高瀬のために時間を使えないもどかしさを決して表に出さぬよう、病室では俺なりに明るく振る舞っているつもりだったけれども、ベッドの上の柏木は明るさの裏にある焦燥感を見抜き、こともあろうに俺を気遣ってきた。
「悠介くん、ワガママ言ってごめんね。優里ちゃんと一緒にいたいよね」と。
それに対し俺は、ぎこちない作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。心身共に疲れ切って、「何言ってるんだよ」と取り繕う余裕さえ失っていたのだ。
その結果、強烈な自己嫌悪に陥りながら、俺は家路についている。
9時を過ぎた夜の街には、冬特有の冴え冴えと澄み切った空気が隙間なく敷き詰められていた。
病院を出たあたりから、やけに喉の奥が|いがいが(・・・・)して不快だ。どうやら風邪をひいてしまったらしい。
もし熱でも出して倒れたら、「だから言ったじゃない」と高瀬に渋い顔をさせてしまうから、今夜は温かくして早めに眠ってしまおうと決めた。
しかしその決定は早々に覆されることとなった。自宅の軒先で、きれいに整えられたショートヘアが俺の目に飛び込んできたのだ。
「待ってましたぞー」
芝居がかった声を投げてきたのは、洗練されたピーコートに身を包んだ月島だ。彼女はいつだってオシャレだ。何があってもオシャレだ。オシャレではない月島涼はもはや俺の知っている月島涼ではない。
「夕飯、どうせまだなんでしょ」
白い息が言葉と共に吐き出される。見れば彼女は両手に買い物袋をぶら
「まだだけど」夕方にフードコートで今川焼きをひとつ食べただけだ。「月島、わざわざ作りに来てくれたのか?」
「そういうことになる」
「なんだよ、それなら、事前に連絡してくれればよかったのに。そうすれば、こんな寒空の下、無駄に待たずに済んだのに」
「バッカ野郎」と月島はすげなく言った。「東京生まれで北国の真冬の寒さに慣れていない私が、凍えながら好きな人を待ってるから絵になるんだろ」
「演出家かよ、おまえ」
「とにかく、ほら、さっさと家に入れなさい。私はかれこれ一時間前から待っていたんだぞ」
♯ ♯ ♯
月島はこの街の寒さにぶつくさ文句を垂れながらも、実に手際よく調理にあたった。
彼女が動き回っているのは、使い慣れた自宅の台所のようだった。
夏にもこうして夕食を作りに来てくれたよな、とダイニングテーブルに肘を突きながら俺は思った。柏木もいて、料理対決さながらの様相を
「冬はやっぱり、鍋でしょ」
この時期ならば津々浦々で聞けそうな台詞を月島が言って、夕食は始まった。カセットコンロの上で湯気を立てる鍋を挟んで、俺たちは向かい合っている。
月島が甲斐甲斐しく小皿に具材を取り分けてくれた。野菜が多めだ。俺は礼を述べ、まずは鶏肉をふぅふぅ冷ましてから口に含んだ。
目の前に光が見えたのは、その直後のことだ。そして体の組織が活性化していく感覚が訪れる。古い細胞が新しいものに生まれ変わっていくかのようだ。
次に白菜を食べる。本来の甘みとスープのうま味が融合して、これまた美味だ。体が芯から温まる。こんなに幸せを感じながら白菜を食べたことは今までにない。
「うまいよ」と俺は言った。「お世辞抜きでうますぎる」
月島は得意になるでもなくクールに微笑んだ。
「ところで、何鍋なんだ、これ。鶏ガラのだしがよく利いているけど」
「ちゃんこだよ」と彼女は簡潔に答えた。「実家が昔から仲良くしている相撲部屋から特別に教わったレシピだから、美味しくないわけがない。本当なら門外不出の味なんだから」
「さすが、東京下町育ち」
地方都市に長らく住み続けている人間からすれば、仲の良い相撲部屋があるというだけで驚きだ。
しばらくの間それぞれの空腹を埋める時間が流れた後で、月島は言った。
「帰ってきた時から比べれば、ようやく表情も明るくなってきた」
「俺、そんなに暗かった?」
「暗かった。酷かった。恐かった。目なんか死んでたし。病院でなにかしらマズイものを刺激しちゃって、それに
ははっ、と笑うしかない。
「憑かれてるわけじゃなくて、疲れてるんだよ。単に疲労だ」
「高瀬さんと、一緒に何かしてるよね」
その口調は、質問というより確認に近い。
「月島さんはさ、脈略のないことを平気で言うよね」
「で、どうなのよ」
「してるよ」
それを聞くと月島は一旦箸を置き、肩をすぼめる仕草をした。
「柏木が記憶を無くしたことまでは知ってるけど、高瀬さんに関しては、私、何も知らないの。12月になってからいつも難しい顔してるでしょ、あの子。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「難しい顔をせざるを得ない、きわめて難しい問題が持ち上がったんだよ」
「そして例によって、それに神沢も巻き込まれているわけだ」
巻き込まれている、という表現はいささか不本意だが、とりあえず俺はうなずいた。
「まさか『そっか、がんばれよ』と傍観するわけにもいかないだろ」
「何があった」月島は身を乗り出してくる。「そして何を思い悩んでいる。困難には慣れきっているはずの神沢がここまで疲弊するって、よっぽどのことだろ。さ、こういう時は遠慮なく、お姉さんに相談してみなさい」
俺は鍋をつつきながら、これまでのいきさつを彼女に話してみることにした。
「高瀬はさ、ようやく自分の足で自分の道を歩き始めたんだよ――」