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第32話 思わぬかたちでサンタクロースは現れる 3


「俺たちが行くことになるのは、富山県の南砺なんと市というところだ。俺たちの親はそこにいる」


 俺は学校のパソコンからプリントアウトしてきた資料に目を落としながら、柏木に旅の概要を説明していた。


 夕食を終えた病院は恐ろしく静かだ。12月24日タイムリミットまでついに一週間を切っている日の夜である。


「なんと」とベッドの柏木は驚きの表情で言った。それから包帯の巻かれた足をさすった。「なんだか面倒くさいなぁ。富山、わたしも行かなきゃダメ?」


「記憶を失ったおまえにこう言うのは意地悪かもしれないけど」と俺は言った。「俺に富山に行く手筈てはずを整えるよう命じたのは、他でもなく、柏木だからな。だからこうしていろいろ調べては、準備を進めているんじゃないか。それに記憶を取り戻すための鍵は、富山にいるおまえの親父が握っているとしか思えない。やはり、足が治ったら行くべきだよ」


「ナントに?」


「南砺に」と俺はアクセントを修正した。柏木式の発音では、俺たちはアンリ4世ゆかりの地へ飛ぶことになってしまう。


「温泉とかあれば、少しは行く気になるんだけどな。南砺には温泉あるの?」


 俺は資料の中から南砺市一帯の地図を見つけた。そこには温泉を示す地図記号がいくつも確認できる。

「ああ、たくさんあるみたいだ」


「美味しいものは?」 

「そりゃあ富山にも旨いものはいっぱいあるだろう。山あり海あり平野ありの県だから。でもな、言っておくけど、観光するつもりはないぞ。あくまでも目的はそれぞれの親に会って話をすることなんだから」


「いやだ。温泉とごちそうが無いなら、わたし行かない」


 一瞬ではあるが、柏木が記憶を失っていることを忘れそうになる。入院生活を送る彼女をさんざん甘やかしてきた自分を恨んでいると、今度はあらたまった声を耳が拾った。


「本当はね、お父さんに会いたくないんだ」


「そうだったのか」と俺は返した。そして心で同情した。それもそのはずか、と。


 これは俺の推測になるけれども、過去4年分の記憶がない柏木にとって、父の失踪、母の自殺は決して遠い過去の話ではないのだ。つい一ヶ月前の出来事のように思えているかもしれない。そんな状態で心の整理がついていないのは、当然のことだった。

「そこまで気が回らなくて、悪かった」


 柏木は小さく手を振った。

「実際に会ったら、わたし、お父さんに何しちゃうかわからないし」


「ちなみに、記憶を失う前のおまえは、『殴りに行く』と腕まくりして言っていたんだぞ」

「わたし、ストレートな子だったんだね」


「ああ。そんな柏木晴香がみんな好きだったんだよ」


 ♯ ♯ ♯


「クリスマスなんか来なきゃいいのに」と柏木がつぶやいたのは、それから20分ほどが経過してからのことだ。


「どうしてだ?」と俺は尋ねた。

「いやでも考えちゃうから。両親のこと」


「なにか思い出があるのか?」

「悠介くん、わたしのお母さんとお父さんの仲が悪かったっていうのは、知ってるんだっけ?」


「家では会話すら無かった、と前に聞いたよ」


 柏木はうなずいた。そして「そんな家庭環境に嫌気が差したんだろうね」と続けた。「小さい時に、わたし、両親に言ったらしくて。『クリスマスくらいみんなで仲良くしようよ』って。お正月でも誕生日でもなく、クリスマスっていうのが子どもらしいよね」


「たしかに」そのうえ、女の子らしい。「それで?」


「うん。それ以降、クリスマスイブの夜だけは、家族三人揃ってパーティをするのが毎年の恒例になったんだ。壁飾り、ツリー、大きなチキン。ワインにシャンパンにケーキ。ケーキはお父さん手作りのすごくおいしいやつ。そして笑顔のお母さん、お父さん。一年に一度だけの幸せな時間。わたしにとっては最高のクリスマスプレゼント」


「12月24日は、両親の仲が良かったんだ?」


「明らかに無理してたけどね」と柏木は笑いながら言った。「仕方ないよ。年に364日は口をきかない夫婦が、都合良く1日だけ気持ちが通じ合うわけがないもん。でも、わたしはそれでも嬉しかった。たとえ見せかけではあっても、あの日だけは確かにわたしたちは家族だった」


「クリスマスイブはおまえにとって特別な日だったんだな」


 俺はそう声を掛けた。他意は無いつもりだったが、それを聞いた彼女のあどけない横顔からは、笑みがはたと消えてしまった。


「今年からは特別じゃないんだ」柏木は視線を落とす。「お母さん、死んじゃったんだよね。もう、会えないんだよね……」


 しばし沈黙があった。


「わたし、お父さんと約束をしていたの」と彼女は言った。

「約束?」


「今度のクリスマスは、お父さんとわたしで一緒にケーキを作ろうっていう約束。わたしも料理を覚えたかったから、お願いしてみたの。そしたらお父さん、『いいぞ』って言ってくれたんだよ。『晴香が良い子でいてくれたらな』って。それなのに……」


 柏木はそこで言葉に詰まり、こちらに顔を向けてきた。彼女は泣いていた。彼女の泣き顔を見るのはこれが初めてだった。


「わたしが悪かったのかな? しつこく『家族で仲良くして』ってせがんだのが邪魔くさかったのかな? だからお父さん、家を出ちゃったのかな? わたしがうるさくなければ、お母さん、死なずに済んだんじゃないかな?」


「おまえは何も悪くない」と俺はなだめるように言った。「子が両親の仲を案じるのは当然のことじゃないか。誰も責めたりなんかしない。おまえは柏木家をなんとか幸せな一家にしようと、幼いながらに必死にがんばってきたんだ。おまえは良い子だった。偉い子だった。責められるべきは、約束を破ったおまえの父親だ」


 あるいは俺の母親だ、と心で詫びていた。


 柏木は一分ほど黙りこくった後で「記憶を取り戻さなきゃだめかな?」と弱々しく言った。


「どうして、そう思うんだ?」


「今でさえ辛いのに、これ以上悲しい記憶が戻ってきたら、わたしもう立ち直れないんじゃないかなって考えちゃって」


「そんなことはないと思うぞ」俺は声に力を込める。「確かに以前の柏木は、深い悲しみをその背中に背負っていた。本人は隠していたが、少なくとも俺はそれに感づいていた。でもな、それでもおまえはしっかり前を向いて生きていたんだよ」


「そう……なの?」

「ああ。おまえの望んでいた未来はなんだったと思う?」


 もちろん、今の彼女にわかるわけがない。


「世界で一番幸せな家族を築くことだ」と俺は伝えた。「はじめは俺も何を言ってるんだと思ったよ。でも今ならばわかる気がする。本当に仲の良い家族に囲まれて生きる日々にこそ、柏木の幸せはあるんだろう。春の時点で、おまえは自分のことをよくわかっていたんだよ」


「幸せな家族……」

 柏木は記憶を辿るようにつぶやいた。しかしやはり思い出すことはできないようで、首を傾げ、少し恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。


 俺は言った。「悲しみを背負った上で自分が幸せになれる生き方を、柏木はようやく見つけたんだよ。だから、記憶を取り戻さなきゃいけないんだ。おまえが将来、幸せになるために」


 柏木はぐすんと鼻を鳴らし、手の甲を浮かせた。「悠介くん。唾、飛んでる」


「あっ」慌ててティッシュで彼女の手を拭く。「すまん、つい熱くなって」


「いいけど」口元をほころばせ、柏木は続けた。「そっか。わたし、ちゃんとした4年間を過ごせていたんだね。感心感心。ちょっと弱気になってたみたい」


 なんとか気を持ち直してくれたようで、俺はほっと安堵した。


「それじゃあ富山に行かなきゃね。記憶を取り戻すために。幸せのために。過去は消えないけれど、未来は創り出せるもんね」


「親父さんを殴るつもりなのか?」

「殴っても許されるよね」


 そう言って笑み交じりに右ストレートのシャドーを始めた少女を見つめながら俺は、柏木恭一よ、と遠い空の下にいる彼女の父親に対し、届くことのないメッセージを送っていた。


 柏木恭一よ、あんたは、俺の母親が心底惚れるような男だから、さぞ魅力的な人間なんだろう。そして魅力的な男なんだろう。でもな、あんたは、親としては最低だ。


 子との約束を破っちまう親は最低なんだぜ。わかるか、柏木恭一?


 俺はあんたを許しはしない。決して許しはしない。他の誰が許しても。


 待ってろよ――。

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