目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第34話 どんな高価な物より値打ちのあるプレゼントです 1


<PM21:30(閉店30分後) タカセヤ西町店>


「みんな! 集計結果が出たぞ!」


 “STAFF ONLY”と書かれた扉を蹴り飛ばすような勢いで開け放ったのは、でダコみたいに顔を赤くした店長だ。つい先ほどまでダウンしていたのが嘘のようだ。


 全従業員の眼差しが、店長に突き刺さる。両手を組み、目を閉じる人がいる。祈りなのだろうか、何かを小さく唱える人もいる。


 俺の隣で口を真一文字に結び、顎を引いてまっすぐ前を見つめる高瀬の瞳には、いったい何が映っているだろう?


 店長は過呼吸になりつつ、言葉を発した。

「今月の売上増加率は――」


 頼む! 俺はそう、心で強く叫ぶ。20%に届いてくれ! と。


 店長の頬に、わずかな微笑みが浮かんだ。それは波紋のように、顔全体に広がっていく!

「20.4%だ! トカイとの合併は、回避されたっ!」


 その瞬間、地響きのような歓声が沸き上がった。


 戦いを終えた戦士たちは、手を叩き、雄叫おたけびを上げ、抱き合って勝利を喜ぶ。


 真夏の打ち上げ花火のように続々と、「よっしゃ!」「やったぜ!」「勝った!」「タカセヤを舐めるなトカイ!」そんな声が打ち上げられる。「これから飲みに行きましょう」なんて景気のいい声もある。


「売れ残っているワインを開けちゃいましょうよ」誰かが冗談交じりにそう言って、「いいぞ! 今夜は無礼講ぶれいこうだ!」と、これは、店長が許可したから誰もが驚いた。驚いて、爆笑した。


「神沢君!」

 高瀬の呼び声に俺の心は震える。その明るい声を、俺はこの一ヶ月、ずっと、ずっと待っていた。

「すごいよ! 本当にすごい! これで、私、私――」


 高瀬が言葉に詰まったので、大事なところは俺が横取りする。

「ああ! 高瀬は高校を辞めなくていいし、鳥海家に入ってくだらん花嫁修業なんかしなくて済む! 俺たちの物語は、まだまだ続くんだ!」


 彼女の瞳は潤んでいる。「今回は、覚悟してたな。神沢君のおかげだね。よくがんばったよ」


「いやいや、あのオバサン――吉崎アゲハのおかげだよ。彼女が漫画でこの店のことを取り上げてくれなかったら、こういう結果にはならなかった」


「それはそうだけど、でも、売上げ13%増の状態で今日を迎えたから、20%に到達したんだよ。一番の功労者は、やっぱり神沢君だって」


 ここで「そうだろそうだろ、さすが俺だろ」と天狗にならないのが、俺の数少ない長所のひとつだ。ただ単に勇気がないだけかもしれないけど。


 いずれにせよ、何かを口にすべきではあった。

「ここにいる全員がヒーローだ。誰が欠けてもこの戦いには勝てなかった。タカセヤ西町店は、すばらしい従業員に恵まれたすばらしいスーパーマーケットだよ」


「いやいや、嬉しいことを言ってくれるじゃないですか」

 その声は店長のものだった。

「神沢さん、本当にお疲れ様でした。よくやってくれました!」


「具合は大丈夫なんですか?」脳裏には青ざめた彼の顔がある。


「何のこれしき」と店長は快活に言って、右腕をぐるぐる回した。「仕事を続けられる喜びが、なににも勝る薬です。この一ヶ月生きた心地がしませんでしたが、これで娘のフランス留学の夢を叶えてやることができますし、家内に三行半みくだりはんを突き付けられずに済みそうです。そして、なにより」


 そこで彼は言葉を切り、嵐の去った店内を感慨深そうに見渡して、こう続けた。


「この職場に自分が愛着と誇りを持っていることを、改めて気付かされました。そういう意味では、今となれば、良い経験をさせてもらったと言えるかもしれませんな」


 俺は微笑みかけた。

「店長さん、僕たちはもう明日から来ることはありませんが、誇りを胸に、どうか頑張ってください」


「そうですよ、頑張ってくださいよ」と激励する高瀬の横顔には、少しだけ父親の気配がある。「そもそも西町店が大不振だから、トカイ側に付け入る隙を与えてしまったんです。前みたいな売上に戻ったら、きっとまたトカイさんは合併を急いできます。店長さん、どうにか今の調子をこれからも維持してください。やればできるんですから。お願いしますね」


 店長は薄い頭をぽりぽり掻いて苦笑した。「肝に銘じておきます」


「それでは、娘さんにもよろしくお伝え下さい」

 俺が大将への惜別の言葉を口にしていると、店内での一次会を本気で目論もくろんでいる従業員の一団が「店長」コールを叫びながらこちらへやってきて、彼をさらっていった。胴上げでも始まりそうな、めでたい雰囲気だ。


 何はともあれ、一冬を共に戦い抜いた戦友の背中に、感謝の敬礼をする。俺はもう彼と会うことはないだろう。


「神沢さん!」

 店長と入れ替わるようにして駆けてきたのは、鮫島さんだ。

「スタッフルームに、こんなものが届いていたっすよ!」


 手渡されたのは、一通の封筒だ。


 宛先には「タカセヤ西町店の無愛想な店員さん」とあった。


 どういうわけで鮫島さんがこの限られた情報から俺に宛てられた手紙だと判別したかはさておき、差出人はきっとあの人・・・だなと予想し裏を見ると、案の定、名前の代わりに蝶のスタンプがされていた。俺は忍び笑いして、中の便せんを取り出した。


 手紙は繊細な筆遣いで「拝啓」と始まった。


 拝啓


 年の瀬もいよいよ押し詰まり――なんて堅苦しいことはつまらないから書かないわよ。


 この手紙を読んでいる頃は、さぞ忙しく店内を動き回っていることでしょうね。

 いえ、忙しすぎて、仕事を終えた後かもしれない。


 きっと後者ね。

 あなたは何かに没頭すると周りのことが見えなくなりそうだもの。


 さて、私の正体に今でもまだ気付かないほどあなたは愚鈍ではないと思うけれど、礼儀として、一応自己紹介くらいはしておかないとね。


 私は漫画家の吉崎アゲハです。


 もっとも、あなたの記憶には「面倒臭いオバサン」として刻まれているでしょうけど。


 ああ、いけない。皮肉めいた言い方はやめた方がいいと、アシスタントにいつも口うるさく注意されているのを忘れていたわ。


 手紙って、本性が出ちゃうから、キライ。


 それはそうと、その節は、お世話になりました。


 吹雪の日の、あなたとあなたが恋する店員さんのご厚意が、私、本当に嬉しかったのよ。


 見た目は奇々怪々だし、足が悪いというのもあって、たいていの人は私のことを敬遠して、にべもなく扱うの。


 情をかけて接してくれるのは、決まって、私が有名漫画家「吉崎アゲハ」だと知った人ばかり。


 それが人の世というものだから悪いとは言わないけれど、なんだか悲しくはなるじゃないの。


 私の肩書きを知らぬまま、何の見返りも求めず、博愛精神で救いの手を差し伸べてくれたあなたたちに幸があればと思い、ささやかな贈り物をさせてもらいました。


 ありがた迷惑じゃないといいのだけど。


 目標の売上高に届くことを、同じ空の下で祈っています。


                     かしこ



 P.S. 男なら、いい加減あの娘に告白しちゃいなさいよ。いつまでぐずぐずしてるのよ。ほら、最高の舞台を用意してあげたわよ。




「神沢君、吉崎アゲハさんからでしょ?」とあの娘・・・が隣から手元を覗き込んできた。「ねぇ、私にも読ませて読ませて」


「だ、だめぇ! 絶対、だめ!」洒落にならない。素早く便せんを折り、封筒の中に戻す。


「なんで? 私にだって読む権利はあるはずだよ」

「ないない! そんなもん、ない! これは俺に宛てられた手紙です」


 高瀬が俺から封筒を奪い取ろうと、手を伸ばしてくる。なので後ろへ上へそれを逃がしていると、「お熱いっすね」と鮫島さんが言ってきた。俺たちは揉み合った状態で静止するしかない。


 万歳したまま俺は、鮫島さんが何かを背中に隠し持っていることに気が付き、それを指摘した。


「あはっ、ばれちゃいましたか」と言って彼が差し出したのは、一枚の色紙だった。飲食店などで飾られているのと同じくらいの、平均的なサイズの色紙だ。


「わぁ、すごい!」高瀬の感心はすぐにそちらへ移る。


 色紙には、一見してプロが書いたとわかる漫画絵が描かれていた。


 一組の男女が笑顔で何かを語らいながら、野菜を棚に陳列している光景だ。表情は希望に満ち溢れていて、一切の不安を感じさせない。彼らの背後には大きなツリーがそびえていて、左下の隅には――これが吉崎アゲハのサインなのだろう――ひとひらの蝶が舞っている。


 白黒ではあるけれど、どんなカラー写真よりも、生気に満ちた絵だ。今にも何かを喋り出しそうだから、すごい。


 高瀬はその色紙を鮫島さんから受け取った。

「このふたりって、『君と生きた12の季節』の優と希美じゃないよね?」


 俺はうなずいた。「俺と高瀬にしか、見えない」


「これは貴重っすよ」

 鮫島さんは俺たちに気兼ねするでもなく口を挟んできた。

「吉崎アゲハは、サインを頼まれても決して応じない気難しい性格で知られているっす。この人のサイン入り似顔絵なんて、滅多に手に入るもんじゃないっす!」


 俺と高瀬は顔を見合わせ、ふたりが同じ疑問を抱いていることがわかったので、揃って鮫島さんをいぶかしむ目で見た。追及は、代表して高瀬が行う。

「鮫島さん。そこまでわかっていて、どうして今までこれを隠していたんですか?」


 彼は舌を出して、後頭部を掻いた。

「あはは。ばれなければ、ネットオークションで売って、小遣い稼ぎをしようかと思ったんっす。いやほら、今日の仕事の特別手当てとしてね。……やっぱり、まずかったっすかね?」


「まずいっすよ」

 俺たちは呆れるしかない。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?