帰り際、高瀬に声を掛けて病院のロビーに残ってもらった。彼女にはどうしても伝えなければいけないことがあった。
「なんだか大変なことになっちゃった」と高瀬は言った。
「ああ」と俺は言った。「俺もいまだに信じられない」
「神沢君、昨日の夜からずっと……病院、にいるんだってね」
それは妙にぎこちない口ぶりだった。そこには、何らかの変更が加えられた形跡が感じられた。たとえば、頭に浮かんだ“晴香と一緒”という言葉を、口にする直前に“病院”と置き換えたかのような。
気まずさを打ち消すように、俺は少し明るい声を出した。
「明日学校で、今日の分のノートを写させてくれ。太陽は居眠りばかりで当てにならないから」
彼女は無表情に近い顔でうなずいた。
「私はこれから西町店に行って、昨日の続きをするからね」
話すべきなのはまさにそのことだった。
「高瀬、よく聞いてくれ」と俺は彼女に歩み寄って言った。「柏木は
俺としてはここで納得してもらいたかった。しかし高瀬は「神沢君、無理してない?」と言いはじめてしまった。
「昼間は学校、夜は居酒屋のアルバイト。その合間に西町店のために働いて、そのうえ晴香の付き添いまで。……あのね、一日は24時間しかないんだよ? 夜眠れるの? ご飯は食べられる? もしかしたら過労で倒れちゃうんじゃない? そうしたら神沢君の未来は――」
「大丈夫だって!」俺は彼女の言葉をさえぎった。「せっかく高瀬が大学に対して意欲的になってくれているのに、俺がここで踏ん張らないでどうするんだよ。なんとかなるって。多忙なのはせいぜい12月中だけだろ。年が明ければ、きっと少しは楽になるさ」
正直なところ、新年になったらなったで、新たな問題が俺を困らせようと手ぐすね引いて待ち構えている確信に近い予感があるのだが、今はそんなこと口にできない。
「約束を信じていていいんだよね?」と彼女は言った。
「もちろんだ」と俺はすかさず答えた。「なにがあっても俺は高瀬を大学に行かせる。その約束だけは、絶対だ。こんな道半ばで高校を辞めさせたりなんかしない」
「わかった」と彼女は言った。ただし、下唇を噛みながら。
♯ ♯ ♯
居酒屋のバイトを終えて帰宅したそのタイミングでちょうどスマホが鳴った。時刻は夜の11時を過ぎている。二日ぶりにゆっくり湯船に浸かって疲れを取るつもりだったのに、この冬は俺に一息つく暇さえ与えないらしい。
見覚えのない電話番号だったので無視してもよかったが、なんとなく出ないと後々かえって面倒なことになりそうな気がした。その勘は当たった。
「私だ」と高瀬の父の直行さんは言った。「この時間ならおまえと話ができると思ってな。番号は優里から聞いた。今、大丈夫か?」
「大丈夫です」大丈夫じゃないがそう答えるしかない。
「悠介。さっそく奮闘しているみたいじゃないか」直行さんは満足そうだ。「西町店がたった一日で生まれ変わったと優里が誇らしげに言っていたぞ。最初はどうなることかと思ったが、まったく、
わはは、という耳障りな笑い声を受けて、「相当お酒が入っていますね」と指摘した。ついさっきまで酔っ払いを相手にしていたからよくわかる。
「これが飲まずにやっていられるか。あと一ヶ月そこらで愛娘が家を出るかもしれないんだぞ。酒の力でも借りなきゃ眠れんよ」
まぁ、その気持ちもわからなくはなかった。
「こうして夜遅くに電話をかけたのはほかでもない。悠介、おまえを激励するためだ」
「はぁ」
「おまえにだから打ち明けるが、私は優里にトカイとの政略結婚を強いてしまったことを後悔しているんだ。私の心の中では『これでタカセヤを守れそうだ』という社長としての安堵感よりも、『会社のために娘を犠牲にして良いのか?』という父親としての罪悪感の方が日を追うごとに強くなっていった。そうこうしているうちに、縁談を土台とする両社の合併話は軌道に乗り、もう後戻りができないところまで来てしまっていたのだよ」
「そして今回の合併前倒し案」
「そうだ」と直行さんは言った。「悠介。これはタカセヤ社長としてではなく、優里の父親として言う。西町店の売上20%増を達成し、優里を救ってみろ。優里の結婚相手となるトカイの次期社長は、私とほとんど年が変わらない中年男だ。なおかつ品が無く、人の揚げ足を取っては、ねちねち笑う癖がある。私はこの男を見るたび『ナメクジ野郎』と心で呼ぶことにしている。塩を振りかけて撃退できれば良いのだが、いかんせんそういうわけにもいかない」
“ヒキガエルが何かの間違いで人の魂を持っちまったんじゃないかって感じの中年男”
そうトカイの次期社長を称していたのは、太陽だ。ヒキガエルにナメクジと来たら次はなんだろう? ウジ虫だろうか? もはや癌細胞でも驚きはしない。
「とにかく」と直行さんは声に力を込めて続けた。「あんな気色の悪い男に『お義父さん』と呼ばれるなんて、想像しただけで虫酸が走る。悠介、おまえ、私にはっきりと宣言したよな? 『優里さんを幸せにできるのは世界で僕ただ一人です』と。娘の幸せを願わない父親などいない。……
「はい」俺はスマホをしっかり握った。「大丈夫です。優里さんとは、未来の約束を交わしていますから。約束は必ず守ります」
「そうか。その言葉を、信じるぞ」
「あの、今日は僕のことを『小便臭い』と笑わないんですね」
そう俺が口にしたことで、高瀬父はようやく笑った。そして言った。
「おまえは案外、意地の悪いところがあるんだな」
♯ ♯ ♯
その日の夜は、心身共に疲れきっているはずなのになかなか眠ることができなかった。
ふと思い立ってスマホのカレンダーを見てみれば、12月になってまだ3日しか経っていないことに気がつきベッドの上で仰天してしまった。嘘だろ、と。
高瀬が高校を辞めて鳥海家に入る話が急浮上し、柏木が高校の屋上から転落し記憶を失った。
それがこの72時間の間に起きたことだ。
なんて素敵な3日間だろう。運命の神様は俺を弄んでいるとしか思えない。少なくとも試すという域をとうに越えている。さすがに今回の件は職権乱用にあたるんじゃないか。
愚痴のひとつくらいこぼしたところでバチは当たらないはずで、「冗談じゃねぇよ」と夜の闇に向けてつぶやいていた。それで事態が好転するわけでもないのだが。
「体調管理と時間の使い方だな」
俺は気を取り直し、試練の
健康であることが求められるのはもちろん、時間の配分にも気を使う必要があるだろう。
学校、バイト、タカセヤ、病院。
これらを同時にスケジュールに組み込まねばならない。夕方に高瀬が指摘してきたように、まさしく
学校やバイトを休むことも脳裏をよぎったが、それは禁じ手だろう。俺の未来が危うくなる事態を、高瀬は――そしておそらくは柏木も――望んではいないはずだ。
そうなると、限られた時間をタカセヤと病院に割り当てるということになってくる。
高瀬のためにより多く時間を使いたいのはやまやまだが、柏木の無垢な声やいずみさんの沈痛な面持ち、そして何より、遺書に
「乗り切れるか?」と俺は自問する。
「どうだろう?」首をかしげる自分がいた。「体がふたつあればいいんだけど」
もし俺が倒れたら高瀬と柏木はどうなってしまうのだろう? そう考えると不安で、今にも夜の闇に呑まれてしまいそうだ。
ただ、気持ちだけははっきりしていた。彼女たちを救いたいという、強い気持ちだ。
ヒキガエルだかナメクジだかよくわからない男の腕で高瀬を眠らせるわけにはいかないし、記憶を失った柏木にこの世界はえらく哀しい場所だと刻みつけるわけにもいかない。
俺にしか、あの二人を救うことはできないのだ。
心さえ死ななければ、春には笑顔のみんなと花見にでも行けるはずだ。
高瀬は、と考えて舌がぴりぴり痛み始めた。高瀬は、花見と聞けば、弁当作りを誰よりも張り切ってしまいそうだ。それはいただけない。
どうすれば高瀬の気高き誇りを傷つけることなく、弁当作りを諦めさせることができるか。
その方法を考えながら、俺はゆっくり目を閉じた。