「あれ?」
高瀬が何かに気付いたのは、ポップ広告の張り替えが終わり、一緒に店の入り口付近を歩いている時だった。
「神沢君、見て、外」
窓へ目をやる。依然として街は激しい降雪の中にあり、風はだいぶ弱まってきたとはいえ、予断を許さない状況は続いていた。
「相変わらずの大雪だけど、それがどうしたの?」
「そうじゃなくて」
高瀬は駐車場のさらに向こう側、道路にほど近いバス停を指していた。
「ベンチに座っているの、さっきのおばさんだよね。ほら、小松菜の」
言われてみればたしかに、黒い人影が雪の中にぽつんと佇んでいるのが見える。時折足をさすっているから、蝶々夫人と考えて間違いなさそうだ。
「おばさん、バスを待ってるんだよね、きっと」
「そうだろうな」
「吹雪なんだから、お店の中で待っていればいいのに」
「足が不自由だから、バスが見えてから店内を出ては、間に合わないと考えたんだろう」
そこまで推測したところで、バスの運行状況を思い出し、「間に合うも何も」と早口になった。「まさかこの雪のせいでバスが遅れていることを、知らないのか?」
高瀬ははっとした。「知らないんだ!」
俺は時計を確認する。「まだ40分以上はあるぞ、バスが来るまで」
「どうしよう、教えてあげなきゃ!」
俺はうなずいた。「バス停のベンチまで行こう!」
♯ ♯ ♯
フードコートでは柄の悪そうな高校生たちがたむろしていたので、蝶々夫人には応接室で座ってバスを待ってもらうことにした。足が悪いから、立たせたままにはしておけない。
高瀬はフロアでまだ仕事があるので、俺が応対にあたっていた。
「助かったわ。おかげさまで足も楽よ」と蝶々夫人は言って、俺が入れた茶をすすった。わざわざ手袋をはめ、湯飲みを持っている。熱いものを触るのが苦手なのか、それとも潔癖症なのかはわからないが、珍妙な光景だ。
「私みたいな市民には、この街じゃバスしか移動手段がないから。車の運転もできないし」
俺はふと思い付き、スマホのアプリを彼女に見せてみた。
「便利ですよ。こうしてバスの運行状況がわかるので。今日のような日は、特に」
「私、スマートフォンってキライなの」と蝶々夫人は端末から目を背けて言った。「何が悲しくて外出する時まで電話を持ち歩かなきゃいけないのよ。お買い物くらい、誰にも束縛されることなくゆっくり楽しみたいわ」
「はぁ」俺はすぐにスマホをしまい、話題を変えることにした。「あの、当店をよく利用していただいているようですね」
「ええ」
「もしよろしければ、当店の良いところを教えていただけませんか?」
お客さんの生の声を聞くことで、何か参考になるところがあればと期待したのだが、「いつ来ても
「そうですか」
「でも最近は、なんだかお客さんが増えてきたわよね」と蝶々夫人は俺を励ますように言った。「そういえば、あなたとあの可愛い女の子を見かけるようになってから、店が変わってきた気がするのだけど。これ、偶然?」
「実は僕ら二人が売上を向上させるために、いろいろ動き回っているんです」
「若いのに偉いのねぇ。てっきり、高校生かと思っていたわ」
「僕らは高校生ですよ」と俺は正直に告白した。
「えぇ? どうして高校生がスーパーマーケットで働いているのよ。それも店の売上を任される重要な立場で。常識じゃ考えられないわ」
この世界の常識がきちんと通用する常識的な日々の訪れを、誰よりも俺が願ってるのだが。
彼女は言う。「おばさん、興味が湧いてきちゃった。そうなったいきさつを話してくれないかしら」
話してみてもいいかなと俺は思った。現状ではノルマの売上20%達成は厳しい。何が突破口になるかわからない。
「実はですね――」
* * *
「事実は小説より奇なり、ね」と蝶々夫人は言った。「売上が伸びないと、あの利発なお嬢さんとお別れしなきゃいけないんだ」
「そうなんです」と俺は言った。「ですから、お客さんが増えてきても、当店を利用してくださいね。人助けだと思って」
「あなたはあの子のことが好きなのね?」
「好きですよ。春からずっと」
茶を飲み、喉を潤す。赤の他人に何を打ち明けているのだ、俺は。
それからは、例の巨大クリスマスツリーの話題になった。
蝶々夫人は言った。
「幸せそうな恋人たちが次々に押し掛けてくるから、あなたも辛いでしょう?」
「嫌でも目に入りますからね」と俺は苦笑いして返した。「ツリーに宿っているのが恋の神様ではなく、商売繁盛の神様なら良かったんですが」
「まぁでもなかなか面白いわよね。スーパーにあるツリーが恋仲を持続させるなんて」
そこでドアのノック音がした。現れたのは高瀬だった。和菓子をいくつか手に持っている。
「もしよかったら、一緒に食べませんか?」
“才色兼備”の御礼はなおも続くようだ。彼女は俺の隣に腰掛け、中央のテーブルに菓子を置いた。
「お言葉に甘えて、ひとついただこうかしら」
蝶々夫人がもみじ
俺はどら焼きを手に取ると、高瀬にも茶を入れてあげた。
ちょっとしたハプニングが起きたのは、三人でティータイムを過ごして5分が経った頃だった。蝶々夫人が隣の椅子に置いていたバッグが何かのはずみで倒れ、中身が床に落下してしまったのだ。
目に留まったのは、長財布でもハンカチでもなく一冊の文庫本だった。
金髪でツインテールの美少女が表紙に描かれている。いわゆるライトノベルというやつだ。どう考えても蝶々夫人らしからぬ所有物だ。
俺は席を立ち、落ちたものを拾い始めた。高瀬も手伝う。彼女はやはり文庫本を手に取り、自宅の庭で隕石の破片を見つけた天文学者みたいな顔で言った。「こういうの、よく読まれるんですか?」
「ええ」
蝶々夫人は、それが当然の
「趣味で創作をしているの。勉強のためにいろんなジャンルの作品を読むのよ」
「意外です」と高瀬は言った。右に同じ。「実は私も最近になって、小説を書き始めたところなんですよ」
それを聞いて俺は、観覧車のゴンドラに閉じ込められた秋の夜を思い出していた。
小説を書いて新人賞に応募するつもりなのだと高瀬が表明したのが、その夜、上空40メートルでの出来事だった。副賞の賞金で俺の大学資金をまかなう気なのだ。
「賢い店員さんは、果たしてどんな物語を書くのかしら?」
高瀬は文庫本を夫人に手渡し、「それが……」と言い淀んだ。「アイデアはいくつも浮かぶんですが、いざ書き始めるとすぐに筆が止まっちゃって。創作って難しいですね」
「わかるわ、それ」
床に散ったものを拾い終えた俺たちは席に戻った。高瀬だけはすぐに椅子の上で身を乗り出す。
「面白い物語になりそうな、何か良い題材は無いでしょうか?」
「それは私が聞きたいくらいよ。創作にたずさわる人の、永遠の命題じゃないかしら」
「ですよねぇ」高瀬は苦笑する。
「そんなに悩まなくても、あなたは、もうすでに良い題材を得ていると思うのだけど」
「えっ? どういうことですか?」
「そこの彼に聞いたわ。二人は高校生で、お互いの未来のためにこのスーパーで働いているんですってねぇ。なかなか出来ない貴重な体験よ。思い切ってその実体験を題材にして書いてみたら? 年の瀬のスーパーマーケットで繰り広げられる、未来を誓い合った若い二人のラブストーリー。いいわ! 素敵じゃない!」
「ちょ、ちょっと!」
慌てる俺を尻目に蝶々夫人は立て板に水で話し続ける。
「多少の脚色は必要でしょうね。二人は互いに惹かれ合っていて、同じ未来を願っているけど、どっちも奥手なものだからその想いを伝えられないの。そしてついにやってきた12月24日、クリスマスイブ。それまでは他のカップルの願いを叶えてきた街で一番大きなあのツリーが、この日だけは二人の願いを叶えてくれる。ほらほらほら、ドラマティックじゃないの」
「ツリーが、どう二人の願いを叶えるんでしょう?」高瀬は興味津々だ。
「そこなのよねぇ」蝶々夫人は頬に手を当ててしばらく考え、それから思いも寄らないことを口にした。「この物語のアイデア、私がもらってもいいかしら?」
「えぇ!?」俺と高瀬の声が重なった。
「お願い。ね、この通り」
蝶々夫人は両手を合わせ、若い俺たちに懇願する。
「残った時間で代案を一緒に考えてあげるから。ほら、お嬢さん。他に面白い展開になりそうなアイデアは無いの?」
結局、バスが到着するまで、高瀬は蝶々夫人と創作談義を交わすことになった。
この店の売上が伸びなければ自身の未来が閉ざされる今の苦境にあっては、小説どころではないと思うのだが、それでもその話をする彼女の瞳は輝いていて、それが俺を強く勇気づけた。
高瀬は春の訪れを、未来を、諦めてはいない。