「鬼畜だ鬼畜」とマスターは言った。「
「私はこのバイト君と話しているんだ」と社長殿――高瀬父
ふん、と鼻息を残した旧友が厨房に消えたのを確認すると、彼は手を揉みながら続けた。
「娘の気持ちもわからないではない。せめて高校3年間くらいは羽目を外したいというのは、自然な思いだろう。ただ、何事にも限度というものがある。そろそろお灸を据えなきゃいけないかもしれんな」
「あの、お父さん」しまった! と思ったのは、口にして1秒後だった。
「ん? 今、“お父さん”と言ったか?」
「すみません、つい」俺は咳払いして「大目に見てあげてください」と素早く言葉を継いだ。「今しかできない冒険があるんですよ、きっと」
「冒険、と来たか。小便臭くて、私の嫌いな言葉だ」
あなたの娘さんは大の冒険好きですがね、と内心でつぶやいた。
「君、好きな女はいるのか?」
「はい」と俺は正直に答えた。
「君らくらいの頃は毎日が恋の季節でもあるからな。それで言うと、うちの娘にも、好きな男がいるんだろうか?」
「どうでしょう?」
「いるんだろうな」と彼は言って額に手を当てた。そして酒を飲んだ。「じゃなきゃ、あんなに素行が悪くなるはずがない。まったく、女の子の父親になんぞ、なるものじゃないな」
俺は徳利から猪口に酒を注いでやった。
「なんだか、相談というよりはただの愚痴になってしまったな」
「かまいませんよ」と俺はやんわり言った。「誰かに相談をした時点で問題の八割は解決している、という人もいますし」
「小生意気な高校生だ」と彼はうれしそうに言った。そしてウドの天ぷらを口に運んだ。「この調子だと、いつかあの子は、『結婚をやめさせてほしい』と言い出すんじゃなかろうか?」
「娘さんにそう言われたなら、結婚を取り消す可能性もあるんですか?」
「親馬鹿かもしれんが」高瀬父
苦渋の表情で酒を舐める彼を見て、この人も経営責任者である前に一人の子煩悩な父親なんだな、としみじみ感じていた。
何はともあれ、俺のような身元不明の若者にこうして
「自信はないな」と彼は苦笑混じりに言って、鼻の頭を掻いた。「もし娘が本当に惚れている男を連れてきたとして、その男が私も認めざるを得ないほど立派な人間だとして、それでも『今更困るぞ』と言って結婚を押し通す自信が、私にはない。ははっ。社長失格だよ」
「それでいいじゃないですか。事情はいろいろあると思いますが、娘さんは、心から望む未来を手にすべきだと思いますよ」
「今度は未来、か。小便臭くて、やはり私の嫌いな言葉だ」
社名を直接尋ねるのも野暮ったいので、試しに、深い意味はないですが、と前置きしたうえで、「料理が下手な女の子をどう思いますか?」と水を向けると「うちの娘がそれなんだ」と顔をしかめて返ってきたので、目の前の人が高瀬優里の父親だとさすがに断定してよかった。
「あれだけは家内に言って矯正させないと、嫁に出したら、我が家の名折れになってしまう」とこぼし、彼は酒の追加を俺に命じる。
♯ ♯ ♯
高瀬父の視線が鋭さを帯びたのは、「君も付き合いなさい」と
「君、今の顔――しばらくそうしていろ」
「はい?」指示の意図するところがわからず、きょとんとする。
「こら、動かすな」
「す、すみません」
「もう一度さっきのニヒルな愛想笑いをしろ。もっと目元を緩めて、頬は少しだけ膨らませる!」
わけはわからないが俺は言われた通りにした。「こうですか?」
彼の動きがぴたりと止まった。呼吸することすら忘れているかもしれない。数秒後、呪いが解かれたようにゆっくりと口が動いた。
「君のプライバシーに立ち入った質問をすることを、どうか許して欲しい」
「なんでしょう?」
「君の母親の名は、ひょっとすると『ゆきこさん』というのではないか?」
動きが止まったのは、今度は俺の方だった。
――なぜ高瀬の父親が、俺の母親の名を知っているのだ?
「はい」と俺は認めた。
「旧姓は
鳥肌が立っていた。「そうです」
「なんてことだ」彼は指先を眉間に押し当て、指と指の間から俺の顔をまじまじと見た。そしてこう言った。「ということはつまり、君のお父さんは、あまり大きな声では言えないが、その……」
「父のことまでご存じなんですか!?」目を
「知っている。
一切の遠慮がないその物言いは、むしろ気が楽だ。
「おい
「なんだって!?」
腹についた脂肪をゆさゆさ揺らしながら、マスターが厨房から駆けつけてきた。
「有希子って、あの戸川さんか!?」
「そうだ。まったく、お前の目は本当に節穴だな。なぜこれまで気付かなかった。よく見ればそっくりじゃないか。目元なんか特に有希子そのものだ」
マスターは、
「あの、もしかしてお二人は、母の同級生ですか?」
可能性は、それくらいしか考えられなかった。
高瀬父はうなずく。
「俺たちは高校三年間、ずっと同じクラスだった」
「こんな風貌でもな、一応
マスターは嬉しそうに笑ったが、すぐに「いっけね」と額を叩き、厨房へ戻っていった。どうやら鍋を火にかけっぱなしだったらしい。
「どうだ、有希子は元気にしているか?」
高瀬父は、母が家を出たことまでは知らないようだ。
「実は――」俺がその
「遊ぶ金が欲しくて働いているわけではないみたいだな」
「あの、今僕は、母についての情報を集めているんです。恥ずかしながら、あの人のことはほとんど何も知らなくて。もしよろしければ、母の昔の話を聞かせていただけませんか?」
高瀬父は、昔の記憶を思い返すように染みが広がる天井を見上げた。
「いいだろう。今夜は、特別な酒になりそうだ」