの子、せっかくやる気になってるから、本当のことを言えなくって。そこはうまく取り繕っておいてよ、お父さん?」
僕は微笑んで
アリスも微笑んだ。「何度も言うけど、あなたのおかげ。感謝してる」
「言葉遣いを叱られることも、もうないな」
「直すのに、結局十年かかったけどね」アリスは苦笑いする。「とにかく、あなたともしばしのお別れってこと。アメリカに行ったら当分、日本には帰ってこないから」
「そっか。それは寂しくなる」
そこでしばらく沈黙があった。
「あのさ――」とやがてアリスはうぶな少女のようにもじもじして言った。「次会えるのはいつになるかわからないから、あなたへの正直な想いを打ち明けてもいい?」
「お、おう」と僕はうぶな少年みたいにどきどきして言った。「な、なんだ?」
「あのね、私は高校時代からずっとあなたのことを――」
――高校時代からあなたのことを?
「あなたのことを――」
――あなたのことを?
「――自分のお兄ちゃんのように思っていた」
「お兄ちゃん!?」
「そう、お兄ちゃん」とアリスははっきり言った。「ほら、居酒屋“握り拳”で一緒にバイトしているとき、私が高校生だと客にバレそうになって、それ以来バイト中は大学生の兄妹のふりをすることにしたでしょ? それもあって、私は勝手にあなたを兄貴だと思って過ごしていたの。家族がバラバラになって独り身だった私が唯一甘えられる人。それがあなただった」
僕は反応に困って黙ってしまった。するとアリスが眉を少し曲げた。
「あらっ? もしかして、ずっとあなたのことを好きでした、とでも言うと思った?」
不覚にも思った。「ま、まさか」と僕は嘘をついた。彼女も嘘をついたのでおあいこだ。
「まぁいいわ。本当にそろそろ行かなきゃ。元気でね」
「おまえもな」
「愛ちゃんにはこの後も昔話を聞かせるつもり?」
「ああ。もうゴールも間近だからな」
「そっか。それじゃ、卒業間近にあなたの下した『
「まぁそうなるな」
「それを聞いたときの愛ちゃんの反応がすごく、すっごーーく気になるけど、本当にそろそろ行かなきゃ」
「おう。たしかおまえは十年前、それを聞いてから丸一日、何も喋れなかったよな。愛がどんな反応だったかは、また今度あいつに会ったときに、本人から直接聞いてくれ」
「そうする」とアリスは言った。そして背筋をきりっと伸ばした。「とにかくとりあえず、今回はこれで一応お別れ。最後はこう言わせて。お兄ちゃん、ありがとう。そして、さよなら」