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第114話 もしこれが夢だというのなら、神様に抗議する 3


「個展の準備で忙しいだろうに、あの子の絵の家庭教師をやってもらってすまんな」


「気にしないで。私があなたにできる恩返しといったら、これくらいしかないんだから」


 宿題として出されていたフクロウの絵をとりに娘が部屋に戻っているあいだ、僕たちは先に縁側に腰かけていた。


 アリスは白のブラウスの上に黒のジャケット、アイボリーのスラックスというよそおいだった。芸術家というよりかはなんだか起業家のように見えたが、彼女は初めての個展の開催を来週に控える、れっきとしたプロの画家だった。


「それにしてもこの十年で見違えるほど立派になったよなぁ」僕はつい感慨深くなる。「高校生の頃は誰彼かまわず突っかかる不良娘だったのに、今や『若き天才美人画伯』としてあっちこっちのメディアから引っ張りだこだもんな」


「あの人たち、なんでも都合良く誇張するから。天才とか美人とか、買いかぶりすぎだっての」


 僕はアリスを横目で見た。そのまま目が離せなくなるくらい、黒のロングヘアがよく似合っていた。

「僕は絵に詳しくないから天才かどうかに関しては何も言えないけど、でも、美人ってのは、誇張ではないと思うぞ?」


「はぁ? 私を口説くつもり?」

「滅相もない」僕は笑った。


 アリスも笑った。それから言った。「とにかく、私が今こうして絵書きとして活動できているのは誰のおかげかといえば、あなたのおかげ。高校時代の私が行き先のない時に家に泊めてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり、それになんといっても、復讐に燃える私に復讐より大事なことを思い出させてくれたり。あなたがいなければ、私のこの未来はなかった。感謝してもしきれない。あなたには大きな恩がある。だから娘さんの家庭教師を無償でするくらい、なんでもないの」


 今さらながら、“あなた”と彼女に呼ばれるのはどうもしっくりこなかった。“アンタ”と敬意もへったくれもなく呼ばれ続けた日々がきのうのことのように思い出された。

「すっかり丸くなっちまって……」


「うん? 高校時代の私の方がよかった?」

「あれはあれで、悪くなかった」


 それを聞くとアリスはメンチをきってきた。「アンタ、私にぶっ飛ばされたいの?」

 芝居とはいえ、おののいた。「い、いや、やっぱり、今の方がいいよ」


 そこで娘が戻ってきて、僕たちのあいだに腰を下ろした。そして持ってきたスケッチブックを開いた。


 アリスはすぐさま画家の目になってそこに現れたフクロウの絵を熟視した。やがて、と唸った。

「すごいじゃない。フクロウのかわいさだけじゃなく、野生動物特有のたくましさやずる賢さなんかもきちんと表現できてる。愛ちゃん、めきめき上達してるね」


 アリスが家庭教師としてうちに来るのはこれが6度目だが、たしかに回を追うごとに娘は絵がうまくなっていた。それは素人目にもはっきり見て取れた。


 この子には絵のセンスがある、とアリスが言うと、娘はすっかり有頂天になって、こんなことを口にした。

「お父さん。私、大きくなったら、画家になる!」

「はぁ?」

「ねぇ先生。先生はどこで絵のお勉強をしたの?」


 今も日々勉強中、と答えたそうなアリスだったが、6歳児には意味がわからないと思ったのか、別の答えを探した。「どこって聞かれると、美大になるかな。美術大学。絵のことを専門に勉強するところね」


「それじゃ、私も将来そこに行く!」娘は張り切る。「ねぇお父さん。大学ジュケンって、難しいの?」


「どれだけ準備できるかによるだろうな」と僕は言った。「試験の日は決まっている。その日に向けて、万全な準備ができたなら、それほど難しいもんじゃない。ただ――」

「ただ?」


「肝心の試験当日に思ってもみなかったことが起こって、100%の力が発揮できないってこともあり得るけどな」

経験者・・・は語る、ってやつね」とアリスはぼそっとつぶやいた。


「お父さんがジュケンするとき、何か起こったの?」

 僕は当時を思い出して、うなずいた。「お父さんというか、ある人・・・の身に、だけどな」

「え、何が起こったの?」


「知りたいか?」

「知りたい」


「ちょうどいい」と僕は言った。「それじゃ、お父さんがついに大学入試を迎えたところから、昔話を再開しよう」


 * * *


 アリスを未成年殺人犯にせずに済んだ正月から二週間が経ち、いよいよ一次試験となる共通テストの前日を迎えた。


 太陽から「来てほしい場所がある」と連絡を受けたのは、勉強を切りあげた午後八時過ぎのことだった。ゆっくり風呂にでも浸かって早めにベッドに入り、明日からの試験に備えるつもりだったのだが、親友の頼みとあっては断るわけにもいかなかった。それにご丁寧なことに太陽はわざわざ車まで手配していた。


 俺は迎えに来たタクシーに乗り込むと、連れていかれるのはたぶんあの場所・・・・だろうなとあたりをつけながら、夜の街を車窓越しに眺めた。


 思った通り、タクシーが停まったのは、太陽の父親が院長を務める葉山病院の前だった。運転手に料金を払う必要はなかった。お坊ちゃんから頂いています、とのことだった。俺はタクシーを降りて病院に入った。


 広い院内のどこに太陽がいるのか、スマホで本人にたしかめなくたってだいたいわかった。俺はまっすぐそこへ向かった。ある病室の前に着くと、ネームプレートに「日比野まひる様」と記されているのを確認してから入室した。やはりそこには、植物状態の幼馴染みを見守る太陽がいた。


「よう、よく来てくれたな、悠介」


「俺の認識に間違いがなければ、明日から入試本番のはずなんだが?」

「まぁまぁ。そう時間は取らせんよ。ちょっとだけ付き合ってくれ」


 神沢さん、陽ちゃんがいつもワガママ言ってすみません。ベッドからそう聞こえたような気がしたので、俺は黙って太陽の隣の椅子に腰を下ろした。

「それで、なんの用だ?」


「ああ。どうしても今日、この場所で、おまえさんに伝えたいことがあってな」

「伝えたいこと」


「覚えてるか? ちょうど一年前の冬、北向きたむきの野郎の暴走車からオレを守ろうとしてかれたまひるが、ここに運ばれてきた日のことを?」


 俺はうなずいた。忘れるわけがない。その日はこれまでの三年間で最も悲しい日と言ってもいい。


「まひるはオレ宛てに手紙を書いていた。でもオレはこいつの気持ちを受け止めるのが恐くてそれを読めなかった。逃げようとした。そんなふがいないオレを見て、おまえさんは強烈な一発を顔にぶち込んできた。覚えてるよな?」


 俺はうなずいた。忘れるわけがない。あの瞬間はこれまでの三年間で最も怒った瞬間と言ってもいい。


「今にして思えばあの時だった」と太陽は天を仰いで言った。「あの時がオレの人生の分岐点だ。あの一発を食らって完全に目が覚めた。あれがもしなければ、オレはずっと大事なことから逃げ続ける人生を送っていたと思う。まひるの手紙を読んでいちばん大事なもんに気づいたオレは、プロのドラマーになる夢を捨てて、医者になることを決意した。一番大事なもん――まひるを植物状態から復活させるために。これで良かったんだ。あの時まひるの手紙を読まなかった未来を想像するとゾッとする」


 太陽はそこで日比野さんの手に一度優しく触れた。それから続けた。


「いよいよ明日から医者になるための戦いが始まる。この一年間、死ぬほど勉強してきた成果を試すときが来た。もちろん緊張している。今もヘドを吐きそうだ。でもあの時、逃げなかったからこそ味わえる緊張だ。だからどうしても今日、この場所で、おまえさんに感謝を伝えておきたかったんだ。悠介、ありがとうな。おまえがダチで本当によかった」


 俺は照れ臭くなって首を振った。「別にたいしたことしてない。というか、殴っちまって悪いと、ずっと思っていたくらいだ」


「痛かったなぁ、あれは」太陽は頬をさすった。そして右手で拳を作った。「仕返しの一撃は、いつか悠介があの時のオレと同じ姿を見せた時のためにとっておく。そう宣言したのによ、『その時』がぜんぜん来ないんだよな。このままじゃ高校生活が終わっちまう。おい悠介。そろそろふがいない姿を見せてくれよ!」


「そんなこと言われても」


 太陽はひとしきり笑った。それからベッドの日比野さんをちらっと見て、こう続けた。

「なぁ悠介。おまえさんも、


「逃げるなって? 何からだ?」


「幸せになることからだ」と太陽は真剣な顔で言った。「クリスマスの時にたしかおまえ、こんなこと言ってたよな。誰も傷つけずに幸せになることはできるんだろうか、って。誰かを傷つけてしまう可能性を恐れて、自分が幸せになる選択をすることから逃げるなよ。いいか? おまえは幸せになれよ。ていうか、ならなきゃいけないんだよ」


 俺はなんて返せばいいかわからず黙っていた。太陽は続けた。


「おまえさんはこの三年間、多くの人に多くのものを与えてきたんだ。言ってみりゃ、会う人会う人の未来を変えてきたんだ。それも劇的に。高瀬さん、柏木、月島嬢の三人娘はもちろん、オレの未来もそうだ。オレの未来が変わったってことは、まひるの未来も変わったってことだ。それから、あの、藤堂アリスとかいう画家志望の女だってその一人じゃねぇか?」


「そうかもしれんな」と俺は言った。


「とにかくだ」と太陽は言った。「悠介に救われた人間はみんな思ってる。おまえさんには幸せになってほしいって。そこは断言できる。それだけ悠介はこの三年間、誰かのために奔走してきたんだ。本来は自分の幸せへ最短距離で走り抜けるための三年間だったはずなのに。だから悠介。話を戻すけど、絶対に逃げるな。幸せになることから。それは誰も望んでないことだ。高校生活最後の最後くらい、自分自身を第一に考えろ。たとえこの先厳しい選択が待っていたとしても、逃げるな。もし逃げるようなら――」


「逃げるようなら?」


 そこで太陽はふと時計を見てはっとした。そして慌ただしく椅子から立ち上がった。針は夜の十時をさしていた。

「いかん! ちょっとだけ、のつもりが、ガッツリ話し込んじまった! 悠介、帰れ!」


「はぁ!? ここでかよ!」

「なに言ってるんだ。明日から入試本番なんだぞ! とっとと帰ってゆっくり風呂にでも浸かって、さっさとベッドに入りやがれ!」


 さすがに俺は文句を言ってもよかった。

「誰のせいでそれができなかったと思ってるんだよ!」


 神沢さん、こんな陽ちゃんの親友でいてくれて、本当にありがとうございます。ベッドからそう聞こえたような気がしたので、ここは日比野さんに免じて、許してやることにする。

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