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第32話 思わぬかたちでサンタクロースは現れる 4


 クリスマスイブに至る12月第3週は、無情なほど早く過ぎ去っていった。気がつけば夜で、気がつけば朝だった。


 俺と高瀬はこの間、タカセヤ西町店の売上を一円でも増やすべく、有効だと思われる手段を片っ端から実行していった。


 近場のライバル店のチラシを調べて後出しじゃんけん的に他店の広告の品を地域最安値で提供したり、この街についての情報が集まるインターネットの掲示板にタカセヤ西町店を絶賛するコメントを書き込んだり(「社員乙」と呆気なく見破られたが)、親しみやすさをアピールするため二人してトナカイの着ぐるみを着て駐車場の雪かきにあたったりした。


 幸運なこともあった。市のローカルテレビ局が取材に来たのだ。


 この時期は例年クリスマス商戦を取材するため、よく市内のスーパーにうかがうんです、と先方は言った。


 レポーターに応対したのが、口下手で気の利いたコメントのひとつも言えない店長だったのが悔やまれるところだが、趣味の海釣りに行く時間と多くの頭髪を犠牲にして30年間スーパー一筋で働いてきたおっちゃんに弁才を求めるのはお門違いというものだった。


 放送の反響は大きく、番組終了後ほどなくして駐車場がすべて埋まってしまう事態となった。以降、例の“恋の神様が宿るツリー”効果も相まって、客足は堅調に伸びている。


 そのようにして迎えた12月22日、高瀬の16度目の誕生日でもあるこの日、仕事を終えた俺と高瀬は店内のスタッフルームでささやかな誕生会を開いていた。


「ごめんな、プレゼントを買う時間が本当に無くて」俺はそう言って、あらかじめ惣菜売り場で買っておいた寿司をテーブルに並べた。「こいつで我慢してくれ」


「お寿司で充分」と高瀬はテーブルの向こうで言った。「神沢君が忙しかったのは、私が誰よりわかっているから。それに、プレゼントどころじゃないしね」


 プレゼントどころじゃない。まさにその通りだった。


 結論から言ってしまおう。


 売上20%増を達成するのは、かなり絶望的な情勢となっている。


 今日の速報値によると、上昇率は13%だ。明日、あさってとまだ2日間の営業日を残しているとはいえ、これまで約20日かけて13%アップがやっとなのだ。どうしたらあとわずか2日で7%も上げられるだろう?


「最後まで諦めずにがんばろう。この前のテレビ取材みたいに、どんな幸運が舞い込むかわからないから」

 高瀬に言っているようで、実は自分を励ましている。


「そうだね」高瀬はぎこちなく微笑むと「さ、食べよう」と明るく振る舞い、寿司のパッケージを開けた。


 俺は少し迷ってから、目を引くサーモンに箸を伸ばした。


「神沢君はよくがんばったよ」

 高瀬は脂が乗ったまぐろを優雅に頬張る。

「売上げ13%増だって簡単なことじゃないもの。しっかりスーパーバイザーさんの役割を果たしてくれたよね」


「20%に満たなきゃ、役割を果たしたとは言えないよ」

 極言きょくげんすれば、1%も19%も同じことなのだ。完敗も惜敗も負けは負けだ。


「きのう、月島さんと電話で話したんだけど」とやがて高瀬は切り出した。

「へぇ。どっちから電話を掛けたの?」


「向こうから」と高瀬は言った。

「で、月島、何だって?」


「『高瀬さんは私のこと嫌いかもしれないけど、私は高瀬さんのことそんなに嫌いじゃないよ』っていきなり始まって」

「あいつに間接的な物言いをする能力は備わってないから」


 月島の先制攻撃に面食らう高瀬を想像すると、可笑おかしくなる。「それで?」


「うん。月島さん、今私が置かれている状況を把握していたみたいで」

「ごめん。俺が話したんだ。何か良いアイデアを拝借できないかと思って」


「そうなんだ」と高瀬は言った。「私、月島さんに応援されちゃってさ。『高瀬さん。私ね、この街の良いところ、いまだに一つも見つけられてないんだよ。今回のピンチを無事に乗り越えられたら、高瀬さんオススメの場所に一緒に遊びに行こうよ』だって。これって、私に対する周到な罠じゃないよね?」


「安心していいと思うよ」と俺は答えた。高瀬が今鳥海家に入ることで困るのは、月島も同じだ。奇妙な話だが、俺と高瀬と月島の利害が一致しているのがこの12月だった。「月島はめちゃくちゃなところもあるけど、決して悪い奴じゃないから」


「本当そうだよね」と高瀬は同意した。「良い子だよ、月島さん。神沢君が少しでも自由に動けるように、居酒屋のアルバイトも代理で行ってるんでしょ? その判断力と行動力に私なんか感心しちゃうもん」


「おかげで助かってる。あいつがバイトを代わってくれたことで、どれだけ体と心が楽になったか」


「月島さん、電話で言ってたよ。私と晴香をどっちも真剣に救おうとしている神沢君の姿を見て、惚れ直したって」


「そ、そう」浮かれるわけにもいかず、曖昧な相づちを打つ。


「普段は世の中の事件やトラブルには我関せずで澄ました顔をしている神沢君なのに、近くにいる人のピンチとなったら、理論も効率も関係なしに解決を目指して突き進む。そういうところがいいんだよって」


「へ、へぇ」はしゃぐわけにもいかず、適当な相づちを打つ。


「とにかく、きのうの夜はそんな風に月島さんといろんな話をしたよ。夜中の一時過ぎまで。でも最終的には元気になれたな」


「元気になれた?」

 今の危機的状況を考えれば、それはにわかには信じがたい言葉だった。

「なあ高瀬。元気になれたなんて、月島と他にいったいどんな話をしたんだ?」


 それを聞くと高瀬は少し眉を寄せてこう忠告してきた。

「神沢君。女の子同士のトーク内容をむやみに詮索するのは、あんまり褒められたことじゃないよ」


 ♯ ♯ ♯


「聞いてほしいことがあるんだ」と高瀬が言ったのは、あらかた寿司を食べ終わった時のことだった。「明日から冬休みでしょ。あさっての最終結果で売上が20%増えていないと、私はもう高校に行くことはなくて。もちろん神沢君とも会えなくなっちゃう。だから、今のうちに話しておきたいの」


 俺は黙ってうなずいた。


「約束のことは、仕方ないから」彼女は痛々しく微笑んだ。「私を大学に行かせるっていうあの約束、守れなかったとしても、神沢君は自分を責めないで」


「なに言ってるんだよ」


「だってトカイさんとの合併は、高校卒業後っていう話だったわけだから。それが二年も前倒しになるなんて、誰にも想像できなかったし、言ってみれば反則だもん。……はじめから、私には大学なんて無理だったんだよ」


「高瀬、やめろ」


「そもそも私が受け入れた結婚なんだもの。責任は取らなきゃ。それに悪いことばかりでもないし。私が鳥海家に入ることでタカセヤとトカイが合併して、ひいてはそれがこの街のためになるのなら、私は本望だよ」


 未来が閉ざされた前提の独白は続く。


「春に私、『未来を変えたいの』って言って神沢君と葉山君に近付いたでしょ? それは正解だったと思ってる。少なくとも一年は充実した毎日に変えられたから。神沢君たちのおかげだよ。ありがとう」


 高瀬の言葉はひとつとして心に響かなかった。それもそのはずだ。今俺が聞くべきなのは、こんな風に洗浄された言葉じゃない。


 泥や垢、あるいは血や汗がたっぷり付着した、生きた言葉だ。


「高瀬さ」と俺は彼女の目を見て言った。「いい加減にしろよ」


「え?」


「一度くらい、政略結婚に対する高瀬の本心を聞かせてくれよ! いったい誰の目を気にしているんだよ。この期に及んで、優等生である必要なんか無いだろう?」


 高瀬の視線は右に左に揺れ、それから動力が尽きたみたいに、落ちた。


「世界で俺だけは、黒い高瀬を受け止められる存在だと思っていたんだけどな」


 それを聞いた高瀬は「どうなっても知らないからね」とうつむいたまま言った。


 数秒後、顔を上げた彼女の瞳には、不健全で不純な光が満ちていた。


「ふざけるなっ! いい歳した大人たちが大勢集まって解決できなかった問題を、私みたいな高校一年生の女に押し付けて、なにが『これで100年安泰』だっ! 何が『平和的前進』だっ! 馬鹿じゃないの!? 情けなくないの!? 恥を知れっ! 


 タカセヤもトカイも、元はと言えば、普段から緊張感を持って経営努力をしてこなかったから便利な大型店舗にお客さんを奪われたんじゃないっ! 偉そうな顔した大人たちが時代の流れを読み間違えたツケを、どうして私一人が払わなきゃいけないのよ! 何回だって言ってやるっ! ふざけるなっ!」


 全身が微かに震え始めていた。ようやく、俺はようやく、高瀬の偽りなき心の声を耳にすることができている。


 彼女の胸で一度燃え盛った炎は、そう簡単に消えはしないだろう。かまわない。それでいい。この際、胸につかえている邪魔な朽ち木はすべて燃やし尽くしてしまえばいい。


「そもそも!」と彼女は息も絶え絶えに続けた。「『両社の合併のために互いのトップの結婚が必要』って、なに? どういうこと? もう意味不明! 今は21世紀でしょ? 時代錯誤もいいところ! いくら両社の仲が悪いからって、人質を取るような真似はやめろ! 良識ある大人なら、話し合いで何とかしろよっ! 


 私には、やらなきゃいけないことがまだまだたくさんあるんだ。私はもっと多くのことを学ぶべきだし、もっと世界を知るべきだし、もっとみんなと遊ぶべきだし、もっと素敵な恋をするべきなんだ。こんなところで立ち止まるわけにはいかないんだっ! 


 小説を応募してどこまで評価を受けるか、その腕試しだってまだなのに! 新しい挑戦をすごく楽しみにしていたのにっ!」


 華奢な肩は激しく上下し、口からは狂気を含んだ息が吐き出される。それでも俺は彼女を止めない。


「結婚相手が素敵な人だったなら、まだいい!」と高瀬はまくし立てた。「でも、そうじゃない。全然そうじゃないっ! 私は相手の鳥海慶一郎とかいけいいちろうっていう男が、大っ嫌いだ。虚栄心と自己顕示欲のかたまりで、会うたび人の話は聞かないで『僕はすごいんだ』アピールの連続だし、私たちはこの街の市民に支えられている立場なのに、平気で市民を馬鹿にした発言はするし、三浪してようやく四流大学に入ったくせして、自分が世界で一番頭が良い人間だと本気で思い込んでいるし! 本っ当、最低! 気持ち悪い! 死ねばいいのに!」


 息継ぎ。


「きっと、体にだけじゃなく、心にも無駄な贅肉ぜいにくがこびり付いているに違いない! そう、心が汚いんだ、あの人は! 断言したっていい。あんな男を好きになる女は、地球を三周回って探したって見つかるはずがない! だいたい私は、私の話をきちんと聞いてくれる男の人が好きなんだっ! 私が好きなのは――」


 そこで高瀬ははっとしていつもみたいに髪を耳にかけた。”黒の時間”は終わったらしい。


「これまでの人生で使ったことのない言葉を、いくつも使っちゃった。神沢君、大丈夫?」

「大丈夫、とは?」


「ほら、これが高瀬優里の本性か、とか、裏表が激しいんだな、とか、恐い女だな、とか、そんな風に幻滅しなかった?」


「するわけないだろ」と俺は正直に言った。「き付けたのは俺なんだから」

「それなら良かった」


 沈黙が下りた。重い静寂の中、結局、と俺は考えずにはいられなかった。


 結局、高瀬のことを一年近く好きでいたけど抱き合う日は来なかったな、と。


 それどころか口付けを交わすことすら叶わなかった。


 世界中のたいていの初恋がそうであるように、俺の初恋も相手の体温を知ることがないまま終わってしまうのだ。


 いや、そんなことはない、とすぐに考え直した。


 俺は彼女の温もりを知っている。思えばこの一年、手だけはよくつないだ。


 どちらかが弱っている時、もしくは窮地に陥った時、俺たちは相手の手を取り、なだめ、励まし、共に困難を乗り越えてきた。


 俺と高瀬が手をつなげば、負け知らずだった。


 ここまで追い詰められたら、その儀式をするしかないようだ。


 俺は立ち上がってテーブルを回り込み、高瀬の隣に腰を下ろした。そして彼女の手に自分の手をそっと重ねた。

「高瀬。言い忘れていた。16歳の誕生日、おめでとう」


 手の甲が涙で濡れるまで、そう時間はかからなかった。


 12月23日が無風のうちに過ぎ去り、“奇跡”という言葉をもう一生使わないと誓いかけた12月24日、暗い顔をした俺たちの前に、思わぬかたちでサンタクロースは現れることになる。



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