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第31話 それでも愛すべき私の大切な人たち 2


 学校とアルバイトの休みが重なったこの日は、終日、高瀬と柏木のために時間を使うことができる。


 朝から夕方まではタカセヤ西町店で働き、それが終わると、葉山病院に行く予定となっていた。柏木の夕食に付き添ってやるのだ。


「クリスマスが近いからって、浮かれすぎだよね、みんな」


 仏頂面の高瀬がテーブルに頬杖をついて言う。その視線の先には巨大クリスマスツリーを囲む数組の男女がいて、スマホを手にはしゃいでいた。“カップルで一緒にツリーを見ると恋仲が持続する”という例の噂を信じてやってきた連中なのだろう。


 夕方になり、俺は高瀬と共にフードコートで休憩を取っていた。小腹が空いたので、今川焼きを摘まみながらだ。


「まぁまぁ」と俺は彼女をなだめた。「そんな彼らが店にお金を落としていってくれると思えば、ありがたいだろ。クリスマス様々じゃないか」


「神沢君は、クリスマスの予定はあるの?」と高瀬が尋ねてきた。


「それどころじゃないでしょ」と俺は返した。「イブの夜はここで結果発表を待たなきゃいけないんだから。売上20%増が達成できたかどうか」


「でも、その後は自由だよね?」

「何が言いたいんだよ?」


「もしかしたら、晴香と病院で一緒に過ごす約束をしていたりするのかなって、思ったり」


 高瀬のその発言は、俺が柏木の元へ行くことで、自分のために活動できる時間が大幅に減っていることを暗に非難しているようにも聞こえた。


 しかし彼女の気持ちを考慮すれば、とがめてくるのもやむを得ないことだった。このままだと俺は、“何があっても高瀬を大学に行かせる”という約束をあっけなく破る口だけ男になりかねないのだ。


 俺は努めて冷静に「ないよ」と答えた。実際、柏木とそんな約束はしていない。


「じゃあ、月島さんに誘われたりは?」

「それも、ないね」


「そっか」

 高瀬は頭上の雪をふるい落とすように何度か首を振って、それから、ごめんごめん、と明るい声を出した。

「私、ちょっと変だね。どうかしてる。神沢君、今の忘れて」


 それからしばらくのあいだ俺の目に映ったのは、今川焼きをがつがつ食べる女の子の姿だった。


「疲れている時は、やっぱり甘いものだよね」と高瀬はいかにも女子っぽいことを言った。彼女が選んだのは、小豆あずきあんだった。小豆の粒が歯間に挟まり、一所懸命舌を動かすその仕草が可愛らしい。


「愚痴を聞いてもらってもいいかな?」

 彼女は今川焼きを平らげると、そんなことを言い出した。


「愚痴? どうぞ」


「私が一日の中で一番好きな時間は、眠りにく前のベッドで本を読んだり音楽を聴いたりする時間なんだよね。だから去年の誕生日にお父さんに頼んで、新しいベッドを買ってもらったの。柔らかくて、寝心地の良いやつ」


 是非ともそのベッドに潜り込んで質感を肌で確かめたいところだが、セクハラじみた発言はいただけない。紳士的に続きを促す。

「それで?」


「私に姉がいるのは、神沢君も知ってるよね?」

「ああ、その節はお世話になりました。声だけは聞いたことがある」


 鳴大めいだいに通う女子大生で、たしかデカダンスな日々を送るお姉様だ。秋には、俺たちをとことん混乱させた変態教育実習生・北向海斗の本性を炙り出すべく、重要な証言をしてくれた人物でもある。


「そのお姉さんが、どうかしたの?」


「私のベッドがあまりに寝心地が良いから、お姉ちゃん、気に入ってるんだろうね。私が高校から帰ったら、あの人、そこで昼寝してたりするの。ほら、大学って、お昼前で講義が終わることも多いから」


「この一年のあいだ、そういうことがよくあったわけだ?」


「そう。でも、それだけならまだ許せたんだ。ただ昨日の一件はちょっと笑えなくて。お姉ちゃんは居なかったけど、代わりにが、ベッドの脇に落ちていたの。目を疑う、あるものが」


 その落ちていたものとは、カビと海苔の見分けがつかなくなったおにぎりか、はたまた現代社会を風刺した自作のポエムかと予想した俺は、まだ青かった。


「ひにんぐ」と高瀬の麗しい口が動き、俺は頭の中でその四文字に漢字を充てた。


 否認具? なんだそりゃ。そんなわけない。

 どう考えても、“避妊具”だ。Oh!

「そりゃまた……」


 高瀬は地球上に存在するすべての有毒ガスを嗅がされたような顔をする。

「しかも、明らかに、事がされた後……の状態で」


「それはそれは」


「犯人はお姉ちゃんしかいない」と高瀬は断じた。「20歳を過ぎた大人の女だからね、どこで誰と何をしようと私がとやかく言う権利は無いよ? でもね、なにも妹の部屋で、ましてや私が寝ているベッドで、そういうことをしなくたっていいじゃない。本っ当最悪! おかげで気持ち悪くて、もうあのベッドで眠れないよ」


 高瀬のお姉さんは性に奔放ほんぽうなお方でもあったはずだ。


 貞淑な妹は、呆れ顔で続ける。

「私、本当にカチンと来たから、リビングからお母さんを呼んで、部屋を見てもらったの。そしたらね、怒るどころか『あら、きちんと避妊するだけ偉いじゃない』だって。もうね、呆れて開いた口がふさがらなかった。でも今ならやっと言える。『そういう問題じゃないでしょ!』」


「平和的というかなんというか、とにかく、のんびりしたお母様なんだな」


「お母さんじゃもう話にならないから、夜まで待って、このことをお父さんに言いつけてみることにしたの。そしたらお父さん、顔を真っ赤にしてかんかんに怒っちゃって。普段からお姉ちゃんの素行不良には、腹に据えかねるものがあったみたいだから」


「それは、修羅場だ」と俺は案じた。

「修羅場だったよー」と高瀬は語尾を伸ばして認めた。「お姉ちゃんも気が強いからね。最初のうちは食ってかかったんだけど、本気のお父さんにかなうわけがなくて、結局最後は説教される羽目になりました。はじめに叱らなかったお母さん共々、正座で」


 そこでようやく彼女は、顔をほころばせた。


「昨日の一件はちょっと極端な例だけど、うちの日常ってね、だいたいそんな感じなんだ。まずお姉ちゃんが何か問題を起こして、私がその被害を受けているのに、お母さんは叱ってくれない。で、その尻拭いって感じでお父さんが夜中に雷を落とす。でも次の日まではゴタゴタを持ち越さない。それが暗黙のルール。きれいさっぱり朝でリセット。それだと私は面白くないことも多いんだけど、ま、仕方ないよね」


 俺は聞いているしるしにうなずいた。


「きのうもお父さんが二人を叱りつけている光景を後ろから見ていたんだけど、いつもと違って、なんか、ほろっと来ちゃってさ。こうしてこの家族の一員でいられるのも、あと一ヶ月しかないのかなって思うと、込み上げてくるものがあって」


「なんだかんだ言っても、高瀬にとっては、大切な人たちなんだな」

 家族の枠組みそれ自体がとうに崩壊している俺などからすれば、羨ましくもある。


「そうなんだよね」彼女は苦笑する。「問題は多いけど、それでも愛すべき私の大切な人たちなんだよね。そんなわけで、売上20%アップを実現しなきゃいけないという思いを、より一層強くした一日でした。……お気に入りのベッドを犠牲にして」


「家族のみんなも、高瀬が家に残ることを願っているさ」


 彼女はうなずいて、跳ねるように立ち上がった。

「じゃあ、いつまでもこうしてはいられないよね。もう一仕事、がんばろう。今日はこれから、青果コーナーの照明を一新したいんだ。お客さんから『暗い』っていう声があって。指示はお願いね、神沢君」


 頼られるのはありがたいが、俺は時計を見て、強く上下の歯を噛みしめていた。


 そろそろ葉山病院に向かうバスに乗る必要があったのだ。箸もまともに持てない、柏木の夕食に付き添うために。


「病院に」と俺は抑揚を欠いた声で言った。「そろそろ病院に行く時間なんだ」


 高瀬ははっとして、時刻を確認した。

「ねぇ、神沢君。今日だけは晴香のところに行かないで、って私が言ったら……」


 もし彼女にそう言われたなら、俺は――。


「ごめん、やっぱり今日の私はおかしい!」

 高瀬は胸の前で大きく手を振った。そして俺に背を向けた。

「行ってあげて。晴香のそばにいてあげて」

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