「ちょっとブカブカだけど、なかなか似合ってるよ、神沢君」
昨日に引き続き今日の放課後も、俺と高瀬はバスで街へと来ていた。
理由は他でもない。タカセヤ西町店に改革という名の――俺たちの未来のための――メスを入れるためだ。
その準備として、店舗近くにあったホームセンターの試着室を借り、着替えを行っていた。
タカセヤとトカイの早期合併を阻止すべく、高瀬が夜を
彼女はバスの中で言った。「よくよく考えれば、神沢君ほど今回の作戦に適している人もいないんだよね」
俺が首をひねって彼女に説明を求めると「私『ついてるな』って思ったもの」と返ってきた。「だってね、高校生の男の子で、神沢君ほどスーパーマーケットのことを肌で知っている人もそうそういないでしょ。これまでの経験で得たノウハウを、思う存分発揮してください」
両親が家から消えて以来、できるだけ自炊を心掛けてきた俺は、年に180日はスーパーに通って買い物をしていた。言われてみればたしかに、一般高校生らしからぬ経験値がこの心身には蓄積しているかもしれなかった。
慣れないスーツに戸惑いながら俺は言った。
「で、俺が
「スーパーバイザー」高瀬は指を立てた。「スーパーマーケット経営の達人として、神沢君には今日から、その
「達人!?」俺はつい吹き出してしまった。「いくらなんでも買いかぶりすぎだって。普段からスーパーをよく利用しているとはいえ、ただの一般客に過ぎないんだから」
「大丈夫よ。そういう一般のお客さんの声が、実は核心を突いていたりするんだから。はい、自分に言い聞かせて。『俺はスーパーの達人だ』って」
言い聞かせるよりも先に、鏡が目に入り他の不安が思い当たった。
「外見だって、どう見たって十代の少年だし。いつまでごまかしが利くかな」
「それもなんとかなるって。「このスーツ、お父さんに『一番偉そうなやつ貸して』って言って借りてきたんだけど、この時点で3歳は年上に見えるもん」
「それじゃまだ19歳じゃないか」
「じゃ、こうしよう」
高瀬はバッグの中から何かを取り出した。整髪料だ。彼女は要領よくジェル状のそれを手の平に広げ、俺の髪を後方へ流し始めた。
「ほら、これでまた3歳上がった」
鏡を見れば、
「なんか、俺、怖くない?」
「むしろ怖い方が良いって」と高瀬は言った。「お父さんが言うには、西町店の店長さんって弱そうな人には
目つきが冷たいから。好きな娘にそう言われて、あまり良い心地はしない。
ややあって、高瀬が右手を伸ばしてきた。俺の喉元に手は向かう。どうやらネクタイのずれを直してくれるようだ。
「うん。これで完璧。そろそろ行こうか」
歩きながら「俺はスーパーの達人だ」と数度口に出し、自分に浸透させる。
「その調子」と高瀬は言った。「タカセヤの命運は、神沢君の腕に
“私の未来”ではなく、“タカセヤの命運”と言うあたりが、なんとも彼女らしい。
もし今回の作戦を成功で終えることができたなら、親に捨てられるのも悪いことばかりではないと思えるかもな。そんなことを俺は考えていた。
いや、どうだろう。それはいくらなんでも、楽天的過ぎるかもしれない。
♯ ♯ ♯
「そ、それで、お嬢様直々に、このたびはいかなるご用でしょうか」
社長令嬢という肩書きの威光たるや、タカセヤという組織にあっては江戸時代の
さすがに変わり身の早い悪代官よろしく地に
「さっそくですが」お嬢様は堂々と言う。「この店の売上を20%向上させるために、私たちはやってきました」
店長は後退し始めている髪の生え際をぽりぽり掻いて「20%ですか」と応じた。言外に、何を馬鹿なことを、と現場を知らない資本家側に対する愚痴が見え隠れする。
高瀬もきっとそれを察知していたが、表情を変えずに「そうです」とこともなげに言った。「そのためにこの方を連れてきたんです。あ、言っておきますが、私は本気ですよ」
店長はやや動揺しながら、俺の全身を確認する。果たして
ここでもし彼に舐められてしまってはうまくいくものもいかなくなるので、俺は良心を押し殺して中年男を睨みつけ、すごみを利かせることにした。
店長はしばらく言葉を探した後で「ずいぶんお若いんですね」と高瀬の出方を窺うように言った。身の丈に合わない高級スーツを着た若者の素性を不審がるのは、当然だった。
「若いのに、すごい方なんですよ」高瀬は語尾を伸ばす。「こう見えてもこれまでに再建させてきたスーパーは数知れず。その手腕に惚れ込んだ日本中のスーパーから引く手あまたで、本来なら3年先までスケジュールがびっしり埋まっているところを、無理を言ってこうして特別に来ていただいたんです!」
そろそろ俺も第一声を発すべきだった。
「スーパーマーケットをはじめとする、小売店業界のスーパーバイザーをさせていただいております、神沢と申します。よろしくお願いいたします」
言い終えて、あれ? と俺は思った。こういう状況で名刺が無いのは不自然じゃないか? と。
案の定店長が訝しそうな目つきでこちらを見たその時、誰かのスマホが鳴った。店長のだった。端末を手にした彼はあからさまに動揺すると、おそるおそる電話に出た。
「しゃ、社長!」
「お父さんだ」
高瀬がささやく。その顔には、補給部隊の到着を知り、勝利を確信したかのような安堵の笑みが浮かぶ。
「突然だが、西町店の売上不振がタカセヤ全体の足を引っ張っているという自覚は、君にあるか?」
耳を澄まさずとも聞こえる、大きく、高圧的な社長の声だ。
「はっ、不徳の致すところでございます!」
店長のこめかみには、冬なのに汗が浮かぶ。
「今そっちに、青年を連れた私の娘が行っているはずだ」
「お、仰るとおりであります!」
「いいか、これが最後のチャンスだ。例月比売上20%上昇が見られなければ、こちらとしても君の処遇も考えなければいかん。その青年の言うことをよく聞いて、店舗改革に着手せよ」
「はっ。かしこまりました!」店長はスマホをしまうと、低姿勢でこちらに近づいてきた。「神沢さん、でしたか。寒い中よくいらっしゃいました。さ、まずはお茶でもいかがですか?」
ゴマをすられることに慣れていない俺は「けっこうです」と照れつつ返した。「それより今は一分一秒でも時間が惜しい。こうしてはいられません。さっそく売り場を見て回りましょう」