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第105話 どうしようもなくだめな18歳の僕へ 4


《♣悠介》


 18歳の誕生日まであと三日となったこの日は、柏木の店のバイトが休みだった。でも結局は柏木と一緒に過ごすことになった。なぜなら呼んでもいないのに向こうから家に押し掛けてきたから。


 彼女は当然の権利を行使するようにうちへ上がり込むと、きのう校長室で起きたことの一部始終をことこまかに俺に解説した。その臨場感たるや半端じゃなかった。


 どうして高校の中枢部というべき場所で起きたことを一生徒にすぎない柏木がそこまで知り尽くしているのだろう? 決まっている。ドアをちょっとだけ開けて室内を盗み見たに決まっている。果たしてあの高校のセキュリティは大丈夫なのか、と心配にもなる。


「あの時はホントびっくりしたよ。まさか有希子さんが来るとは思わないじゃない」


 あのひともまさか柏木が校長室のドアに張り付いているとは思わなかっただろう。


「有希子さん、悠介の作文を読み上げて、校長を説得したの。あの堂々とした姿には、あたしもシビれちゃったな」

「俺の作文?」


「小学生の頃に書いたでしょ? 18歳になった自分へ手紙を書こうっていうテーマのやつ。有希子さんはそれを富山に行く前に悠介の部屋から持ち出したんだって」


 そういうことだったのか、と俺はやっと合点がいった。どうりで部屋中をひっくり返して探しても見つからなかったわけだ。それにしても、持っていくのがヘソの緒とか写真じゃなくて、作文なのがいかにもあの人らしい。さすが『未来の君に、さよなら』の原作者を支えた編集者だけある。


「あたしはこれまで有希子さんのことを目のカタキにしていたけど、なんだか見直しちゃったな。土下座までして悠介の復学をお願いする姿は、どっからどう見たってちゃんとお母さんだった。あそこまでやられちゃ、さすがにあたしの出る幕がなかったもの。あとは校長の心がどう動くかだね。悠介、高校に戻れるといいね」


 俺はうなずいた。「これでもし高校に戻れたら、おまえのおかげだな。おまえが無茶して母親に頼み込んでくれたおかげだ。俺を救ってやってほしいって。ありがとな」


 柏木は得意になるでもなく手を振った。「感謝する相手を間違ってる。いくらあたしが頼んだって、あの人が動かなきゃ話にならなかった。そうでしょ? 感謝するならあたしじゃなくて、有希子さんにしなさい」


 そう言われてしまっては、俺はこうべを垂れることしかできない。復学できてもできなくてもこりゃ当分は柏木に頭が上がらないな。そんなことを考えていると、電話の着信音が聞こえてきた。鳴ったのは俺のスマホだった。ディスプレイに表示された名前を見て俺は思わず息を呑んだ。そこには高瀬優里とあった。その四文字はもちろん柏木の目にも入っていた。


「せっかく優里から電話をかけてきたっていうのに、なにしてんの。早く出てあげなよ」


 俺は柏木の顔とスマホの画面を交互に見比べた。


「あたしのことなら気にしない気にしない」柏木は居心地悪そうに言う。「とはいえ、あたしがいたら話しにくいか。ちょっと外を散歩してくる。安心して。盗み聞きなんかしないから」


 そう言うと彼女は本当に玄関から外に出ていった。俺は軽く咳払いをしてからスマホを手にとり、電話に出た。

「もしもし」


「もしもし」と高瀬は言った。いつになくこわばった声だった。「今、大丈夫?」

「大丈夫だよ」と俺は言った。


「どこにいるの?」

「家だよ」


「なにしてたの?」

 柏木と一緒に過ごしていた、とはちょっと答えずらい。

「勉強してたよ。いつ高校に戻れても、授業についていけるように」


 べつに褒めてほしかったわけではないが、反応は素っ気ないものだった。「そう」

「そういう高瀬は?」と俺は気を取り直して聞き返した。「今どこにいるの?」


「結婚式場」

「え?」


「聞こえなかった? 結婚式場・・・・

「結婚式場」と俺はおそろしく生気を欠いた声で繰り返した。「そんな場所で、なにしてるの?」


「ウエディングドレスの試着してるの。トカイさんとの結婚まであと四ヶ月だから」


 その意味を考えさせるように電話の向こうで高瀬はひとしきり間を置いた。それから言った。

「神沢君は私と一緒の未来を目指したいって――一緒に大学に行きたいって――今でも思ってる?」


「思ってるよ。一年生の春にヒカリゴケの洞窟で約束しただろ。一緒に大学に行くって。その思いが消えたことなんて、一度だってないよ」

 約束を見守っていたヒカリゴケの輝きが今も消えていないように、と俺は心で続けた。


「私たちの前には大学に行くことを阻む壁があった」と高瀬は言った。「神沢君の前にはお金の壁が。私の前には政略結婚の壁が。私たちはお互いの壁を壊すって約束した。私はその約束を守った。リライトした『未来の君に、さよなら』で新人賞をとって、賞金を獲得した。でも神沢君は? 私の前にはまだ壁があるよ? とてつもなく高い壁が」


「高瀬の言いたいことはよくわかるよ」と俺は困惑しつつ返した。「高瀬は正しいことを言ってると思う。でもさ、なにもそれを言うのは今じゃなくたっていいだろ。俺が今どういう状況にあるかってのは、高瀬もよくわかってるだろ。今俺はとにかく高校に戻らなきゃいけない。そのため必死にもがいてる。あがいてる。約束は守る。必ず。だから、もうちょっとだけ待ってくれ」


「もうちょっとだけ?」と高瀬は言った。「いつまで待てばいいの? もう披露宴の招待状は出されているし、祝辞を読む人も決まってる。私はウエディングドレスの試着だってしてるんだよ? 次はブーケの選定をしなきゃいけない。それが今の私の状況。“もうちょっと”なんて悠長なこと言ってられないんだよ。ねぇ神沢君。私はいつまで待てばいいの? いつになったら私の壁を壊してくれるの?」


 花嫁姿の高瀬を想像すると、俺は何も言えなかった。応答を待っても無駄だと思ったのか、彼女はため息混じりに言葉を続けた。

「私と一緒の未来を目指したいって言うけど、そのわりには最近ずいぶん晴香としきりに会ってるみたいじゃない?」


 俺は黙っていた。そりゃああいつは俺を高校に戻そうと必死になってくれているから、と言いたかったが、高瀬をいたずらに刺激したくないので黙っていた。


「聞いたよ。晴香のお店でバイトしてるんだってね。本当は晴香と一緒の未来を目指したいんじゃないの?」


 俺はスマホをいったん耳から離し、一度深呼吸した。それから静かに言った。

「高瀬。まずは一度会おう。会って話をしよう。高瀬はいろんなことを誤解しているように思う。でもそれは俺のせいでもある。電話だと、伝えたいこともうまく伝えられない。だから会おう。な? 頼むから、顔を見せてくれ」


「それはできない」


「どうしてだよ?」俺の声は気づけば尖っていた。「この際だから言わせてもらうけど、俺が退学処分を受けてから高瀬はなんだかおかしいぞ? 言ってみれば、今がこれまでで一番俺たちが会わなきゃいけない時じゃないか。なのにどうしてそこまで会うことをかたくなに拒むんだ? 誰かに脅されているのか? それとも取引でもしているのか? 高瀬は俺に会いたくないのか?」


 静寂が耳を打った。電話の向こうで高瀬が深く考え込んでいることは、沈黙の長さでわかった。やがて彼女は抑揚のない声でこう告げた。

「誤解しているのは、神沢君の方だよ」


「え?」

「もしかして、私が神沢君のことを好きだって思ってた?」


 “もしかして、私が神沢君のことを好きだって思ってた?”

 思ってた。俺は耳を疑った。でも高瀬は間違いなくそう言った。彼女は続けた。


「私ね、気づいちゃったんだ。私は望まない結婚から自分を救い出してくれる白馬の王子様を求めていただけなんだって。それに気づいたから会わなくなったの。わかりやすく言えば、利用していただけ。神沢君に期待した私が馬鹿だった。これまで二年半の時間は全部無駄だった」


「高瀬、いったい、何を言ってるんだ?」


「まだわからない?」と高瀬は言った。「私はいちおうこの地域じゃ知らない人のいない企業の社長の娘だよ? 神沢君みたいな社会の底辺でうろついている人とは元々住む世界が違うの。たとえるなら血統書つきの名犬とゴミ箱をあさっている野良犬。それくらいの差があるの。勘違いしないで。私が野良犬相手に本気になるわけないでしょ」


「高瀬、ヒカリゴケの洞窟の約束は――」


「ひとつ言い忘れていたことがあった」と彼女は俺の言葉をきっぱりさえぎった。「洞窟から持ち帰って学校に飾っていたあの時のヒカリゴケ、もう光ってないよ。輝きを放つのをやめたの。もしあの輝きに何かを重ね合わせていたのなら、もうおしまいにした方がいい。そんな幼稚で馬鹿げた青臭い考え、さっさと捨てて」


 高瀬と会えなくなってこの一ヶ月近く、俺の中で膨らみ続けていたものがあった。それがついに、破裂した。「もういい!」と俺は気づけば立ち上がって声を荒らげていた。「俺はもう自分が生きたいように生きる! だから高瀬も好きにしろ! 約束なんか知ったことか! 俺は高瀬と!」


 通話が切られると、俺はスマホをソファの上に放り投げ、その場に膝から崩れ落ちた。先ほど破裂したものがなくなった分、心にはぽっかり穴が開いていた。そしてやがて玄関の戸が開き、散歩に出ていた柏木が戻ってきた。


「どうしたの悠介。今、外まですごい怒鳴り声が聞こえてきたけど?」


 俺は適切な言葉を見つけることができなかった。彼女は俺の表情と姿勢とそれからスマホの位置を見て、何かを察したらしかった。


「ええと、こういう時はひとりになりたいよね。あたし、帰るね。本当は今日、これから叔母さんとその婚約者さんと焼肉に行くんだ。じゃあね」


 柏木はスクールバッグを持って、再び外に出て行こうとした。俺はほとんど無意識にその後を追いかけて、後ろから彼女の体を抱きしめた。

「行かないでくれ」


「え?」


「頼む柏木。どこにも行かないでくれ。今日はずっと、俺のそばにいてくれ」

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