「どこまで知っている?」と尋ねられたので、俺は頭を整理して、母が高校時代に
とりあえず高瀬の実の父が俺の母に
「決して叶わぬ片想いだったけどな」と彼は照れて言った。「知っての通り、有希子は恭一にべた惚れだった。落ちこぼれの
そうは言っても、この人だって若い時は相当女の子に人気があったんだろうな、と野心的な顔つきを見て推し量った。
「私も血気盛んな頃でね。何度も有希子に『恭一と別れろ』と迫っては、素っ気なく跳ね返されたものさ。そのたび、あのげんこつ頭と高校近くのカレー屋で反省会だ。今思えば、配球を組み立てるよりも、有希子を口説き落とす文句を考える方に情熱を注いでいたな」
ふと、彼は柏木恭一とはどういう仲だったのか疑問に思い、それを口にしてみた。
「腐れ縁だ」と彼は答えた。「でかい図体して、おまけに性格も粗野なくせに、心臓が弱かったんだあいつは。登下校するためには必ず誰かの付き添いを必要としていて、中学時代は私がその役割を担っていたんだよ」
「それが高校に入って、僕の母の役割になったんですね?」
「面白くないがな、そういうことだ」彼は顔をしかめて、酒を口に運ぶ。「結局私は、高校三年間を通して、有希子にとって『友達』以上の男になることはできなかった。恭一の存在はあまりにも大きかったのだ。彼女を巡る私と恭一の争いに関しては、いかにも小便臭い馬鹿げたエピソードも数え切れないほどあるが、その全てを話していたらきりがない。省かせてもらう」
もちろん興味はそそられたが、やむなくうなずいた。それを聞くのが目的ではない。
「君、名前は?」と尋ねられたので、俺は自己紹介した。
「そうか、悠介か」彼は一旦大きく息を吐き出すと、さっそく俺の名を呼んだ。「悠介。ここから先の話は、いささか不快な思いをすることになるかもしれない。それでもかまわないか?」
「かまいません」と俺は答えた。「親のことで不快な思いをするのは慣れています」
同情するように眉をへの字に曲げてから、彼は語り始めた。
「悠介。君の母さんは、本当に素敵な人だった。『絶世の美女』と言うと、これはさすがに誇張になるかもしれないが、それでも、この街では三本の指に入るほどの
もちろん悪い気はしないけど、脇の下に汗が滲み出るのは感じる。
「有希子の神秘的で浮き世離れした美しさは、男の理性に狂いを生じさせるような性質のものだった。言葉はやや乱暴だが、『何が何でもモノにしたい』と思わせる魔力が彼女には備わっていた。かくいう私もその
「何があったんですか?」
数ある言葉の中から“元凶”という表現を選択するくらいだ。祝福と
「高校三年に上がった春、有希子は市内の本屋でアルバイトを始めたんだ。そんな彼女に一目惚れをした客がいた。私たちより二歳年上で、働きもせず学校にも行かず、ふらふらしている若者だった。彼はかなりしつこく有希子に交際を迫った。私と同じようにきっと魔力に取り憑かれたんだろう。もちろん彼女は、そういった
「その男こそが、僕の父親というわけですね?」
「そうだ。一度だけ君の父は有希子を求めて、鳴桜高校の校門にまで押し掛けてきたことがあった。その時たまたま私と恭一は彼の顔を見たのだが、軟弱な印象が強くてな。こう言っては息子の悠介には悪いが、『これは大したタマじゃないな』と二人とも高をくくっていたんだ。しかしそうは簡単にいかなかった。彼にはある秘策があったんだよ」
俺は父親の顔を思い出した。実直さや男らしさとは対極に位置する浮薄な笑顔が、印象にはある。その秘策というのだって、正々堂々とはまるで言い難い一手なのだろうな、と簡単に想像がついた。
「有希子の家はこの街で小さな葬儀屋を営んでいた。小規模の家族葬を請け負う、社員数名の零細企業だ。一方君の父親は――こればかりは奇妙な縁としか言いようがないが――札幌に本社を構える、大きな斎場をいくつも抱えた葬儀屋の三男坊だった」
「まさか」ある可能性が頭に浮かび、二の句が継げない。
「そのまさかだ」と高瀬父は言った。「どんな脅し文句を実際に投げ掛けたかは、私のあずかり知るところではない。しかし君の父親は、有希子の家の家業を潰す可能性をちらつかせることで、彼女を恭一から横取りしようと考えたのだ」
「魔力、ですか」
「魔力だ」と彼は徳利を手に取りつぶやいた。「そこまでしても彼は有希子を手に入れたかったのだ。一方、有希子は大いに揺れた。彼女は冷淡な性格ではあるが、決してひとでなしではない。家族思いの優しい心を持っていた。次第に恭一とも明確に距離を取るようになっていった」
俺は耳を塞ぎたい気持ちをこらえて話を聞き続けた。
「結局有希子は恭一と別れ、君の父親と一緒になる道を選んだ。家族と、少ないとはいえ社員を守るために。高校卒業を前にした冬、彼女のお母様――つまり、悠介の祖母にあたる方だな――が手術を要する難病に倒れたのが、決め手となった。『手術費用は任せておけ』というようなことを君の父は言ったようだ」
俺は目の前が真っ白になりそうだった。
母は、いや、
これではまるで、高瀬と同じじゃないか。
「結果から先に言えば、有希子のお母様は助からなかった」と高瀬父は言った。「手術が失敗したのではない。そもそも費用が調達できなかったのだ」
「約束と違うじゃないですか」
「そうだ。手術の段取りをつける前に、君の父は神沢家から追放されてしまったのだよ。どうやら彼は、会社の金を私的に使い込んでいたようで、それが社長でもある父親の逆鱗に触れたらしい」
「どうしようもない……」
「ただ、それをきっかけにして君の父が心を入れ替えたのも、また事実だ」
「そう、なんですか」
「ああ。彼は有希子を
実際父は、放火の罪で逮捕されるまで、その不動産会社に勤務し続けていた。
俺はふと疑問に思ったことがあり、脇道に逸れますがと前置きした上で、それを口にした。
「あの、母が高校を卒業した後の事情を、どうしてこんなに詳しくご存じなんですか?」
「ああ、その説明がまだだったか。高校を出て4年ほど経ったある日、私は街でばったり有希子と再会し、近くにあった喫茶店で話を聞いたのだよ。思えば、その日に会ったのが最後だったな。あの時の彼女はえらくしおれていた」
「母は別れようとは考えなかったんでしょうか?」と俺は言った。「僕の父が家を追い出されたならば、それと同時に母が感じたような脅威も消えたはずなのでは?」
「違いない」高瀬父はうなずいた。「『あの頃に帰りたい』。そう、有希子は痛々しく笑いながら言っていた。もちろん頭には、高校時代の日々があったのだろう。君の父と別れ、新たな人生を歩む考えは、常にあったはずだ。しかしそうこうしているうちに――」
彼はそこで言葉を切って、酒を一口飲み、こめかみを掻き、それからまた酒に口をつけた。
「ここからは私の憶測になるが、有希子は、別れようにも別れられなくなったのだ。そして考えられる理由は、あらゆる事情を
「その理由とはなんでしょう?」
口にした後で答えがわかって、俺は自分を殴りたくなった。ある意味俺自身がその答えだった。すぐに取り繕いたかったが、先に高瀬父に言葉を継がせてしまった。
「悠介。……それを、私に言わせるか」
「すみません。たしかに、ひとつしかないですね」
「君ももう、誰かを愛せる歳だろうに」
神沢有希子は、子を身籠もったのだ。