柏木に追いつかれた北向が逃げ場を失ったのは、神社の境内だった。
最後に日比野さんが息を切らしながら石段を登って現れ、月が照らす静かな聖域には、この一件の関係者が勢揃いすることとなった。
北向以上にバツが悪そうな顔をしているのは、星菜だ。当然だろう。太陽にすべてを知られることになったのだから。
共に動物園に行った俺と高瀬もこの場には居合わせているわけで、「もう何が何だかわからない」といった具合に肩をすぼめている。
何はともあれ、真っ先にすべきは北向を追及することだ。
「違うんだ、星菜!」
この期に及んで彼は、まだ
「これは罠なんだよ。こいつらに僕はハメられたんだ。ファミレスにいた野球帽のガキだって、彼らが事前に仕込んだに違いないって!」
「まだそんなこと言ってんの、アンタ?」
星菜よりも先に柏木が反応した。500メートル近くを全速力で走ってきたというのに、もう呼吸は整っている。
「こうなったら奥の手だね。優里、お姉さんの証言で、こいつにとどめを刺そう!」
高瀬は凛とうなずいて、皆の中心に進み出る。それからスマートフォンを操作して、秋の夜空にそれを
「こういうの、緊張するね。おほんおほん。えーとだな、北向とは、学園祭の実行委員会で一緒になったことがあってね。その時、男友達と『教育実習に行ったら、女子高生を食い放題だな』って笑いながら喋っていたのを聞いて、えらく不快だったのを覚えているよ。後でまわりに聞けば、あいつからのアプローチを拒んだら最後、
録音はそこまでだった。
高瀬は
「星菜ちゃん。あの人ね、プロのストーカーなんだよ」
ポケットから、例のオイルライターを取り出す。
「これに見覚えない? 私の部屋に落ちてたんだ。ピッキングを駆使して、女の子の部屋に上がり込んでいたわけ。きっとあなたも被害者」
星菜はしばらく直立不動で顔を強ばらせていたが、やがて月島の手からライターを奪い取ると、それを北向目がけて
金属製のライターは、北向の顔面へと導かれるように一直線に飛行する。
憐れな好色男は、咄嗟に両手で顔を覆ったため、左の手の甲に傷を受けることとなった。出血しはじめたのが、目を凝らさずとも確認できる。
皆の視線が北向に注がれる。
彼は痛がるでも傷を気にかけるでもなく、そのままの姿勢で立ち続けている。だから表情が全く読み取れない。嘆いているのか、反省しているのか、言い訳を考えているのか、それとも――。
気味の悪い沈黙が元より不気味な境内に漂い、風が強く吹いて、妖しく枝葉をざわめかせる。
俺たちが次に耳にしたのは、笑い声だった。北向はどういうわけか笑い始めたのだ。そして両手を顔からゆっくり下ろした。
「大人をからかうのも、いい加減にしろよ?」
誰もが、別人だ、と思ったはずだ。
彼は足元のオイルライターを拾って、続けた。
「
北向の使う一人称が変化した点に、
さいわい彼は思い出したように左手を撫でて、「この傷は痛いけどな」と自身をいたわることに意識を
「開き直るつもり?」と星菜が言った。「他の女の子を口説いていたのを、説明できてない!」
「お前みたいな小娘相手に本気になるわけないだろ!」と北向はすかさず言い返した。「星菜、お前だって、偉そうに俺を責められないだろう? お前が惹かれていたのは、俺じゃなく、俺の肩書きなんだから。お前にとって男っていうのは、自分を高めるための道具に過ぎないんだ。指輪やイヤリングと同じだ。良かったじゃないか。半年だけでも、顔の広い大学生のお兄さんと交際できて。背伸びして『自分は他の連中とは違う』ってアピールしたいお年頃だもんな」
「てめぇ!」ついに太陽が叫んだ。「どれだけ腐ってんだよ! そんな言い方ねぇだろ!」
北向は再びけらけら笑って、手を振った。
「たしかお前、葉山の坊ちゃんだよな。星菜からずっと聞かされていたよ。『中身がない男』ってな。でもお前たち、最近になって、また会うようになったらしいじゃないか。俺が知らないとでも思ってたか? さしずめ坊ちゃんはバンドが軌道に乗り出したもんで、星菜にとっては
「星菜のことをこれ以上悪く言うのだけは、やめろ!」
言うが早いか太陽は駆け出し、北向に掴み掛かった。
組んず
俺は自らの役割を果たすため、彼らの元へ近付いていく。
「殴れよ」北向は笑み混じりに言う。「葉山病院のお坊ちゃんに殴られるなら、それはもう、光栄の極みですよ。そのかわり院長先生
おそらく実際に殴られたとなれば、脅しでもかけて金をせしめる魂胆なのだろう。劣勢ではあっても北向は挑発的な眼差しを向ける。そして口は動く。
「お前たちみたいな青臭いガキが、世の中をわかった顔して、何を偉そうに正義ヅラしているんだか。さ、殴れよ、いくじなし。負け犬。中身のないカラッポ男!」
「それ以上、言うんじゃねぇ」太陽の拳は震えている。
「しょせん、いくら格好を付けようと、世間知らずのガキなんだよ」
北向は自分に酔ったように話し続ける。
「世界を一人で旅して回った話なんかしたら、すぐに瞳なんか輝かせちゃって。言葉は伝わらなくても各国に友達がいるんだよ、なんて言ったらもう神様扱いだよ。そういうの、お前たちみたいなガキは大好きだから。雰囲気だけでいいの。パッケージだけでいいの。だから俺が『はいどうぞ』って提供してやったんだ。ちょろいもんだよ」
ハハハ、という高らかな笑い声が静かな境内に広がる中、太陽は意を決したように拳を振り下ろした。北向の顔にではない。暖色の落ち葉が埋め尽くす地面に向けてだ。彼は言う。
「あんたさ、なんか勘違いしてるんじゃないのか?」
「ハァ?」
「一発あんたを殴ったくらいで、俺たちの気が済むわけないだろ」
「どういうことだよ?」
「悠介」太陽は顔をこちらに向けた。「
俺はうなずいて、スピーカーモードにしておいた通話中のスマホに声をかけた。
「篠田先生。お聞きになりましたか? これが北向の本性です」
「ああ」担任の篠田先生の声はとても重い。彼は、北向の指導教官でもある。「やんちゃを続けるお前たちにもいろいろと言いたいことはあるが、とりあえず今は北向だ。あの男の教師としての資質に問題があるということは、よくわかった」
北向の心の声を篠田教諭の耳に入れる。それが俺の任務だった。
「ひたむき先生。夢の終わり、ってことで」
柏木が、ちゃんちゃん、と軽快な効果音を言い添える。
「全部篠田先生に筒抜けだったんだよ」
俺は蒼白の表情に変わった北向にスマホを突き出した。
「あんたを懲らしめるためにはどうしたらいいか。青臭い俺たちなりに、知恵を絞った。警察に通報したところで決定的な証拠はないし、高校に報告したところできっとあんたは言葉巧みにお偉い方を丸め込んでしまう。そこで、こうして、あんたの口の軽さを利用することにしたんだ。得意になって聞かれてもいないことをべらべら喋る癖は、これを機に直すべきだな、北向」
言い終えると俺は、篠田先生に礼を言って通話を終えた。
「ガキを見くびったな」太陽が虚しく笑って、北向の体から腰を上げる。
「ご愁傷様」と月島が白い目で見てつぶやいた。
しばらくそのまま大の字で秋の星空を仰ぎ見ていた教育実習生は、唐突に意味をなさない言葉を連呼し、叫び、果てには笑った。笑って、それからまた
その狂気じみた姿を見ていると、実はナイフでも隠し持っていて暴れ回るのではないかと思い緊張したが、彼はひとしきり感情を発露させると、落葉の中から機敏に体を起こし、脇目も振らず境内から走り去っていった。
一人目の主役が退場したことで、自ずと注目は、もう一人の主役に集まることになる。
星菜だ。