その日、
だからそんな彼女に「話がある」と呼び出された時はそれなりの覚悟をしていたのだが、「高校を辞めなきゃいけなくなる」と聞けば俺の目の前も真っ黒になった。
街では呑気なクリスマス・ミュージックが流れ始めた12月の初日のことである。
「どういうことだよ高瀬。高校を辞めなきゃいけないなんて」
「タカセヤとトカイの合併が前倒しになるみたいで。本当は前も話したようにタカセヤ社長の娘の私とトカイ次期社長が結婚することが合併の条件だったんだけど、私はまだ年齢的に結婚できないから、その代わり高校を辞めて鳥海家に入って花嫁修業をするようにって。でもこれ、実質的には結婚だよね」
「なんで両社の合併が前倒しになるんだ? 高瀬が高校を卒業するタイミングじゃなかったのか?」
「うちの業績の落ち込みがこのところ顕著でね。トカイさん側からすれば、取り返しのつかないことになる前に合併しちゃいたいんだろうね」
「なんとかならないのか……」
「今はトカイさんの方が業績が上だから、どうしても『トカイがタカセヤを救ってあげる』っていう感じになっちゃうの。だから向こうの発言力が強くて。トカイさんが白と言えば白だし、黒と言えば黒なの」
「トカイが合併を前倒しにすると言えば、タカセヤは従うしかない」
高瀬は小さくうなずいた。
「このまま行くと今月いっぱいで私の高校生活は終わりで、早ければ来月にも鳥海家に入って、両社が合併っていう流れになるみたい」
俺たちのいるいつもの秘密基地には重い沈黙が漂った。
壁に備え付けられている棚に目をやれば、おのずとこれまでの冒険の記憶がよみがえってくる。
今でも光を放ち続ける奇跡のヒカリゴケ。
夏フェスの記念トロフィー。
太陽と月がデザインされたペンダント。
まだまだ多くの“冒険の証”が部屋を彩ると思っていた俺の見通しは、甘かったということだろうか。
胸に溜まった息を吐き出し、俺は窓の外に視線を転じた。そこには冬の白さを帯びはじめた街の光景が広がっている。
高瀬が愛するこの街のための結婚。
彼女の未来を閉ざす結婚。
俺の想いを打ち砕く結婚。
表現はどうあれ、高瀬といくつかの季節を共に過ごすうちに、結婚のその二文字はどこかリアリティを欠いて俺の中に存在するようになっていた。まだまだ時間に余裕はあると、油断していた部分も否めない。
そして今、そんな俺の
「神沢君」と高瀬はテーブル越しに言った。「私の話を聞いてくれる?」
「もちろん」
「私ね、最近になって、ようやく自分のことがわかってきたような気がするんだ」
本当の自分がわからない――それが高瀬の抱える苦悩の一つだった。
小さい頃から周囲が作り上げた“高瀬優里像”を壊さぬよう立ち振る舞うあまり、彼女は本来の自分を見失ってしまったのだ。
「なんとなく、だけどね」と高瀬は言う。「自分の良いところ、悪いところ、がんばれば直せそうなところ、どうしても直せそうにないところ。そういうのがわかりはじめてるんだ。もちろん神沢君たちと出会ったのが大きいんだよ。春からいろんな経験をさせてもらって、その中で成長できた気がする」
「はじめは非の打ち所のない、完璧な人だと思ってた」
「私も思ってた」と言って高瀬は苦笑した。「でもね、そんなことないんだよ。頑固で気難しくて、思いのほか感情的になりやすいところがある。晴香ほど前向きで明るくはないし、月島さんほど冷静に物事を考えられない。そして一人では何もできない。それが、私」
不完全さを知れば知るほど、君に惹かれていく俺がいるんだと心で告白していた。料理が下手だという重要事項が抜けていたが、今は不問にしておこう。
「私はね、これでいいと思ってるんだよ。自分の欠点がわかるっていうのは、大切なことだよ。この一年でやっと同じ歳の人たちに追いつけたような気がする。楽しいことばかりじゃないけど、それでも、こんなに充実した毎日を過ごせているのは、はじめてのことだ」
そこでまた、静寂が俺たちを包んだ。しばらくそのまま
「私、高校を辞めたくない。既定通り高校卒業後の結婚ならば、それを一度は受け入れた手前、まだ踏ん切りがつくよ? でもね、今は毎日新しい発見があって、次の朝が来るのが楽しみで仕方ないんだ。やり残していることだってまだまだたくさんある。こんな状況で高校を辞めるなんて、とてもじゃないけど考えられない」
彼女は俺の目をじっと覗き込んだ。俺も彼女の目を覗き込んだ。
熱いものが腹の奥底からせり上がってきた。俺は言う。
「高校を辞めたくないんだな? それが、高瀬の正直な心の声なんだな?」
彼女はしっかり首を縦に振った。
「それが聞けたなら充分だ」と俺は言った。「辞めさせるかよ。花嫁修業なんかさせてたまるか。約束通り、高瀬は俺と一緒に大学へ行くんだから」
「でもね、神沢君。どうしたらいいんだろう。私が高校を辞めないで済む、良い手立てはなにかあるのかな?」
以前であれば途方にくれるしかなかった状況だが、幸運にも今は違う。俺の頭には、とある人物の顔がくっきりと思い浮かんでいた。
まずは、
俺はシャレにならないほど強烈な
「今日の放課後、高瀬には、俺の恋人になってもらうから」
♯ ♯ ♯
「神沢君が私のお父さんと知り合いだったなんて」
高瀬はコンパクトな手鏡を見ながら、
町外れへと向かうバスの車内は空いていた。すべての授業を終えた俺たちは、二人がけの座席で隣り合って座っている。
俺は財布から一枚の名刺を取り出した。そこから今にも「おい悠介!」と威圧的な声が聞こえてきそうだった。
「社長殿に直談判だ」俺たちは今から、株式会社タカセヤの本社に乗り込むのだ。「高瀬の親父さんなら、何か名案を思いつくかもしれない」
「でも、お父さん、本当にそんなこと言ったの? 『娘が惚れている男を連れてきたら、結婚を押し通す自信がない』みたいなこと」
「酒がかなり入っていたという点をどう取るか。それがやや問題ではあるけれど、確かに言ったよ。俺の聞き間違いとかじゃない」俺は秋の終わりの夜を思い出していた。「『社長失格だよ』と言って、笑ってもいた」
信じられない、という風に高瀬は数度瞬きをしてから、手鏡と櫛を制服の内ポケットにしまった。
「それで私たちは、お父さんの――社長の前で恋人同士のフリをするんだね?」
俺はうなずいた。赤面しているだろうけど、それが最善策なのだから仕方ない。
「恋人、か」高瀬はせっかく整えたばかりの前髪をかき上げる。「効果を考えれば、ものすごくラブラブの方が、いいのかな?」
ラブラブという軽薄な言葉に、非高瀬的な何かを感じずにはいられない。彼女も平常心ではないらしい。
「どうだろう。厳しそうなお父さんではあるからな」
「腕とか、組んじゃう?」
「えっ!?」
「神沢君。恥ずかしがってる場合じゃないでしょ。どうすればお父さんをこっちに引き込めるか、私なりに真剣に考えて言ってるのに」
「ご、ごめん。そうだよな。これは遊びじゃないんだから」
「それこそ『結婚を前提にお付き合いしています』ってことにする?」
「なんかそれ、ちょっと古くない?」
「考えの古い人に私たちは今から会うんだよ。もしその台詞を言うなら、神沢君だからね」
「まさかさ、殴られたりしないよな?」
「さぁどうだろう。わからないな。なにしろ古い人だから」
俺の顔がいろんな形に歪むのをひとしきり楽しんでから、彼女はおほんと声の調子を整えた。そして言った。
「とにかく私は、神沢君のことが好きで好きでどうしようもない女の子なんだよね」
「はい」と俺は平静を装って答えた。「そういうことにしてください。俺も高瀬に心から惚れている男になりますから」
「神沢君は演技できる?」
なんて意地の悪い質問をするんだろう、と俺は思った。
もちろんこれは口にはしないが、ひとつ言えることは、彼女の父親の前で俺は演技をするつもりなんか少しもないということだ。なぜなら本当に心から惚れているんだから。
黙ったままも気まずいので、とりあえず「未来のために」とだけ答えておく。