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第27話 野良犬には野良犬の矜持がある 4


「それにしても有希子は家を出て、いったいどこに行ったんだろうな?」

 長い沈黙の後で高瀬父はそう言った。


「どこに行ったかは、わかりませんが、誰と行ったかは、判明しています」隠すこともないので、俺はその名を口にする。「柏木恭一さんです。二人は4年前に再会し、すべてを捨ててどこかへ旅立ったんです」


「そうだったのか。高校を卒業してからは仕事が忙しく、恭一とも会えなかったからな。結婚し、娘が生まれたことまでは風の便りで耳にしていたが、あいつもあいつで家族を捨てたのか。そうか、結局、そうなったか」


 俺はしばし間を置いてから、口を開いた。

「あの、ひとつうかがってもよろしいでしょうか?」


「なんだ、妙にあらたまって」

「僕のことが、憎かったり、うとましかったりしないんですか?」


 高瀬父の言動を振り返れば、俺に対して彼が肯定的な感情を抱いているように感じられたのだ。それは、俺と彼の関係性を考えると、やや不自然なことのように思えた。


「それがな、そんなに胸はざわめかないのだよ。もちろん、私にとって神沢亨は憎い男だ。なにしろ私が心底惚れた女の人生を、身勝手な想いをぶつけて滅茶苦茶にしたわけだからな。もし私と同じ立場に置かれたとしたら、そんな男の実子である君を嫌悪する人間も少なくはないだろう。しかし私の中に、君への憎しみや怒りといった負の感情は湧いてこないんだよ。むしろ私は、君に自分の姿を重ねているのかもしれない」


「僕に?」

「ああ。悠介は、言うなれば“野良犬”だろう?」


 心づかいのない言いっぷりが、かえって心づかいのように思えた。

「血統証付きの野良犬ですよ」と俺は苦笑混じりに言った。


「私もそうなんだよ」と言って彼も小さく笑った。「今でこそ社長という地位にいるが、出自は決して人に誇れるものではなくてね。表現は古いが、私はめかけの子で、若い頃はそのせいでずいぶん冷や飯を食わされたものだ。今の家に婿養子として入り、なにくそ、と自分を奮い立たせながら、なんとかここまでのし上がってきた。しかし元を辿れば、ゴミ捨て場で残飯を漁り、雨風をしのぐ屋根にも恵まれない、憐れな野良犬なのだよ」


 この人からどことなく土の匂いが漂っていたその理由が、わかった気がした。


「母親に捨てられ、父親にとがを負わされ、非行に走ってもおかしくないところをそうせずにこうして夜遅くまで働く君の中に、私は若い頃の自分を見ているのだろうな……」


 憎めるわけがない、と彼は視線を落として小さくつぶやき、酒をあおった。


「ただな、悠介。野良犬だからといって、臆することはまったくないぞ。誰の目を気にすることなく、堂々と道を歩けばいい。そして電信柱に満足いくまで小便を引っかけてやればいい。野良犬には野良犬の矜持きょうじがある。君はとてもいい目をしている。野良犬は、決して負け犬ではない。何があってもくじけるんじゃないぞ」


 俺が深くうなずいて礼を述べると、彼は上着の内ポケットへ手を伸ばした。そして名刺をこちらに差し出した。


「私は初恋のひとが望まぬ婚姻で苦労したというのに、今また自分の娘にも同じ道を敷いてしまったどうしようもない男だが、何かあったら、連絡を寄越してこい。遠慮は要らん。ここでこうして有希子の息子と会ったのは、何かの縁を感じる」


 その名刺には、土の匂いとは遠く掛け離れた、おごそかな字がつづられていた。


『株式会社タカセヤ 代表取締役社長 高瀬直行たかせなおゆき



 ♯ ♯ ♯



 吐く息の白さに冬の急接近を感じつつ、俺は夜の街をひとり歩いていた。


 考えるべきことはたくさんあった。ありすぎて頭は今にもはち切れそうだった。まさか柏木の父親のみならず、高瀬の父親まで俺の母とつながりがあったとは。いやいや、と俺はすぐにかぶりを振った。つながり、なんてものじゃ済まない。


 彼らの関係性にはそれぞれの強い想いが介在していて、それによって、喜び、悲しみ、苦しんできたのだ。そしてそれは彼らの子たちにもそっくりそのままあてはまってしまうのだから、これは、運命という言葉をもって語っても決して大袈裟ではないだろう。


 おりしも、春に老占い師と出会った商店街にさしかかった。


 俺に“運命”という言葉を意識させるきっかけを与えたのは、他でもなくあの占い師だ。


 彼はあの時点でこうなることまで予見していたのだろうか? 


 “未来の君”なる存在が迷える若者を明るい未来へと導くイメージに留まらず、その若者が激しい渦の中に呑み込まれていく姿までも、浮かんでいたというのか?


 相づちを打ってくれる人などいないので、「そういうことなんだろうな」と独り言を言ってうなずいた。


 数多くの運命めいた出来事が待っていることでございましょう――。


 そう老占い師は俺に告げた。その台詞が今夜ばかりは強い実感を伴って胸に反響した。


 どうやらこの人生に不可思議や物語性と距離を置いた安穏とした日々は、まだまだ訪れてはくれないらしい。誰よりもそんな毎日を願ってやまないのが、俺という人間なのだが。


 今夜は家に帰ったら、熱めの風呂にじっくり浸かって一旦頭の中を整理整頓しよう。そんな風に考えながら足早に商店街を抜けたその時、後方から聞き慣れた声がした。

「悠介っ!」


 俺は立ち止まり、背後を振り返る。後ろで一つに束ねた髪を左右に大きく揺らし、一直線に駆けてくるその人物は、柏木だ。


「どうしたんだ! こんな時間に、こんな場所まで!」

「どうしても悠介に、直接会って伝えたいことがあって!」


 彼女は肩で息をしていたが、すぐに呼吸を整えた。

「よかった、ちょうど仕事帰りで。行き違いになったら泣けるから」


「電話じゃだめだったのか? それに明日になれば、どうせ学校で――」

「だめなの」彼女は俺の言葉をさえぎった。そして真面目な顔で言った。「悠介、見つかった」


「え?」

「見つかったんだよ。あたしの父親と有希子さん」


 俺は目を何度もしばたたいた。「どこにいる!?」

「トヤマ」


「トヤマ? 北陸の富山か?」

「うん。あの二人、富山県の山奥で一緒に暮らしてる」


 俺たちの周囲だけ、時間の流れが止まったようだった。


 彼女は言った。「前に電話で、ゲームみたいなことやったでしょ。ほら、悠介が出す二択にあたしが勘で答えていくやつ。あの二人が向かったのは、この街より北か南か? とか、都会か地方か? とか」


「ああ」その結果、東北の日本海側から北陸地方にかけてのエリアが候補地として浮かび上がったのだった。


「地図にしるしをつけた地域のことを順番に調べていたら、本当に見つかったんだよ。間違いない。あの二人は富山にいる。今夜はどうしてもこのことを悠介にも直接伝えたくて」


 何かが大きく動き出している、と俺は思った。


 俺はあとどれだけの真実と向き合わなければならないのだろう? そしてそこから何を獲得し、何を喪失するだろう? 得たものの重みで、失うことの哀しみで、俺の心は壊れてしまうかもしれない。


「恐れないことです。逃げないことです」と占い師は春に言った。


「わかっている」俺は心で答える。この旅が何かに導かれていようとも、そうでなくても、目の前の道を進んでいくしかない。それが俺の運命だ。


 ふいに鼻先を何かがかすめていった。冷たい、と感じたのはそれからまもなくのことだ。


「あはっ、雪だ」

 柏木が無邪気に笑って俺の鼻を指で拭った。そのあどけない笑顔を見て、俺のささくれだった心は少し軽くなった。


 それから二人は共にゆっくりと空を見上げた。どちらが言い出すでもなく。


 寡黙かもくな夜空から、はらりと次々に白雪が舞い降りてくる。きれいだ。毎年見ているはずなのに、今年の雪はどういうわけか、やけに心に染みるものがある。


「今年も冬が来たんだね」

 柏木がコートのポケットに手を入れて言った。


「ああ。長い冬になりそうだ」

 俺が言うと、彼女は静かにうなずいて、肩を少しこちらへ寄せた。


 俺も柏木もしばらくそのままで、俺たちの街が白の世界へと変わっていく様子を黙って眺めていた。


 そのようにして、愛と試練の季節は始まった。





                第一学年・秋〈終〉

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