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第27話 野良犬には野良犬の矜持がある 2


「鬼畜だ鬼畜」とマスターは言った。「今日きょうび、戦略結婚なんて時代遅れなんだよ!」


「私はこのバイト君と話しているんだ」と社長殿――高瀬父(仮)は言った。「お前はさっさとだし巻き卵を作れ。注文してから何分かかってる!」


 ふん、と鼻息を残した旧友が厨房に消えたのを確認すると、彼は手を揉みながら続けた。


「娘の気持ちもわからないではない。せめて高校3年間くらいは羽目を外したいというのは、自然な思いだろう。ただ、何事にも限度というものがある。そろそろお灸を据えなきゃいけないかもしれんな」


「あの、お父さん」しまった! と思ったのは、口にして1秒後だった。

「ん? 今、“お父さん”と言ったか?」


「すみません、つい」俺は咳払いして「大目に見てあげてください」と素早く言葉を継いだ。「今しかできない冒険があるんですよ、きっと」


「冒険、と来たか。小便臭くて、私の嫌いな言葉だ」


 あなたの娘さんは大の冒険好きですがね、と内心でつぶやいた。


「君、好きな女はいるのか?」

「はい」と俺は正直に答えた。


「君らくらいの頃は毎日が恋の季節でもあるからな。それで言うと、うちの娘にも、好きな男がいるんだろうか?」

「どうでしょう?」


「いるんだろうな」と彼は言って額に手を当てた。そして酒を飲んだ。「じゃなきゃ、あんなに素行が悪くなるはずがない。まったく、女の子の父親になんぞ、なるものじゃないな」


 俺は徳利から猪口に酒を注いでやった。


「なんだか、相談というよりはただの愚痴になってしまったな」


「かまいませんよ」と俺はやんわり言った。「誰かに相談をした時点で問題の八割は解決している、という人もいますし」


「小生意気な高校生だ」と彼はうれしそうに言った。そしてウドの天ぷらを口に運んだ。「この調子だと、いつかあの子は、『結婚をやめさせてほしい』と言い出すんじゃなかろうか?」


「娘さんにそう言われたなら、結婚を取り消す可能性もあるんですか?」


「親馬鹿かもしれんが」高瀬父(仮)は目を細める。「あれは良く出来た娘なんだ。賢いし、多芸だし、心も優しい。小さい時は、いわゆる“パパっ子”でね。帰宅が遅い私を寝ないで待っては、テストの結果や何かの賞状を誇りに来たものだよ。それがもう、本当にかわいくてなぁ。酒を飲みながら娘の自慢話を聞くのが、日々の仕事に追われる私の唯一の楽しみだった。どんな疲れもストレスも、あの時間があれば吹っ飛んだものだ。そんな愛する娘を、惚れてもいない男の元に差し出すというのは……いくらそれが会社のためとはいえ……」


 苦渋の表情で酒を舐める彼を見て、この人も経営責任者である前に一人の子煩悩な父親なんだな、としみじみ感じていた。


 何はともあれ、俺のような身元不明の若者にこうして胸襟きょうきんを開いてくれるのは、ありがたいと思うべきだった。


「自信はないな」と彼は苦笑混じりに言って、鼻の頭を掻いた。「もし娘が本当に惚れている男を連れてきたとして、その男が私も認めざるを得ないほど立派な人間だとして、それでも『今更困るぞ』と言って結婚を押し通す自信が、私にはない。ははっ。社長失格だよ」


「それでいいじゃないですか。事情はいろいろあると思いますが、娘さんは、心から望む未来を手にすべきだと思いますよ」


「今度は未来、か。小便臭くて、やはり私の嫌いな言葉だ」


 社名を直接尋ねるのも野暮ったいので、試しに、深い意味はないですが、と前置きしたうえで、「料理が下手な女の子をどう思いますか?」と水を向けると「うちの娘がそれなんだ」と顔をしかめて返ってきたので、目の前の人が高瀬優里の父親だとさすがに断定してよかった。


「あれだけは家内に言って矯正させないと、嫁に出したら、我が家の名折れになってしまう」とこぼし、彼は酒の追加を俺に命じる。


 ♯ ♯ ♯


 高瀬父の視線が鋭さを帯びたのは、「君も付き合いなさい」と猪口ちょこをもう一杯用意され、俺が愛想笑いを浮かべた直後だった。


「君、今の顔――しばらくそうしていろ」


「はい?」指示の意図するところがわからず、きょとんとする。


「こら、動かすな」

「す、すみません」


「もう一度さっきのニヒルな愛想笑いをしろ。もっと目元を緩めて、頬は少しだけ膨らませる!」


 わけはわからないが俺は言われた通りにした。「こうですか?」


 彼の動きがぴたりと止まった。呼吸することすら忘れているかもしれない。数秒後、呪いが解かれたようにゆっくりと口が動いた。

「君のプライバシーに立ち入った質問をすることを、どうか許して欲しい」


「なんでしょう?」


「君の母親の名は、ひょっとすると『ゆきこさん』というのではないか?」


 動きが止まったのは、今度は俺の方だった。

 ――なぜ高瀬の父親が、俺の母親の名を知っているのだ?


「はい」と俺は認めた。

「旧姓は戸川とがわじゃないか? 戸川有希子」

 鳥肌が立っていた。「そうです」


「なんてことだ」彼は指先を眉間に押し当て、指と指の間から俺の顔をまじまじと見た。そしてこう言った。「ということはつまり、君のお父さんは、あまり大きな声では言えないが、その……」


「父のことまでご存じなんですか!?」目をみはらずにはいられなかった。


「知っている。神沢亨かんざわとおるだ。罪を犯し、今は塀の中で罰を受けている」


 一切の遠慮がないその物言いは、むしろ気が楽だ。


「おい真鍋まなべ!」と彼はマスターの名を大声で呼ぶ。「お前が雇っているこの若者は、有希子の息子だぞ!」


「なんだって!?」

 腹についた脂肪をゆさゆさ揺らしながら、マスターが厨房から駆けつけてきた。

「有希子って、あの戸川さんか!?」


「そうだ。まったく、お前の目は本当に節穴だな。なぜこれまで気付かなかった。よく見ればそっくりじゃないか。目元なんか特に有希子そのものだ」


 マスターは、菜箸さいばしを手にしたまま口をあんぐり開けて立ち尽くしている。「そうだったのかい」と言葉を捻り出すのがやっとだ。


「あの、もしかしてお二人は、母の同級生ですか?」

 可能性は、それくらいしか考えられなかった。


 高瀬父はうなずく。

「俺たちは高校三年間、ずっと同じクラスだった」


「こんな風貌でもな、一応鳴桜めいおう高校出身なんだぞ」

 マスターは嬉しそうに笑ったが、すぐに「いっけね」と額を叩き、厨房へ戻っていった。どうやら鍋を火にかけっぱなしだったらしい。


「どうだ、有希子は元気にしているか?」

 高瀬父は、母が家を出たことまでは知らないようだ。


「実は――」俺がそのむねを話すと、彼は「なるほど」と言って眉間を掻いた。

「遊ぶ金が欲しくて働いているわけではないみたいだな」


「あの、今僕は、母についての情報を集めているんです。恥ずかしながら、あの人のことはほとんど何も知らなくて。もしよろしければ、母の昔の話を聞かせていただけませんか?」


 高瀬父は、昔の記憶を思い返すように染みが広がる天井を見上げた。

「いいだろう。今夜は、特別な酒になりそうだ」

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