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第114話 もしこれが夢だというのなら、神様に抗議する 4


 国公立大学を志願する者にとっては最初の関門となる、共通テスト初日の朝を迎えた。


 よりによってこの日にかぎって猛吹雪や大寒波に見舞われることもなければ、暴動や革命のたぐいが発生することもなかった。外は風もなく晴れておだやかで、街はいつも通り平和そのものだった。


 まぁ要するに大学入試にはもってこいの一日と言ってよかった。


 試験会場となる鳴大めいだいに無事につくと、他校の受験生にまじって四人の姿があった。第一志望校がそれぞれこの鳴大の高瀬、公立医大の太陽、東大の柏木だけではなく、私立の月島もどういうわけかいた。


「早稲田の政経学部に共通テストの結果で出願するのか?」と俺は聞いてみた。

「まさか!」月島は自嘲ぎみに笑う。「言っとくけど、ボーダーが85%とかだからね? 箸にも棒にもかからないって。私の学力じゃ一般選抜だって受かれば奇跡なのに。ただ試験の空気感に慣れようと思っただけさ」


「たしかに試験の雰囲気って、独特だものね」高瀬はそう言って、胸のあたりをさすった。「なんかこの後のことを想像したら胃がキリキリしてきた。余計なトラブルが起きたりしないかな……。英語のリスニングで使うICレコーダーが私のだけ故障してるとか……」


「オレも不安になってきちまった」と太陽も続いた。「今年から急に出題の傾向が変わるとか、ないよな? それをやられちゃ、準備期間の短いオレはお手上げだぞ……」


「みんな、体調はどう?」心臓に爆弾を抱える柏木も、いつになく弱気だ。「きのうはよく眠れた? 生ガキとか食べてないよね?」


 そこで月島が俺の肩を威勢よく叩いてきた。

「私は今日が本番じゃないから大丈夫だけど、三人とも不安と緊張で固くなってる。神沢。こういう時はやっぱりキミが一言バシッと決めて、リラックスさせてあげるべきなんじゃないか」


「お、おう。任せとけ」俺は咳払いして、一歩前に踏み出した。ここまで来たらあとはやるっきゃない! そう切り出そうとしたところで、校門前に立てかけてある『大学入学共通テスト 試験場』という看板が目に入った。それでとたんに体がこわばった。「こ、こ、ここっ」ここまで来たら、がどうしても出ない。「こ、こ、こけっ、こけっこっこー!」


「だめだ! 悠介がいちばん緊張してやがる!」太陽が指摘する。

「いちばん不安になってる」高瀬が見抜く。

「いちばん固くなってる」柏木があきらめる。

「というか、ニワトリになってる」月島がオチをつける。



 結局、逆にみんなが俺に励ましの言葉をかけてきて、固さをやわらげてくれた。俺がニワトリから受験生に戻ると、健闘を誓い合ってからそれぞれの戦場へと向かった。


 俺と高瀬は同じ大講堂がその戦場だった。壇上には原寸大のクジラが描けそうなほど巨大な黒板があり、座席はバチカン市国の全国民が座ってもまだ余りそうなほど豊富にあった。まさに“ザ・大学”といった感じのする場所だった。


 見れば隣で高瀬は瞳を輝かせていた。

「私たち、春からここで講義を受けられるかもしれないんだ……」

「ああ、合格できればな」


 俺たちはしばし立ち尽くし、広大な講堂を隅から隅まで眺めた。他の多くの受験生にとっては単なる試験会場に過ぎないかもしれないけれど、俺と彼女にとっては憧れ続けた特別な場所だった。


 やがて高瀬が感慨深そうに口を開いた。

「ふたりとも大学進学なんてまず不可能っていう状況で高校に入って。それでも心では諦めきれなくて。そして出会って。一緒に大学に――鳴大に行こうって約束して。それがあとちょっとで現実になろうとしているなんて、なんだかいまだに信じられないな」


「たしかに信じられないな」俺は例の悪夢・・のことを思い出さずにはいられなかった。「夢じゃ、ないんだよな」


「これは夢なんかじゃない」と高瀬は胸を張って言いきった。「もしこれが夢だというのなら、神様に抗議する」

「同じく」と俺は同意した。「神様を敵に回すのは、ちょっとこわいけど」


 高瀬は苦笑してから静かにこちらを見た。

「神沢君。何回目になるかわからないけど、これだけは言わせて。トカイとの政略結婚を阻止してくれて、本当にありがとう。神沢君には感謝してる」


「こちらこそ」と俺も彼女を見て言った。「俺の学費の足りない分を、『未来の君に、さよなら』で新人賞をとってまかなってくれて、本当にありがとう。高瀬には感謝してる」


 高瀬は得意そうに微笑んだ。「それで神沢君。緊張の方は、とれた?」

「緊張はだいぶとれたけど、不安の方はまだ残ってるな」と俺は正直に答えた。


「そう?」

「ほら、俺は秋に一ヶ月近く退学処分を食らって学校にいなかっただろ? その分の遅れがひびくんじゃないかって思うと、どうしても」


 そこで高瀬は自分と俺の受験票を見て、それぞれが座る席をたしかめた。それほど遠くはなかった。同じ列で、六席ほど離れているだけだった。

「神沢君が見て、いちばん力の出る私の表情って、どんなの?」


「表情?」俺はそれについて考えた。「私ほどよくできた女はこの世にいないって感じで誇らしげに微笑む顔かな」


「え? 私、そんな表情したことある?」

「しょっちゅう」と俺は答えた。「ついさっきも」


「これ?」高瀬は再び得意そうに微笑んだ。

「それ」


「うーん。なんだか納得いかないけど、まぁいいや。とにかく、この表情を見ると力が出るんだね?」

 俺はうなずいた。


「わかった」と高瀬は腹を決めたように言った。「もし試験中に弱気になったり不安になったりしたら、私の方をこっそり見て。試験官にバレないように、ひそかにその顔をして、パワーを送るから」

「助かるよ」


 高瀬は右手で拳を作り、それをこちらに突き出してきた。

「握手より、こっちの方がいいと思うんだ」


 俺も右手で拳を作り、彼女の拳にグータッチした。

「健闘を祈る」


 ♯ ♯ ♯


 試験は定刻通りに始まった。俺の最初の科目は世界史だった。


 試験官の「はじめ」の合図がかかっても、手が震えて問題冊子がうまく開けないほど依然として固さは残っていた。それでも問題を解いていくしかなかった。


 やがて13世紀のモンゴル帝国と中央アジアに関する大問が出てきた。そこで俺はふと、いつか歴史の教師から聞いた、ひどい死に方をした男のことを思い出した。


 その男は中央アジアのどこかの街で今で言う市長のような立場にいたが、チンギス・ハンを総大将とするモンゴル軍に街を取り囲まれ、やがて身柄を拘束され、耳や目、口や鼻、しまいには肛門に至るまで溶かした金属を流し込まれて絶命したという。本当だとすればひどい話だ。そしてひどい死に方だ。


 でも、と俺は思った。でも俺はこの試験で失敗しても、体じゅうの穴という穴に溶かした金属を流し込まれるわけじゃない。死ぬわけじゃない。そう考えると、なんだかとたんに気が楽になった。良い意味で開き直ることができた。ぐっと集中力が増し、冷静さも戻ってきた。


 得点配分を考え、あらかじめ決めていた通りの順番に設問を解いていく。

 時間配分を考え、わからない問題は後回しにする。

 あとで自己採点することを考え、回答を問題用紙に転記しておくことも忘れない。


 良いリズムで問題が解けていく。

 科目が変わっても、それは変わらない。

 トラブルらしいトラブルも起こらない。途中で腹が痛くなったり、今年から出題の傾向が大きく変わったり、ICレコーダーが故障したり、そういうことは起こらない。


 それでも途中、何度か難問にぶつかり不安に押し潰されそうになった。


 そんな時は高瀬の言葉に甘えて彼女の方をふと見やった。高瀬はその都度――自分だって目の前の問題に集中したいだろうに――例の力強い微笑みで俺を励ましてくれた。


 いける。たしかな手応えがある。今はもう不安ではないけど、こっそり高瀬を見てみる。英語の問題を解く翻訳家志望の顔には、これまで見たことがないほど誇らしげな笑みが浮かんでいた。


 


 今度は俺が、そう胸を張って言えた。どうやら神様にケンカを売らずに済みそうだ。

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