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第35話 この旅の果てに 1


 波乱に富んだ12月が過ぎ去り、俺はのどかな新年を迎えていた。


 正月恒例の大学駅伝大会をあぐらをかいてテレビ観戦し、「おー、トップとの差が詰まってきた」なんて呑気のんきな独り言を言いながらインスタントラーメンをすすっていられるくいらいなのだから、これはのどかな時間に違いなく、消耗しきっていた心と体がこうした安らぎを渇望していたことも加味すれば、有意義な時間と言うこともできた。


 自宅のチャイムがいつになく気品のある音を立てたのは、そんな、久し振りの休息を満喫している最中だった。


 正月三が日も最終日、1月3日の昼どきのことである。


「突然押し掛けてきて、迷惑じゃなかった?」と高瀬は気恥ずかしそうに言った。


「いや、かまわないけど」と俺は返した。高瀬に押し掛けられて迷惑な理由なんて、三度生まれ変わったって見つかりそうもない。「それより、どうしたの?」


「あのね、神沢君に直接見てほしいものがあって」

 高瀬は、持っていた大きめの手提げバッグをちょこんと持ち上げた。


「わかった。とりあえず中に入って。外は寒いから。風邪を引くといけない」

「お邪魔します」


 ほのかな柑橘系オーデコロンの香りが、脇を通り過ぎた高瀬から漂ってくる。


 ♯ ♯ ♯


「お昼ご飯の途中だったんだ」

 リビングでコートを脱ぎつつ、高瀬は申し訳なさそうな顔をする。


「食べちゃうから、少し待ってて」

 俺は丼を持って麺をすすった。正月に低級なインスタントラーメンを食べる姿は、この街を代表するお嬢様の手前、恥ずかしくもあった。


「ラーメン」と彼女はつぶやいた。

「ラーメン」と俺はオウム返しした。そしてテレビの音量を落とした。


「駅伝、うちでも見てた」と高瀬は座って言った。「神沢君はどの大学を応援してるの?」


「特別どこっていうのはないけど」

 カメラはちょうど、足元が覚束おぼつかなくなった走者を映していた。脱水症状ではないかと解説者が話している。


 歯を食いしばり、よろめきながらも仲間の汗が染みたたすきを握るその様は、俺の胸にも迫るものがある。


「その時々で変わるよ」そう答えることにした。「たとえば今は、この大学かな」


 悲しいことに、高瀬の意識はすっかりテレビに向いていた。口に手をあて、「がんばれがんばれ」と、決して諦めない走者にエールを送っている。今にも感動の涙を流しそうな面持ちだ。


 日本中の溜め息が聞こえてきそうなビールのコマーシャルが唐突に始まり、そこでやっと高瀬はこちらを見てくれた。そして言った。

「で、神沢君はどこの大学を応援してるんだっけ?」


「うーん……」

 高瀬だから、許す。二度目の回答は、少し表現を変えてみる。

「どこも応援してないよ。私立大学ばかりだから、どうせ俺にはえんがないし」


「私にも縁がないな」と彼女は少し考えてから言った。「これに出てるのって、関東の大学ばかりだもんね」


 この冬はいろいろあったわけだけど、二年後に地元の国立大学・鳴大めいだいを受験する考えに変わりはないらしい。


 俺はほっと一息ついて、スープとねぎをレンゲに乗せ、口に運んだ。味噌味のスープにバターと半熟卵が良い具合にからんで、実にうまい。


「ラーメン」と高瀬は再びつぶやいた。

「ラーメン」と俺も再びオウム返しした。ショーウインドウの外から貧しい少年に見つめられるトランペットがもし心を持ったとしたら、きっと今の俺と似たような心境のはずだ。


 しかしトランペットとは違って俺には消化器があるので、なんだか胃が痛くなってくる。

「もしかして高瀬、昼ごはんを食べてないの?」


「食べてきたよ」と彼女はなんだかつまらなそうに答えた。「おせちのあまり。でも、もうずっとおせちばっかりで飽きちゃった。そろそろ、こういう、袋ラーメンみたいな食べ物が恋しくなるんだよね」


 社長令嬢は俺の食事を羨望の眼差しで見てくる。どんな言葉を待っているか明白だった。一口食べるか? だ。俺がそれを声に出すと彼女は目を輝かせて近寄ってきた。


「今、取り分け皿を持ってくるから」


「このままでいいよ。洗いものが増えても迷惑だし」

 高瀬は言うが早いか丼を自分の前へ引き寄せ、俺の使っていた箸を手に取り、麺をひと思いにすすった。そして幸せそうに目を細めた。

「ああ、やっぱり美味しいねぇ。神沢君。もう一口、いいかな?」


 間接キスだ、と俺は思った。「満足いくまで、どうぞ」と言うしかない。

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