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第30話 あなたをいつでもそばで見守っています 4


「バーカバーカ」という月島の第一声を受け、ベッドの上の少女は、きょとんとしている。だからといって尻込みしないのが月島涼だ。


「やい、学年最下位の劣等生。可愛いだけしか取り柄がないアバズレ女。尻軽。ビッチ。悔しかったら、何か言い返してみやがれ、柏木晴香!」


「えーっと、悠介くん」柏木は俺に耳打ちしてくる。「わたし、なんだかこの人恐いんだけど」


「だめだったか」月島はこめかみに指を当てた。「気性の荒い柏木のことだから、怒り・・が記憶を取り戻すためのトリガーになるんじゃないかって私なりに思ったんだけどな」 

 ふと、冷蔵庫の上に残されている書き置きが目に留まる。

「店の仕込みがあるので帰ります。あとはよろしくお願いします」とある。いずみさんが俺に宛てたものだ。


 めいっ子の記憶喪失を知った激情家のいずみさんが、平静を保っていられるはずがなかった。茫然自失でその場に立ち尽くし、それから目眩めまいを起こして倒れてしまった。点滴をほどこされ(幸か不幸か、ここは病院だ)、復調したのがついさっき、一時間前のことだ。


「晴香」高瀬が声をかける。「私、優里だよ。覚えてない? 高瀬優里」

 柏木は首をかしげた。「ごめんなさい」


「私たち、いつも一緒にゴハン食べたりしてるんだけどな」

「お友達なんだね。優里ちゃん」


 柏木がそう言ってぎこちない笑みを浮かべたことで、高瀬は早くも言葉に詰まってしまった。眉根を寄せ、天を仰ぐ。高瀬にとって柏木は、初めて獲得した気の置けない友人でもある。


 沈んだムードを追い払うように景気よく手を叩いたのは、太陽だ。

「やっぱりさ、春からの活動の中にこそ、手がかりは眠ってるんじゃねぇか?」


 彼はバッグから何かのディスクを取り出し、それを病室に元から備え付けられているプレイヤーに挿入した。


 テレビには夜のライブステージが映し出される。観客は皆、薄着だ。


「夏フェスの俺たちの登場シーンか!」

 俺は興奮の声を上げていた。これならば確かにトリガーになり得るかもしれない。

「柏木、ほら見てみろ、真ん中。おまえのボーカルはけっこう好評だったんだぞ」


「わたし、こんなことやってたの?」彼女は恥ずかしそうにテレビを見る。「あ、みんなもいるね。悠介くんに、優里ちゃん、格好いいお兄さんに、恐いお姉さん」


 柏木がボーカルを務めた曲『Pleasure of life』が始まる。


 曲の後半になると、指の腱鞘炎けんしょうえんを発症していた月島がベースの演奏を停止し、それにつられて俺のギターが乱れ始めた。


 観客席のざわめきが、数ヶ月経った今でも耳に刺さる。


 曲が混沌のうちに終了する。


 俺たちは一抹の期待を抱きながら柏木の反応に注目したが、「照れるなぁ」と呑気な声を聞けば、そろって首を垂れるしかなかった。


 それでも太陽は“春からの活動の中にこそ手がかりは眠っている説”を諦めきれないらしく、「それじゃあ」と息巻いた。「視覚がダメなら、次は味覚に訴えかけてみるっていうのはどうだ? この春以降、柏木にとって一番衝撃的だったのはアレだろ。春の林間学校で地獄を見た、末永すえなが手作りのカレーライス」


 俺と高瀬の視線が交わった。彼女は首を大きく横に振っている。


「いや、やめておこう」と俺は不安がる柏木を見て言った。「あのカレーは、今以上に柏木の記憶を飛ばしかねない」


 次にアイデアを出したのは、月島だ。

「そうだ。秋に柏木を怒らせたあの男なら、刺激になるかも」

「あの男?」


「変態ストーカー野郎。またの名を北向海斗きたむきかいと

「“ひたむき先生”は今、留置場にいるんだぞ。どうやって柏木に会わせるんだよ」


「神沢、持ち前の『なんとかする』の精神で、なんとかならない?」

「ならんわ」


 一人の女子高生の記憶喪失が、司法取引を持ち掛けられるほどの案件とも思えない。


「あーあ。一体どうすりゃいいのかね」

 太陽がしょげる。


 しかし当の柏木はといえば、初々しい笑みを浮かべていた。

「記憶は戻らないけど、でもね、みんなと楽しい毎日を送っていたっていうのはなんとなくわかったよ。わたしと仲良くしてくれてたんだね。ありがとう、みんな」


 身体のあちこちが痛いはずなのに、わざわざお辞儀なんかしてみせるから、湿っぽい空気になってしまう。


「その制服、鳴桜めいおう高校だよね?」と柏木は興味深そうに続けた。「わたし、進学校の鳴桜に入学できたんだ。信じられないなぁ」


「今の、笑うところだよな?」

 太陽はうかがうようにそう言ってから、実際笑った。いつもよりだいぶ控えめに。


 それに呼応するように、柏木も小さく笑う。こっちは自嘲だ。

「そうそう。わたし、そんなに勉強は得意じゃないはずなんだよね、あはは」


 記憶を失った者なりに、なんとか場の空気を悪くしないよう必死なのが伝わってきて、いたたまれなくなる。


 ふと見れば、月島の鼻が横に大きく膨らんでいた。

「あー、ちがうちがうちがう! こんなの、私の知ってる柏木じゃなーい! そこはさ、『なによ、葉山のバカ息子!』って始めるんでしょ!? ひとしきり荒れ狂うんでしょ!?  そして神沢や高瀬さんを困らせるんでしょ!? それが柏木晴香でしょ!」


「……わたしって、どんな人だったのかな?」


 ベッドのまわりで四人が無言で顔を見合わせていると、「遠慮しなくていいから教えてよ」と柏木が言った。「はい、優里ちゃんから、簡単に一言で」


 高瀬は少し考えてから「嵐を呼ぶ女」と答えた。

「将棋の駒なら香車」月島の例えはなかなか的確だ。

「女暴君」俺も本音を口にした。

「エロエロマシーン」太陽はどさくさに紛れるように言う。


「えぇ?」柏木は困惑する。「みんな、本当にわたしの友達だったの?」


 高瀬と月島が慌てて柏木の長所を列挙しはじめたところで、太陽が俺に耳打ちしてきた。

「悠介的には、正直、どうよ?」


「なにが?」


「いやほら、柏木って、ルックスは文句のつけようがないだろ? そのうえ今みたいに性格まで柔らかくなったとなると、悠介としても心が揺れちゃうんじゃないかと思ってな」


「たしかに穏やかな柏木も悪くないとは思うけど」

「このまま、記憶を取り戻さない方が良かったりするか?」


 太陽のその声には意地悪な響きが潜んでいたので、「わかっていることをわざわざ聞くなよ」と俺は返した。


「俺はどんなに振り回されようと、面倒を押しつけられようと、前の柏木がいいよ」



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