蝶々夫人はとらえどころのない不思議な人だったけれども、今にして思えば、彼女の職業が漫画家ならば
浮き世離れした服装や雰囲気は、決して主婦や会社員のそれではなかったし、風貌に似合わぬライトノベルを愛読していたのは、自身の作品と客層が近いジャンルの小説を読むことで、時代の流れや風向きをそこから学んでいたのだろうと推測が立つ。
熱い湯飲みを持つ際に、わざわざ手袋をはめていた理由も判明した。漫画家にとって手は命。もしやけどでも負ったら死活問題になる。ケアして当然だ。
自分にぶつかってきたうえ、
そして、スマートフォンをえらく嫌っていたなと思い出し、可笑しくなった。
あの日のようにバスに乗って外出するのが、おそらく蝶々夫人――売れっ子漫画家吉崎アゲハに与えられた唯一の息抜きだったのではないか。
その時間だけは、担当編集者のうるさい注文や原稿の催促から解放されるのだ。
彼女にとってスマホとは、負荷と緊張を東京から運んでくる機器に他ならず、そんな忌々しい物体を自分に近づけてきた俺は、彼女の目には悪魔に映ったかもしれない。
高瀬はこちらを見ていた。
「吉崎アゲハさん、私たちを助ける意味合いもあって、最新話でこういう展開にしたのかな」
「なるほど」俺は眉を下げた。「恩返し、というわけか」
「バスが遅れていることを教えて、椅子を貸してあげただけなのに……」
「足が不自由なあの人にとっては、心に深く染み入るものがあったんだろうな」
「言っておきますが、盛況はこんなんじゃ済まないっすよ」
鮫島さんが言う。
「最新号の週刊少年ステップが発売になったのが今日の朝っす。ネットではもうすでに、舞台となったスーパーがこの街のタカセヤ西町店であることが特定されていることでしょう。となれば、日本中のキミイキフリークたちが、この先、次から次へと押し寄せてくることが予想されます。ましてや今日は、物語の中と同じイブっすからね。閉店まで、てんやわんやの大騒ぎっす!」
「日本中……」ごくりという音が重なる。俺と高瀬が唾を呑む音だ。
高瀬は鮫島さんから週刊少年ステップを受け取ると、『キミイキ』のツリー以降のページを読み進めた。
「作戦は功を奏して、売上は目標に到達、優と希美は……ついに結ばれたんだ」
夜の街には雪が舞い、閉店後の店内でツリーを背景に二人が熱い口付けを交わす。そんな甘いシーンで、今回の話は終わっていた。
物語全体を通しても、このツリーが二人の恋を語るうえで重要な役割を果たしたのは間違いなく、ファンならば、モデルとなった実物のツリーを一目見たいと思っても不思議はないように思えた。
「ひょっとすると、ひょっとするかも」
高瀬の瞳はきらめく。
「ああ」
今こうしている間にも、入り口の自動ドアを続々通過してくる人々がありがたい存在に思える。
「あの一人一人が、俺たちにとってはサンタクロースだ」
見れば、店長は武者震いしていた。
「“セイチジュンレイ”と言われても私にはなんのことやらさっぱりわかりませんが、一歩この店内に足を踏み入れた方は、老若男女、大切なお客様に違いありません。それだけは確かです。初心に返って心よりもてなしますよ!」
そこで小太りの店員が慌てて近寄ってきた。
「店長! 大変です!」
「どうした!?」
「レジの順番が回ってくるのが遅すぎると、ついにお客さんの中から苦情が出始めました! とてもではないですが、今の体制ではすべての会計を処理しきれません!」
8つあるレジのうち、機能しているのはわずか半分、4つのみだ。昼間の時間帯ならば、いつもはそれで充分に事足りていたのだ。しかしこの時においては、いずれのレジにも、人気ラーメン屋みたいな長蛇の列ができている。
「くそっ」店長は舌を鳴らす。「今日非番のパートさんを、今から呼び出せないか?」
「難しいと思いますよ」と小太りの店員は言いにくそうに言った。「主婦の方が多いですし、みなさんクリスマスを家族と一緒に過ごしたくて、今日を休みにしているはずですから」
「なにがクリスマスだ」恩を仇で返すようなことを口走ってから店長は、こう続けた。「ええい、もうこうなったら仕方がない! 今日に限っては時給を3倍出す! それでもダメなら5倍だ! とにかく手当たり次第連絡を取ってみて、一人でも多く呼び出すんだ! 行け!」
「わ、わかりましたっ!」
小太りの店員が店の奥に消えると、今度は入り口から別の店員が駆け寄ってきた。
「店長、大変なんです!」
「今度はなんだ!?」
「駐車場が満杯で、もうこれ以上車を
「次は外かっ! いったいどうしたらいいんだ!」
「隣のホームセンターの駐車場を今日だけ特別に使わせてもらえないでしょうか?」と俺は言った。「みすみすお客様を帰すことだけは、なんとしても避けなければ」
店長ははっとして窓の外に目をやった。
「確かに、お隣はそれほど混んでいないようですな」
「僕が行って、頼み込んできます」
土下座をして、相手方の靴を舐めたっていいくらいだ。
「事情を説明すれば、きっとわかってもらえるはずです」
一歩踏み出した俺を制したのは、店長のくたびれた手だった。
「ここは、顔が利く私が行きましょう! なんだか、心も体も燃えてきました! 私だってね、商売人のはしくれなんですよ! こんな熱い気持ちになれたのは、30年働いてきて初めてです。神沢さんっ!」
彼はそこで言葉を切って、上着の内ポケットに手を伸ばし、何かを取り出した。それは、朝に真剣な顔つきで書いていた辞表だった。
「お渡しします。こんな縁起の悪いモノ、破り捨てておいてください!」
「わかりました」と俺は請け合った。
店長は息を大きく吸い込んで、何かを訴える準備をした。視線は、周囲にいる全店員に向けられる。「いいか、みんな!」と始まった。
「これは一世一代の店長命令だ! お客様を一人たりとも帰すな! 絶対に帰すな! タカセヤの未来がこの一日に懸かっている!
店長の魂の呼びかけに、心が猛らないわけがなかった。
「それでは行ってきます。神沢さん、私がいない間、店内は頼みましたよ!」
店長は多くの未来を背負って雪の中へと消えていく。
M字型脱毛と痛風と高血圧に悩む中年男の背中でも、輝いて見えることがあるのを、俺はこの時初めて知った。
<PM15:30(閉店まで5時間半) タカセヤ西町店 日配品売り場>
市のローカルテレビ局から生中継の取材依頼が舞い込んできたのは、8台目のレジが稼働しはじめた直後のことだった。
夕方の情報番組で、このただならぬ盛況ぶりを緊急中継したいのだという。
こちらとしては、その申入れを断る理由を探す方が難しかった。前回の放送で、テレビの持つ発信力の大きさは誰もが痛感している。
俺は日配品売り場で黙々と働いている黒髪美人の背中に「高瀬、サンタクロースになって」と声をかけた。
「はい?」
「テレビが来るから。生放送だ」
「ちょ、ちょっと待って神沢君」高瀬は目をぱちぱちさせる。「え、総合すると、サンタクロースの格好をした私がテレビの取材に応じるってこと?」
「頭の回転が速い。さすが高瀬だ」
「店長さんじゃ、だめなの?」
「だめだ。あの人はカメラを前にすると、意識し過ぎて途端に喋れなくなる」
「私だって緊張しちゃって、うまく喋れないかもしれないよ?」
「テレビに映るのが同じ
「それはつまり、私に客寄せパンダになれってこと?」
「客寄せサンタだ」と俺は罪悪感を覚えつつ言った。「隣のホームセンターに、女性サンタのコスチューム一式が売っていたよな。経費で落ちるから、買って着替えてきてよ」
「あれかぁ」高瀬は気が進まない様子だ。やがて「脚の特に太ももの部分の露出が多いんだよなぁ」と漏らし、あろうことか俺を冷ややかな目で見てきた。
「おい、なんか勘違いしてるんじゃないか? 俺が高瀬のサンタ姿を見たいがために提案したんじゃないぞ。あくまで売上のためだ」
「神沢君、私のサンタ姿に興味ないんだ?」
「もう、どう答えりゃ納得してくれるんだよ」
本音を言えば、高校の制服とは見え方がひと味違うはずのお
俺が困惑していると、「はいはい、わかりましたよー」と高瀬はやや意地悪な笑みを浮かべて了承した。「敏腕スーパーバイザーさんの言うことですもんね。やれることは全部やって、一円でも多く売り上げましょうね」
高瀬がサンタクロースに変身している間、俺は用具室から脚立を次々運んできては、ツリーのそばに設置していた。
手が届きやすい樹の低い部分が、結び付けられたレシートでいっぱいになりかけていたのだ。高さ10メートルのツリーは、まだまだ多くの願いを受け付けられる。
ついでに、付近に店員を一人常駐させることにした。混乱や事故を防ぐためだ。
鮮魚部に無理を言って、あの鮫島さんを引き抜いてきた。自身も熱狂的な『キミイキ』ファンで、この巡礼の意味合いを熟知している彼は、聖地の守り人としては最適な人材に思えた。
俺が去り際、ちょうど願いを終えた一組のカップルが「これから僕たち、市役所に婚姻届を出しに行くんです」と照れながら宣言し、周辺からは祝福の拍手が巻き起こった。指笛を鳴らす人もいたりして、今自分がスーパーマーケットにいることを一瞬忘れそうになった。
末永くお幸せに、と俺は心でつぶやいた。数時間前では、考えられない台詞だ。