月島は再来店というかたちを取って、ひとり窓際の席に腰掛けている。
俺たち後援部隊が陣取る席とは目と鼻の先ではるが、高い仕切りのおかげで、
それでも念のため、俺と高瀬、それから太陽と日比野さんはマスクをしている。
「なぁ悠介。本当に星菜は……」太陽がつぶやく。「いや、なんでもない。とにかく、ここに座っていれば、真実がわかるんだな?」
答えるより先に、日比野さんと目が合った。彼女は、深く顎を引いて、眉をひそめる。
「見守ろう」としか俺は言えなかった。
入店客を知らせる鈴が鳴り、俺たちは入り口に目をやる。
昼間には教室で日本経済の行く先を
リクルートスーツに身を包んだ、若くひたむきな教育実習生だ。
店内を見渡す北向に対し、月島は立ち上がって手を振る。俺にさえ見せたことのない澄みきった笑顔のおまけつきだから、「女はみんな役者だ」なんてことを思ってしまう。
「ごめんね、
月島の正面に着席し、北向がせわしなく言う。「なんでも好きな物を食べて」と、
「そんなにお腹は空いてないので」
メニューにある料理を片っ端から注文する、えげつない報復のやり方もあったけど、月島はそうはしなかった。
注文をとりに来た店員に北向は「カプチーノ」と告げ、月島は「同じものを」と続いた。
「いやぁ、ビックリしたなぁ。涼ちゃんから改まって『話がある』だなんて。教室でのクールな君からは、ちょっと想像できないよね」
「あの人、A組でも授業しているんだ?」
高瀬の問いかけに対し、月島と同じクラスの日比野さんはうなずいた。
「よく月島さんを当てるんですよ。気があるんじゃないかって、もっぱらの噂でした」
北向は言う。「で、話ってなんだろう。僕で良ければ、なんでも相談に乗るよ」
「実は」月島はしおれてうつむく。「私、ストーカーに狙われているんです」
電気ショックを受けたように北向の両肩がビクンと跳ねたのを、俺たちは見逃さなかった。
「そ、それはまた、大変だねぇ」
「私が留守の間に、家にまで上がり込んでいるみたいで」
「うわぁ、それマジ? 世の中にはどうしようもない奴がいるなぁ」
「ひとり暮らしって、危ないですね」
「涼ちゃんはひとり暮らしなんだ? 女の子の弱みにつけ込むなんて、最低の男だね」
先ほどから“過去10年で聞いたもっとも白々しい台詞ランキング”の1位が更新され続けている。
「そこで北向先生にお願いがあるんです」
月島は顔を上げた。神秘的な瞳は潤いを
「今晩、これから、一緒にうちに来てくれませんか」
一旦は前傾姿勢になった北向だったが、そこへちょうどカプチーノが運ばれてきて、わざとらしい咳払いをひとつする。店員が去って、カップに口を付けてから、彼は言った。
「涼ちゃん。そういうのはマズイって。ほら、僕たちはあくまでも教育実習生と生徒なわけだから」
間髪を容れず「北向先生しかいないんです」と月島は返した。「私には、頼れる人は、北向先生しかいないんです」
それは俺も折れた、必中の殺し文句だった。
ひたむきな男は「ふぅ」と一息ついて押し黙った。自分にかけられた言葉の
月島は言った。「最近、恐怖で夜も眠れなくて。お願いします、先生。できれば、泊まっていってくれると助かるなって」
北向はこめかみを
「涼ちゃん。僕は比較的真面目な人間なんだ。こんな時間にひとり暮らしの女の子の部屋に上がるっていうのは、いくらなんでも良心が痛んじゃうんだよ。どんな理由があろうとね」
「お?」つい、口から漏れていた。無罪放免とは言わないまでも、これは情状酌量の余地ありか? 一瞬でもそう思った俺が馬鹿だった。
「ただね」と北向は続けた。「その女の子が、自分にとって大切な人であれば、話は別だ」
「大切な人?」
月島は、じっと北向の目を覗き込む。心では、しめしめと思っているはずだ。よし食い付いてきたぞ、と
「そうさ」北向はテーブルの上で両手を組み合わせた。「大切な人が困っているのに、放っておけるわけがないだろう。月島涼さん。この秋に鳴桜高校で一目見たその時から、君からは強い何かを感じていたんだよ」
マスクの上からでも、高瀬の口元に苦笑が浮かんでいるのがわかる。
彼女の裏に座る野球帽の少年が北向と月島の会話に耳をそばだてていて、母親にこっぴどく注意された。
北向は言った。
「この出会いは、“運命”なのかもしれない」
それを聞いた月島は、すっと視線をフロアに落とし、小さな肩を小刻みに震わせ始めた。どうやら笑うのを堪えている。まさか運命という言葉が北向の口から出てくるとは予測できなかったらしい。
「どうしたんだい? 寒いのかい?」
月島は首を振った。
「先生にそんな風に思われていたなんて、うれしくて。もう、なんて言えばいいか……」
彼女が両手で顔を覆ったのは、涙ではなく笑みを隠すためだろう。
北向はカプチーノを時間をかけて飲んで、うんうん、と彼女の心情を
平静さを取り戻したのか、月島は顔を上げ、前髪を手で整えた。そして「先生には恋人はいないんですか?」と質問を投げかけた。それを尋ねるまでが、彼女の役割だった。
北向がもしここで回答に少しでも悩めば彼にもかわいげがあるというものだったけど、この男は即答したから、いよいよ救いようがなかった。
「恋人? いないよ」
「そうなんですか」
これまでの応対が嘘のように、にべもなく月島は返した。そしてこっちをちらりと見やった。次の段階へ進む準備は完了した、ということだ。
俺はスマホから柏木に連絡を入れる。彼女は今、隣にあるコンビニでスタンバイしている。ある人物と一緒に。
「出番だぞ」
「オッケー」と柏木は魂のこもった声を出した。
ほどなくして高瀬がレストランの受付を指さした。
「来たみたいだよ」
柏木は
星菜からすれば、「自校生のフリをした謎の侵入者」に理由もわからず呼び出されたわけで、
店員の案内を断り、柏木と星菜がこちらへ近付いてくる。
北向はそれに気付かずに、同じ屋根の下で三世代が共に暮らすことの重要性を説いている。月島に対してそれを話すのは、まさしく
「あれぇ?」と柏木がわざとらしく声を出した。「北向先生じゃないですか!」
北向の顔色の変化を信号機で例えるならば、この時点で青から黄に変わり、それから
「これ、どういうこと!?」
柏木の背後から、怒髪天を衝くばかりの勢いで星菜が北向に詰め寄った。何事だ、とあたりが騒がしくなる。
「この娘だれ? ここでふたりきりで何してるわけ!?」
「星菜、これは、えっと」
北向は星菜と月島の顔を交互に見やった。
「生徒に相談を受けていたんだよ。ほら、忘れないでくれ、僕は今、教育実習生でもあるわけで」
「この人、誰ですか?」
台本にはなかったけど、不快そうな顔で月島が言った。北向はそれに答えられない。答えられるわけがない。そして当然、星菜の怒りは増幅する。
「どうして何も言わないの!? 『カノジョだ』って、なんで、言えないの!?」
隣を見るのは勇気を要したけれど、見ないわけにもいかなかった。
ゆっくり視線を移せば、太陽の二つの瞳からは、光という光が消えていた。「陽ちゃん……」とだけ、日比野さんがつぶやく。
「えぇ?」月島は大袈裟に首を傾げる。「先生、さっき『恋人はいない』って言っていましたよね?」
北向は他の誰よりも慌てて「落ち着こう、みんな」と言った。落ち着くべきは自分自身だった。
もちろん月島の頭に容赦という言葉はない。
「私との出会いは運命だって、そう、言ってくれたじゃないですか。私のことを『大切な人』だとも」
「口説いていたわけだ」と星菜は言った。「ショートカットのアナタ。私、この人と話があるから、消えてくれない?」
「いやだ」と月島は返した。「だって先生はこれから、うちに泊まりに来るんだから」
「はぁ!? もう、意味わかんない! カイト、ちゃんと説明してよ!」
北向
「星菜、聞いてくれ。この娘は、僕のストーカーなんだよ! 思い込みが激しくて、学校でちょっと優しくしたら、勘違いしちゃったらしくてさ。こっちは大変だよ、もう。ははは……」
「嘘だ!」と北向の妄言を告発したのは、思いも寄らない人物だった。
声の主は、高瀬の裏でずっと聞き耳を立てていた例の野球帽の少年だ。彼は勇ましく立ち上がり、指を突き出す。
「そのお兄ちゃん、嘘ついてるよ! オレはずっと聞いていたんだから! 本当のことを言ってるのは、冷たそうな髪の短いお姉さんの方だよ!」
少年は母親に再度叱られ、北向は固まり、星菜は頬を紅潮させた。ただ一人、冷たそうなお姉さんだけは、薄ら笑いを浮かべている。
事態を静観していた柏木が、ここぞとばかりに歩み出て口を開いた。
「先生! この前は焼肉、ご馳走さまでした! コスメもケーキもうれしかった! よかったら、また誘ってくださいね!」
星菜は北向を問い詰めるための言葉が尽きたようだった。柏木は続ける。
「ただし、今度は、交際の申し込みは無しの方向でお願いしまーす!」
その後の北向の行動といえば、きわめて迅速だった。
彼はバッグを手に取り立ち上がると、柏木と星菜の間を
もちろんそうなるのも、想定の範囲内だ。
「待ちなさいよ、カイト!」
真っ先に星菜が後を追い掛けていく。
「俺たちも行こう!」
あらかじめ用意してあった六人分のドリンクとマルゲリータの代金を握りしめ、駆け出す。
北向にも無銭飲食はマズイという認識はあったようで、財布から万札を取り出すと、景気よくレジカウンターに叩き付け、外へ走り去った。ずいぶんと値の張るカプチーノになったようだ。
目を丸くしているレジの店員に「すみません」と俺は早口で詫び、伝票と代金を渡した。「釣りは出ないはずです」
店を出て、とにかく、走る。他の面々も、同様だ。
北向が登下校に車を使用していないことを俺たちは把握していたし、このレストランは幹線道路から離れた場所に立地しているため、タクシーやバスを拾うことも難しい。
彼を追い詰めるための舞台としては、うってつけだったというわけだ。
「悠介。アイツ、速いよ」隣で駆ける柏木が言った。「走り方でわかる」
「逃げられちまうかな?」
「大丈夫!」彼女は拳を握る。「こんなこともあろうかと、今夜はオシャレを封印してスニーカーを履いてきたんだから。100メートル12秒台のあたしの脚力を見せる時が来たみたいね。じゃ、ちょっくら、本気出しまぁす!」
そう言い残すと柏木は、躍動するフォームでアスファルトを蹴り、またたく間に俺の視界から遠ざかっていった。
「柏木ってさ、便利だよね」
後方から追いついてきた月島がぼそっと漏らす。
「かゆいところに手が届くって感じ」
「敵に回さないようにしないと」
柏木に限らず、女を怒らせると本当に恐いというのが、この秋に俺が学んだことだ。