「柏木晴香さんの病名は『
「かいりせいけんぼう?」
なんのこっちゃと思ったが、とりあえず口に出してみた。そうすると、医学素人なりにややこしそうな病であることだけはわかって、ため息が漏れる。
柏木に顔と名前を忘れられた俺は、院内の小部屋で、担当の精神科医から説明を受けていた。結局高校は休むことにした。
「平たく言えば『記憶喪失』です。晴香さんは、お母様を亡くして以降4年間の記憶を丸ごと失っています」
「彼女は地面に衝突した際に、頭を打ったんですか?」
「こちらとしましても、まずはじめにその可能性を考えました」と安田医師は言った。「しかし、検査の結果、晴香さんの脳に器質的異常は見られませんでした」
「それなのに、記憶が無いんですか?」
「記憶喪失と一口に言っても、大きく分類して二種類あるのです。頭部への衝撃が元で記憶を失うケースと、精神的なストレスが元で記憶を失うケースです。晴香さんの場合は後者にあたります。それを我々は解離性健忘と呼んでいます」
「精神的なストレス?」
少しもピンと来なかった。高校の屋上から転落した柏木が、どうしたらそうなるのか。
「脳の損傷が確認できない以上、医学的にはそれ以外に考えられません。ま、過去に実際にあった例を振り返りますと、患者さんの狂言という可能性も無くはないですが」
「彼女はそんなことをして周囲を惑わせる人間ではありません」
やんわり言いながら、俺のことを“あなた”と呼んだ柏木の顔つきを思い返していた。
そこには、今年の春から決して短くない時間を共に過ごしてきた者に対する安心感や親近感といった情感が、少しも残されてはいなかった。代わりにあったのは、警戒心だ。年頃の女の子ならば見知らぬ男に対して働かせて当然の、防衛本能。
あれは、あの表情は、芝居なんかで作れるものではない。
「これはあくまでも僕の憶測になりますが」と安田医師は言った。「地面へと落下する最中、晴香さんの心には、お母様の映像が浮かんできたのではないでしょうか? それもおそらくは、お母様が首を吊っている状態の映像です。瞬間的な出来事とはいえ、晴香さんの脳はそれを心を破壊しかねない危険なファクターと判断し、晴香さんを守るため記憶を閉ざしてしまった」
「そう考えれば、つじつまが合うんですね?」
「人間の脳と心のメカニズムは、いまだに解明されていない点が多いということをまずはご理解ください。ですから僕が今立てた仮説が
「はぁ」
天下の葉山病院に勤務するお医者様が言うのだから、俺はうなずくしかない。
「ただ、そう考えますと、晴香さんが地面に叩き付けられる直前にきちんと
そのおかげで柏木は大事に至らず済んだのだ。俺は耳をすます。
「お母様の映像は、晴香さんに、『生きなければ』という気持ちを湧き起こさせた。そうは考えられないでしょうか。その結果晴香さんは咄嗟に受け身を取り、一命を取り留めることができた。母は強し。お母様は晴香さんの命を守ったのです。引き替えに記憶を失うことにはなりましたが」
それを聞いて俺はポケットに手を入れた。中から母が娘に宛てた遺書を取り出す。
「あなたをいつでもそばで見守っています」
たしかそのようなメッセージがあったような気がして全体を見通すと、やはりあった。最後の一文だ。一言一句間違いはない。
それこそ非科学的なのもいいところだが、柏木のお母さんは本当に今も近くで娘のことを見守っているんじゃないか。そんな風に本気で思ってしまう自分がいた。
「晴香はまだ
そんな声を地表へと落下する娘にかけたのかもしれないな、と。
♯ ♯ ♯
夕方になり、高校の授業を終えた高瀬、月島、太陽が病院にやってきた。
とはいえ、記憶を失った状態の柏木と彼らをいきなり対面させる訳にもいかず、唯一事情を知る俺が、事前に状況説明をすることになった。場所は、昨夜いずみさんと語らったデイルームだ。
柏木は長い検査で疲れたのか、病室で昼寝をしている。
「かいりせいけんぼう? なんのこっちゃ」
太陽が、奇跡的に六時間前の俺と同じ反応をした。仕方ないので、医者の役は俺が担う。
「わかりやすく言えば、記憶喪失だ」
「そんな……」高瀬が口を手で覆う。「屋上から落ちて大怪我を負っただけじゃなく、記憶まで無くしてるなんて……」
「ある意味、こっちの方が外傷より厄介だ」と俺は安田医師の話を思い出して言った。「時間が経てば折れた骨はくっつくし、できた傷口は塞がる。ただ、失った記憶だけは、そうもいかない」
物わかりが早いのは、月島だ。
「もう一生、この4年間のことを思い出さないっていう可能性もあるわけだ?」
俺は顔をしかめてうなずいた。
「最悪の場合、そういうこともあるみたいだ。そして思い出すにしても、部分部分が抜け落ちた状態かもしれない。たとえば、高瀬のことは思い出せても、月島のことは全く覚えていない。俺たちはそこまで覚悟する必要がある」
「マジかよ……」太陽が肩を落とす。「あいつ、馬鹿な真似しやがって……」
俺は説明を続ける。
「ひとつ幸いだったのは、柏木は、お母さんが亡くなったことだけは忘れていない点だ。だから、記憶を取り戻させることを、こちらはそれほど尻込みする必要がないんだ」
「ふーん」月島は不思議そうに首を傾げた。「よくわかんないけど、こういう場合って、お母さんのことが真っ先に記憶から消えそうなもんだけどね」
たしかにそれこそが柏木にとって、最も記憶から消し去りたい出来事のはずだ。
「特殊な症例だと、担当の先生も言っていた」
高瀬は言った。「とにかく、晴香は記憶を取り戻した方が良いんだよね?」
「それは間違いない」と俺は言った。「この先日常生活に戻るにしても、記憶が無いと不便この上ないわけだし、それに、その、寂しすぎるじゃないか。あいつが俺たちのことを忘れたままだなんて」
「柏木は一緒に戦ってきた仲間だもんなぁ」太陽はしみじみ言う。「思い出させてやりてぇよな。柏木様の数々のご活躍を」
高瀬が続く。
「何かをきっかけに、『あっ! 思い出した!』みたいなことにならないかな?」
俺は腕を組む。「その何かとは、いわゆる“トリガー”と呼ばれるものだな」
「引き金、か」月島が言い換える。
「医者が言うには、何がトリガーとなるかは、患者によって千差万別だそうだ。過去に実際にあった例だと――ちょっと言いにくいけれど――
「へぇ」となにげなく言った太陽だったが、すぐにはっとして、「そういう意味じゃないぞ!」と取り繕った。馬鹿馬鹿しいので、かまわず続ける。
「ただ、傾向としてはやはり、その人が過去に強く感情を揺さぶられた出来事や風景、あるいは人や物なんかが、トリガーになることが多いようだ」
俺が説明し終わると、制服組三人の視線がこぞってこちらに突き刺さった。
「な、なんすか?」
「あのさ」と三人を代表して月島が言った。「当たり前の疑問過ぎて、口にするのもアホくさいんだけど、そのトリガーって神沢自身なんじゃないの?」
俺は手を振ってそれを否定した。
「それが、違うんだよ。何時間か柏木と一緒に過ごしてみたけど、俺のことは少しも覚えていないんだ。今の俺はあいつに何て呼ばれてると思う? 『悠介くん』だぞ。警戒心を解いてくれたのは助かったけど、違和感大有りだよ。くすぐったくて仕方ない」
「柏木のやつ、悠介悠介うるさかったのにな」と太陽が言っちゃうから、実際に悠介悠介うるさかった昨日までの柏木を思い出し、せつなくなる。
「柏木の状況をまとめると、知能に異常はみられない。簡単なかけ算わり算くらいなら即答できるし、スマホが普及し公衆電話が過去の遺物となりつつある時代に自分が生きているということも把握している。ただ、性格は、多少子どもっぽく感じられるかもしれない。当然だ。なにせ、小学6年以降の記憶がごっそり抜け落ちているわけだから。そして怪我の程度からすると、少なくとも12月いっぱいは入院することになるようだ」
何か質問は? と続けたが何も返ってこなかった。とりあえず、一目会ってみてということだろう。
「それじゃ、行ってみようか」
記憶を失った哀しきお姫様は、そろそろ眠りから覚める頃だ。