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第34話 どんな高価な物より値打ちのあるプレゼントです 2


 それから少し経つと、俺と高瀬は祝祭ムード一色の従業員たちから離れて、巨大クリスマスツリーの元へと向かった。


「最後にもう一度見ておこうよ」と彼女が誘ったのだ。


「てっぺんまで、真っ白だな」

 実に数千のレシートが結び付けられたツリーに、もはや午前中までの面影はない。単なるスーパーマーケットの領収書はさながら、大樹を覆い尽くす白雪のようだ。


 遠くでは依然として勝ちどきが上がっていた。とうとうワインが開けられたようだ。「売れ残ったオードブルを持って来い」と、誰かが大声で命じている。


 俺と高瀬は、何を喋るでもなく、隣り合ってツリーを見上げていた。そのあいだ、俺の心拍数は加速度的に上がり続けていた。その理由ははっきりしている。


 頼んでもいないのに、何者かの手によって『キミイキ』の最新話が頭の中でぱらぱらとめくられ、その結果、“キス”の二文字が俺の理性を荒らし回っているのだ。


 達成された売上目標、夜の街に降る雪、閉店後の店内、そしてすぐそばにある、ふたりの願いを叶えたクリスマスツリー。


 何から何まで、今の俺たちは『キミイキ』の主人公とヒロインと同じ状況にある。


 もしこれでキスをすると――熱いキスをすると――キミイキの物語を完璧になぞることになるわけで、なぞることに特段意味はないとわかっていたって、その甘く官能的な唇同士の接触を意識しない方が難しかった。


 見れば高瀬の頬はほのかに赤く染まっている。


 もしかして、と俺は考えずにはいられなかった。もしかしてツリーを最後に見ておこうよと高瀬が誘ってきたのは、キスをしてみたかったからじゃないか? 


 それはあり得ない話ではなかった。


 高瀬は大逆転勝利の余韻よいんで、ある種の昂揚状態にあるはずだ。


 ひとつだけ忘れていることがあるよ、神沢君。そのような台詞が彼女の喉に控えていたとしても、なんら不思議はないように思える。


 深呼吸して目を閉じると、今度は吉崎アゲハの手紙にあったお節介な追伸がまぶたの裏に浮かんできた。


「男なら、いい加減あの娘に告白しちゃいなさいよ。いつまでぐずぐずしてるのよ。ほら、最高の舞台を用意してあげたわよ」


 たしかに今は、高瀬に対する想いを伝える絶好の機会でもあった。


 俺の中で過激派と穏健派が急きょ論争を始める。


「もういっそ、ためらいや迷いのたぐいはかなぐり捨てて、今すぐ高瀬の唇を強引に奪い、その勢いのまま告白しちまえ! ここで勝負に出なきゃいつ出るんだ!」


 過激派が猛々しくそう主張すれば、穏健派が「いやいや待てよ」と冷静に手を突き出す。


「常識的に考えて、告白してから、キスだろう。事をく男は、嫌われるぞ」


 なんだよ、違うのは順序だけじゃないか。


 どちらも行動に出るべき時だと判断したらしい。ならばもう尻込みなんかしていられない。


 言い分に筋が通っている穏健派の意見を取り入れることにして、俺は告白の言葉を頭で組み立てていく。すると隣で高瀬が待ちくたびれたように口を開いた。

「ほら、神沢君。そろそろ行かなきゃ」


「はっ!?」

 拍子抜けし、声が上ずった。まとまりかけていた言葉たちが散り散りになる。


「月島さんのところ。……約束してたんでしょ?」

「約束してたけど……なんでそれを高瀬が知っているんだよ?」


「三日前の夜、月島さんに電話で聞いたから。『イブの夜は神沢のこと借りるけど、よろしく』って」

「そうだったのか……」


「『売上の行方ゆくえ次第では、あいつ、切り出せないだろうから』だって」

「抜かりないことで」

 月島ならば、こういう結末になることを見通していた気もするが。いずれにせよ、告白もキスも、できる雰囲気ではなくなってしまった。時間切れだったのだ。


 見れば、心なしか高瀬は、諦めと安堵が入り混じった表情をしている。


「待ってたのにな」「何もなくて良かったかな」このシーンがもしも映画ならば、翻訳家がどちらを彼女の心の声として字幕に採用するか、それが腕の見せ所になりそうだ。


「なんかごめん、高瀬」と俺は詫びた。いろんな意味合いを内包する、「ごめん」だ。


「気にしないで」と彼女は微笑んでいった。「月島さん、陰ながら貢献してくれたもん。神沢君のバイトの代わりを担ったり、私を電話で元気づけてくれたり。それがどれだけ大きかったか。私はあの子に感謝してるんだよ。だから神沢君は細かいことは気にしないで、月島さんのところに行ってあげて。ね?」


「高瀬……」

 決して彼女は、ふて腐れているわけではなかった。その引き締まった立ち姿からは、潔さすら漂ってくる。


「さて、私には、まだやることが残っている」

 高瀬はきりっとした視線を店の奥に据えた。

「改めて、従業員さん一人一人に、ねぎらいの言葉を掛けてこなくちゃ。株式会社タカセヤ社長の娘として。明日からもこの店の営業は続くわけだから」


「そっか」と俺はふいに込み上げてきた感動と寂しさを押し殺して言った。「なにはともあれ、お疲れ様でした」


「神沢君も、本当にお疲れ様でした」


 高瀬の光あふれる笑顔を記憶にしまいこみ、店の出入り口へ一旦は向かいかけた俺だったが、大切なことを伝え忘れているのに気が付き慌てて振り返った。


 高瀬は、一歩も元の位置から動いていなかった。


 彼女の耳にたしかに届くよう、腹の底から声を出す。

「高瀬! 誕生日もクリスマスも、それらしいプレゼントは用意できなかったけどさ、今年のプレゼントは、どうか“未来”ってことで許してくれ! メリークリスマス!」


 高瀬は口の前で拡声器を両手で作って、声を張り上げた。


「なに言ってんの、神沢君! 許すもなにも、どんな高価な物より値打ちのあるプレゼントです! そして一生忘れることのない、最高のメリークリスマスです!」

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