「それで、俺に見てほしいものって、なに?」
結局スープの一滴まで残さず平らげてしまった高瀬に声を掛けた。
「あ、そうそう。えっとね」
彼女がバッグから取り出したのは、何冊かの
いずれもB5サイズで、真ん中で半分に折られた原稿用紙が古びた紐によって束ねられているだけだ。厚手の表表紙や裏表紙があるわけでもない。
決して
俺はテーブルの上に置かれたそれらの冊子を手に取り、順番に目を通してみた。4冊ある。
色褪せた原稿用紙には黒のペン字が躍っている。率直に言ってえらく汚い字だ。文字が
「小説だな」と俺は言った。「どうしたの、これ?」
「お父さんの書斎で見つけたの」と高瀬は答えた。
「大掃除のお手伝いしていたら、偶然出てきて。気になったから、お父さんに内緒で持ち出してきちゃった」
「直行さんが書いた小説だろうか?」
「それはない」
高瀬は風が起きるほど大きく手を振って否定した。
「あの人、小説とか漫画とか大嫌いだから。『虚構は好かん。私が立脚しているのは実社会だ』そんなことをよく、お酒を飲んで言ってる」
「眉間にありったけ皺を寄せて」
「神沢君もすっかり私のお父さんについて詳しくなったよね」
自らが経営する会社と愛する娘の危機を救ったのは、他ならぬ漫画の虚構だった現実を父上殿がいったいどう捉えているのか。機会があれば尋ねてみたいところだ。
「それはそうと、それぞれの小説の表紙を見てみて」と高瀬は言った。
彼女の指示に従い、4冊の冊子をテーブルに置き、見下ろす。
小説のタイトルこそ異なっているが、ペンネームだろうか、著者名はすべて同じもので統一されていた。“川岸小雪”とある。ルビはない。
「カワギシ・コユキ」
俺は読み方と区切る場所を推測して声に出した。
「やっぱりそう読むよね」高瀬は無雑作に唇を撫でた。「神沢君、この作者が誰だかわかる?」
「さぁ? 川岸小雪? 聞いたことがないな」
首を捻りつつも、カワギシコユキ、と頭で反復して唱えていると、いつの間にか脇の下が汗で蒸れていることに俺は気がついた。
粘り気のある、嫌な汗だ。どうやらこの体と心は、その7文字に大きな抵抗を感じているらしい。それはなぜだ? と意識を研ぎ澄まして頭を回転させていると、ほどなくして一つの可能性に思いあたった。
「まさか――」
俺はテーブルの上にあったメモ帳を手元に寄せ、ペンでそこに“かわぎしこゆき”と書いてみた。そうすると、笑えるほどすぐに季節外れの汗の理由が判明した。
「そういうことか」
「川岸小雪が誰かわかったの?」
「ああ。なんてことはない。実に簡単なアナグラムだよ」
俺はメモ帳にある7文字・“かわぎしこゆき”を並び替えて“かしわぎゆきこ”と書き、高瀬に示した。
「かしわぎ・ゆきこ」彼女は目を見開いた。「あっ!」
「こんなペンネームを使う人間は一人しか思い付かない。川岸小雪の正体は、柏木の父親、柏木恭一だ」
「ゆきこ、っていうのは、神沢君のお母さんだよね?」
「ああ。柏木恭一と俺の母親は、高校時代、小説で結びついていたんだよ」
俺はそんな風に、高瀬に対して説明を一から
恭一が小説を執筆し、有希子がそれを冷静な視点で批評する毎日。
愛と希望に満ちた毎日。
その幸せがいつまでも続くと信じて疑わなかった、毎日。
これらの小説は、そんな日々の中で生み出されたのだ。
「柏木恭一にとっては、さしずめ、『オレと有希子で作り上げた物語』ということなんだろう、このペンネームが意味するところは」
もちろん将来的に二人が結婚し、有希子が柏木
「そういうことだったんだ」と高瀬は言った。間を置かず、でも、とつぶやき眉をひそめる。「でも、だとしたら、これはいったいどういうことなんだろう?」
「というと?」
「……あのね、実は、神沢君に一番見てほしかったのは」
高瀬はそこで言葉を切って、バッグに手を伸ばした。
「これなんだ」
彼女が慎重に取り出したのは、これまでのものと同じ形態の冊子だった。すなわち、5冊目の小説ということになる。原稿用紙の黄ばみや紐のほつれ具合は、嫌でも時間の残酷さを感じさせる。
「今までで一番分厚いな」と俺は感想を述べた。
「神沢君はこの小説を読まなきゃいけない」と高瀬は強い口調で言った。「私は5作品とも読んだけれど、この作品だけは、違う」
「違う?」
様々な意味に置き換えられる、違う、だ。いったいどう違うというのだろう?
「晴香のお父さん、柏木恭一さんがどうしてこの小説を書いたのか――いや、書くことができたのか。最後まで読んで、神沢君の考えを聞かせてほしいんだ」
高瀬はやや熱を帯びた表情で5冊目の小説を俺に差し出し、「待ってるから」と続けた。「神沢君が読み終わるのを、私、待ってるから」
俺は時計を見やって、日が暮れるまでには読了できそうだと目算をつけた。そして高瀬と視線の交換をして、その冊子を受け取った。全身が頑丈な鎖を巻き付けられたみたいに
小説の題名が、目を疑うものだったのだ。
「これは――」
息を呑む。高瀬を見る。彼女もこちらを見ている。俺は再び表紙に視線を落とす。そこにある文字に変化はない。こめかみが痙攣し始める。
『未来の君に、さよなら』
それが俺が今から読むことになる柏木恭一が書いた小説だ。