月島が俺を待ち受けていた場所は、自宅マンション前の歩道だった。
彼女は洒落たピーコートのポケットに手を突っ込み、いつも通りの無表情で雪が舞う夜空を見上げていた。面積の狭い天頂部には、たしかな積雪が確認できる。
時刻は22時20分を少し過ぎたところだ。
これでも俺は、彼女との契約を守るため、タカセヤ西町店から可能な限り最速で駆けつけたつもりだった。
「おー、来たね」
月島は、入浴後の犬みたいに頭を大きく振って雪をふるい落とした。そして、愉快そうにけたけた笑った。周囲には人っ子一人いないからか、声には気兼ねがない。
「自分の足で走って来るっていうのが、またいいよね。青春の一幕だ」
「笑い事じゃねぇよ」
俺は両手をひざに突く。
「最終バスは出ちゃったし、クリスマスイブだからか知らんけどタクシーはつかまらないし。結果、雪の中を走るしかなかったんだ。地方都市の交通の不便さを舐めんな」
月島は俺のぼやきを無視して、前髪を
「その威勢の良さから察するに、なんとかなったみたいだね、高瀬さん」
思わず笑みが漏れる。
「ああ。最後の最後でなんとかなったよ。これで高瀬は高校を辞めなくて済む。月島には本当に助けられた。高瀬もおまえには深く感謝していたぞ」
それを聞くと月島は、舌打ちして、足元の雪を蹴り散らした。
「なんだよちきしょう。邪魔くせー高瀬優里が消えれば、
「おまえ、この前と言ってることが違いすぎるだろ」
彼女のシャイな面は、それほど嫌いになれない。
一呼吸置いて、俺は遅まきながら当然の疑問を口にした。
「というか、なんでこんな寒い中、外で待ってたんだよ。やっぱり『絵になるから』か?」
「違う。冷静に考えると、イブの夜に男を一人暮らしの部屋に招き入れるなんて、あまりよろしくないかと思って。ほら、勘違いした神沢に、がばっと押し倒されるかもしれないわけでね」
いちいち相手をするのも馬鹿馬鹿しいが、黙っているわけにもいかない。
「あのさ。俺にそんな大それた真似をする度胸がないことは、他の誰よりおまえが一番よく知ってるだろ」
度胸、という言葉に「胸」の字が入っているからだろうか、月島は俺の胸を小突いて、「本当に度胸ないよな、キミは」と言ってきた。
「悪かったな」と俺はなかば
「さては神沢。その度胸のなさが災いして、せっかく良いムードになったのに、高瀬さんに気持ちを伝えられなかったな?」
「ご名答」
「高瀬さんからは?」
「なにもなかったけど……どうしてそんなことを聞く? 高瀬はイブに動くようなことをおまえに匂わせていたのか?」
彼女はとたんに押し黙った。俺は続けた。
「月島、高瀬との間になにかあっただろ? もっと正確に聞こう。おまえ、高瀬に何を言った? 三日前、電話で話したんだろ、高瀬と。あの日の時点では売上目標に到達するのは絶望的な状況だったにも関わらず、高瀬はおまえから『元気をもらった』と言っていたんだ。よほどのことだ。月島のことだから、何か常軌を逸するようなことを言ったんだろ」
「神沢。女同士のやり取りに首を突っ込むのは、NG」
「それは、高瀬にも叱られた」
「そらみろ」
除雪車が車道を排雪しながら俺たちの横をゆっくり進んでいく。枕元に靴下をぶら下げた子どもの眠りも覚めそうな轟音が遠ざかった後で、月島は息をひとつ吐いた。
「しょうがねーなー。大仕事をやってのけたご褒美に、ちょこっとだけ、教えてしんぜよう」
「たのむ」
「挑発したんだよ。かなりきわどい言葉を使ってね。だって高瀬さん、泣き言ばかり言ってたから。実際しくしく泣きながら。そんな陰気な状態だとさ、幸運だって逃げていくっていうものじゃない?」
事実、今回の勝利は幸運に助けられた節もあるから、俺はうなずいた。
「そうしたら、徐々にお嬢様も挑発に乗ってきて。けっこう白熱した議論になったんだな、これが」
「議論? 口論の間違いだろ?」
電話越しに喧嘩を吹っかけられて、たじろぐ高瀬が目に浮かぶ。
「ま、いろんな表現がある」と月島は言った。「もちろんその詳しい内容については話せない。守秘義務があるからね。ただ、これくらいは神沢にバラしても差し支えないと思うけど、ある程度元気を取り戻した高瀬さんは、私にこう言ったんだよ」
決して聞き漏らさぬよう、俺は耳をすました。
「負けないから」
「えっ?」
「はい、もう終わり終わり! あとは
負けないから――。
その高瀬の言葉は、果たして何の勝負に対しての決意表明なのか。あるいは、どのような文脈の中で飛び出たものなのか。そういった核心部分は、当事者たちの口から漏れることはないのだろう。
「ああ、もう、なんで結局高瀬さんの話題になってるわけ?」
月島は細くくびれた腰に両手をあてて、あからさまに不快感を示してくる。
「私は、当て馬か」
俺はすぐさま「悪かった」と詫び、それから明るい声を出した。
「さぁ、そろそろ本題に移ろう。『イブの夜は私のマンションまで来なさい』と言うから、約束を守ってこうして来たぞ。後は、煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」
「それじゃあね、葉山病院へ、レッツゴー!」
「はい?」
「神沢。今から葉山病院に行って、柏木と一緒に過ごしてあげなさい」
月島の顔は冗談を言っているようには見えない。
「あの子まだ、記憶、戻ってないんでしょ?」
「そうだけど……」
「今日は朝からずっと一人だったんだから、寂しい思いをしてるに違いないよ。神沢、ほら、ダッシュ!」
彼女ははじめから、この日になっても柏木の記憶が戻っていなければ、俺を病院へ向かわせるつもりだったのだろう。
「なぁ月島。おまえはそれでいいのか?」と俺は言った。「本当は俺になにかして欲しいことがあるんじゃないのか?」
「いいの」彼女は取り澄ました顔で前髪を払った。「神沢が愚直に私との約束を守って、こうして自宅まで来てくれただけで充分。息を切らしてまで、ね。今この時、一番神沢を必要としているのは、私でも高瀬さんでもなく柏木のはず。だから行ってあげなよ。ね?」
「月島……」
「女である前に一人の人間だ、とか、格好つけて言ってみる」
「おまえ、良い奴だよな」
それを聞くと月島は珍しく取り乱した。
「ちょ、ちょっと。突っ込むところでしょ! 前言撤回する。今のナシ!」
「撤回することないだろ。一人の人間として、すごく良い奴だって」
「うるせーなー。さっさと行け、このアホンダラ!」
「わかったよ。ありがとうな」
葉山病院に向けて再び走り出そうとした俺の頭に、ふと、ある閃きが舞い降りてきた。
弱っている柏木を元気づけるためのサプライズだ。それを実行するには多くの困難と制約が伴うが、今夜の俺はなんだって出来そうな気になっていた。
なにしろスーパーマーケットの月間売上を20%上昇させてきた後なのだ。世の中のおおかたの事はたやすくクリアできそうに思えてしまう。
「月島。たしかおまえ、料理が趣味だったよな?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「ケーキを作るための道具をもし持っていたら、貸して欲しいんだ」
♯ ♯ ♯
柏木が入院する病棟に着く頃には、時刻は23時半を回っていた。
途中で24時間営業のディスカウントストアに寄らなければもう少し早くに到着できたが、やむを得ない。どうしてもケーキ用のスポンジやホイップクリーム、それからノンアルコールのシャンパンなんかを準備する必要があったのだ。
両手から買い物袋を
柏木は眠っていなかった。部屋の電気は消えていたが、彼女はベッドの上でスマホをいじっていた。
「誰!?」
「驚いたよな」と俺は笑顔で言った。そして電気をつけた。
「悠介君……。どうしたの、こんな時間に、そんな荷物を持って」
「クリスマスパーティやるぞ。今から」
「えぇ?」
「おまえにとってクリスマスイブは、一年で一番幸せな日だったんだよな? それを途切れさせるわけにはいかない」時計を改めて見る。23時45分だ。「なんとかぎりぎり間に合った。25日に入り込んじゃうのは、ま、大目に見てくれ」
ベッドの上でしきりにまばたきをする柏木を尻目に、俺は買ってきたシャンパンを開けて紙コップに注いだ。
「さぁ、飲みながら、一緒にケーキを作ろう」
「ケーキ! そっか」柏木は紙コップに口をつけた。「覚えていてくれたんだ」
「ああ。親父さんとの約束、俺が代わりに果たしてやる」
「悠介君って、なんていうか、めちゃくちゃな人だね」
「おまえほどじゃないけどな」
これまでの柏木の無法さを思い出して言った。そして笑った。
娘との約束を
待ってろよ、柏木恭一――。
気丈に振る舞ってはいたが、俺はえらく疲れていた。ふらふらだ。死にそうだ。ケーキを作っている最中に倒れたら、と不安にもなったが、さいわいここは病院だ。そのままあの世行きにはならないだろう。
日付が変わり、未来を懸けた12月24日が終わった。
25日は完全休養日だな、と俺は心に決めた。柏木が寝たなら、俺も家に帰り、そのままベッドに潜り込もう。
家のチャイムをオフにして、スマホも電源を落としてやる。そうしてとことん飽きるまで眠るのだ。そして起きたらなにかうまいものを食おう。
今日一日くらいは、そんな贅沢も許されるはずだ。