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第30話 あなたをいつでもそばで見守っています 2


 気づけば便せんを持つ手が震えていた。

「この手紙にある“大きな壁”というのは、僕の母ですね?」


 いずみさんは小さくうなずいた。

「勘違いするんじゃないよ、悠介。この遺書を読んでもらったのは、有希子さんの息子であるあんたに対する当て付けとか嫌味とかじゃないからね」


「わかっています」と俺は言った。いずみさんはそんなひねくれた人じゃない。「これは僕も一度は読んでおくべきものでした。今やこの件は、僕にとっても無縁ではないですから」


「……有希子さんと兄貴、富山にいるんだってね?」


「そうです。ちょうど今日の昼休みに、晴香さんと富山に行く話をしていたところなんです。もちろん僕らの親に会うためです」


「タイミングを間違えた」いずみさんは顔を手で覆う。「遺書を晴香に見せるのは今はまだ早すぎたんだ……。なんていうか、急にいろんな情報が入ってきたもんで、頭の中がこんがらがっちまったんだろうね。やっぱり晴香がああなったのは私の責任だ」


 俺は首を振った。「僕がもっと彼女と一緒にいてやれなかったのが悪いんです」


 ややあって、いずみさんが一度ぱちんと手を叩いた。

「やめやめ。こんなね、責任の綱引きみたいなことしてたって何にもならない。今一番つらいのは晴香なんだ。あの子のことを第一に考えなきゃ」


 鼻をすすって、「ただね」といずみさんは続ける。


「最も責められるべきは、あの子を捨てた父親だ。そうだろ? 奥さんを自殺に追いやり、今度は娘まで……。あんな男が自分の実の兄貴だと思うと、まったく、恥ずかしいかぎりだよ」


 それを耳にして、俺は心の中で容疑者をもう一人付け加えていた。自らの母親だ。柏木夫婦の心の接近を――本人は意図せずとも――壁となり、さまたげ続けた人物。


 さらに、果たして、と考えを掘り下げていく。柏木恭一と神沢有希子。果たして、どちらが富山への逃避行を持ち掛けたのだろう? あるいは主導権を握ったのだろう? 


 4年前に再会した時点で、互いがすでに家庭があることはどちらもわかっていたはずだ。


 そして二人で新しい人生を歩むという選択をすることが、残された者たちに対し、どんな苦労を強いる結果になるのか。どんな変化をもたらす結果になるのか。そういった部分にだって考えが及んだに違いないのだ。


 そのうえですべてを捨て富山へと逃れた彼らの罪は、決して小さくない。


 生きることを絶った者がいる。

 苦しみから解放されない者がいる。

 塀の中の住人となった者がいる。

 閉ざされた未来をこじ開けようとする、俺がいる。


 多くの嘆きを代償にして、彼らは富山の地で幸福な笑顔を浮かべている。


 どちらが逃避行を立案したにせよ、そして実行までにどれだけ葛藤があったにせよ、俺はこの二人を許すことはできなそうだ。


「悠介」といずみさんは言いにくそうに言った。「ひとつ頼みがあるんだけどさ」

「なんでしょう?」


「しばらくのあいだ、晴香のそばにいてあげてくれないかい? もちろん学校を休めとは言わないよ。でも放課後・・・なら、少しは時間に余裕があるだろう?」


 放課後。12月24日までのその時間は――。

 タカセヤの赤エプロンをまとった高瀬の姿を思い出し、俺は唇を噛む。


「こんなことお願いできるの、あんたしかいないんだよ。晴香にとって一番そばにいてほしいのは私じゃなくて、悠介だろうから。店だっていつまでも休むわけにはいかないし」


「年末ですもんね」

「ああ。宴会の予約も多く入ってるからね」


 ここでいずみさんの要請を受け入れれば、タカセヤ西町店の売上向上のために使える時間が大幅に減ることとなる。


 それはつまり、高瀬と共に歩む未来に、重い暗雲が立ちこめることを意味している。


 しかしそうではあっても、断ることだけはどうしてもできなかった。できるわけがなかった。俺は柏木の苦悩を知る者であり、また、神沢有希子の息子であるのだ。

「わかりました」


「恩に着るよ」


 俺は再度遺書を手に取り、言った。

「これはしばらく僕が預かっていてもいいですか?」


「かまわないけど、なんでまた?」

「理由はうまく説明できませんが、そうすべきなんです、きっと」


 ♯ ♯ ♯


 病室に戻ると、すかさず太陽が歩み寄ってきた。依然として柏木は微動だにせず眠り続けている。


「なぁ悠介。このことはまだ高瀬さんと月島嬢には伝えてないんだが、どうする?」


 時計を見れば、もうすぐ日をまたぎそうな時刻になっていた。


「今日はもう遅いから、このままにしておこう」

 少なくとも高瀬は、慣れない仕事で心身共に疲れ切っているはずだった。今夜はできるだけ静かに眠らせてやりたい。

「明日になれば、みんな嫌でも知ることになるだろうし」


「そうだよな」


「太陽、お疲れさん。今日はもう、帰って寝なよ」

「おまえさんはどうすんだ、悠介」


「俺はこのまま、ここで過ごすよ」

 そう口にしたはいいが、それが病院の規則に抵触しないか、不安になってしまった。よって「いいのかな?」と誰ともなしに尋ねる。


「大丈夫だよ」といずみさんが背後から答えた。「なんせ、坊ちゃんが働きかけてくれたからね」


 それを聞いて院長の息子が胸を張る。

「この病室の患者はオレの友達だから、融通を利かせてくれないかと親父に言っておいたんだ。柏木が目を覚ました時に、誰かがそばにいた方がいいだろ? ははっ、こういう特権の使い方なら、誰にも文句は言われねぇよな?」


 太陽の好判断と行動力に感心しつつ俺は、いずみさんに一度帰宅して朝まで休息をとるよう勧めた。彼女の目の下には、看過できない程の大きなくま・・ができていた。


「悪いね」と彼女は言った。「どっちみち、あらためて準備をしてこなきゃいけなかったんだ。どうやら長い入院になりそうだからね。なにからなにまで本当に助かるよ、悠介」


 ♯ ♯ ♯


 太陽たちと入れ替わるようにして個室に訪れたのは、徘徊はいかいする痴呆老人でも、行くあてを失った亡霊でもなく、かぎりなく冷たい静寂だった。まるでこの空間だけが世界から切り離されてしまったかのようだ。


 俺は目についた丸椅子をベッドのそばに置き、それに腰掛けた。そして柏木をあらためてじっくり見た。


 あまりに動きがないので、あるいは心臓が止まっているんじゃないかと勘繰ってしまった。枕元にゆっくり顔を近づけると微かながらも確かな寝息を耳が拾ったので、ほっと安堵し、小さく笑った。さすがに考えすぎだ、馬鹿か俺は、と。仕方がない。今日は尋常じゃないくらい疲れている。


 なので俺は枕の隣にあるチェス盤ほどのスペースを借りて、体を休めることにした。両腕を交差させて置き、その上に顔を乗せる。


 お世辞にも上等なマットレスとは言えないけれど、久し振りの柔らかな感触に、意識はどこか遠くへ飛んでいってしまいそうだった。

「柏木。富山に行こう。歩けるようになったら、行こうな、一緒に」


 ♯ ♯ ♯


 実際、意識は飛んだらしい。


 気が付けば、カーテンの隙間から淡い陽光が病室に射し込んでいた。朝だ。


 口元のよだれを拭い、身を起こす。


 窮屈な体勢で眠ったせいか、体のあちこちが痛む。疲れはそれほど取れていない。しかしそんなことはすぐにどうでもよくなった。


 ベッドの上の柏木と、目が合ったのだ。巨峰みたいな両目はぱっちり開かれ、彼女はこちらをまじまじと見つめている。


「よう柏木」と俺はうれしくなって言った。「やっと目覚めたか。寒くないか? 腹は減ってないか?」


 彼女はそれには答えず、無表情のまま目の玉だけを動かしている。


「いや、いいんだ。無理して喋ることはない。まだなにがなんだか、わかっていないのかもな」


 彼女はそこで「あ」と一語だけ漏らし、言葉を切った。無理もない。久しぶりに喋ったので声ががらがらに枯れているのだ。


「『あ』? 何が言いたかったんだ? 『朝ごはん』か? それとも『あ、痛い』か? まさか、『愛してる』じゃないよな。朝から勘弁してくれよ。いずれにしても、とりあえず少し待ってくれ。こういう場合だとたしか、まずは看護師を呼ばなきゃいけないんだよ。えっと……」


 柏木が何を言いたかったのか、それがわかったのは、俺がナースコールを手に取るため枕元に体を寄せたその時だった。


 それはやはり「あ」から始まった。「あなた」


「なんだよ。『あなた』だなんて、笑わせるなよ。ずいぶん他人行儀だな。おまえらしくない」


 俺が苦笑する余裕があったのは、ほんのわずか、一秒か二秒そこらだ。見れば柏木の顔はいたって真面目で、どこにも戯れの色は浮かんでいなかった。


 彼女は言った。


?」

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