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第25話 幾度となくその温もりに包まれたならば 4


 おごるだけでは面白くないので、俺もラーメンを食べることにした。


「晴香ちゃん、まいど!」と、土管の中に威勢の良い声が響いた時はさすがに吹き出しそうになったが、とにかく、味は上等だった。


 中太のちぢれ麺に豚骨ベースの濃厚なスープがよく絡み、チャーシューやメンマといった脇役も良い感じに存在感を発揮していた。


 俺が選んだ味噌味は隠し味のニンニクがほどよくいていて、寒空の下で体を温めるにはもってこいのラーメンだった。


 夜中に公園の土管の中で三人の女の子がラーメンをすする光景は奇々怪々で、非現実的で、滑稽こっけいで、俺は一体何をやっているんだろう? と首を傾げもしたが、立ちのぼる湯気で暖を取り、一杯のどんぶりに舌鼓したつづみを打つ彼女たちの感謝の言葉を聞けば、悪い気はしなかった。


 もうしばらくは身銭を切らないぞ、と自分に言い聞かせてもいたが。



「愛って、何?」

 柏木がチャーシューを箸でつまみながら口にした。例によって唐突だった。


「まーた変なこと言い出した」

 月島が皆の思いを代弁してくれる。


「いやほら、前に日比野ひびのさんが言っていたじゃない。『葉山君のことを愛しています』って。あれ以来、ふとした時に、考えちゃうんだよね。『人を愛するって、どういうこと?』って」


 高瀬はにこにこする。「晴香って、意外と哲学者っぽいところがあるよね」


「世の中にはさ、『愛』って言葉が溢れてるでしょ? でもさ、みんな、その意味をちゃんと考えて使ってんの? なんかさ、案外テキトーなんじゃないの?」


「すごーい」と月島は無感動な声を出した。「私たち、日曜の夜に公園の土管でラーメン食べながら『愛』の話をするらしい」


 男女間の愛をコインの表だとするならば、その裏側について疑問を抱いているお前も柏木とそんなに変わらないんだぞ月島、と意地悪な横槍も思い浮かんだが、もちろん口には出さない。


「そこの悩める少年」柏木は箸をこちらに向ける。「愛って、なに? 5秒以内に答えよ」

 麺が喉に詰まってむせた。「答えられるか!」


「じゃあ10秒。はい、どうぞ」

「時間の問題じゃない」


 回答によっては、高校卒業まで語り継がれるような赤っ恥をかきかねない。わざわざ彼女たちに俺をちくりとやる材料を与える必要もないだろう。


 ここは、我関せずが吉だ。

「それにしても、星菜は帰ってこないな」


「逃げたな」と柏木が言って、「逃げたね」と月島が続いた。


 けっこうけっこう。なんとでも言えばいい。


 しばらく麺をすする音だけが土管内を満たした後で、参考になるかどうかわかんないけどと言ったのは月島だ。「うちの祖父母の話をしてあげよっか」


 すぐに頭で、東京の下町にて来る日も来る日もせんべいを焼き続けるおじいさんと、それを支えるおばあさんをイメージした。


「はい聴きましょう」と柏木が興味を示した。


 それを受けて月島は語り始めた。

「私のじいさん、決して悪い人ではないんだが――孫としては言いにくいんだが――尋常じゃなく女癖が悪くてね。若い頃から何度もよそに女を作っては、その都度ばあさんを困らせていたらしいの」


 英雄色を好む、という言葉が思い出された。


 “名誉都民”という称号を持つ彼女のおじいさんは、地方都市で未来に困難を抱えた一高校生からすれば、充分、英雄だ。


「ばあさんが私のママを妊娠中、入院していた産婦人科の看護婦さんにじいさんがちょっかいを出したと知った時には、さすがに『殺してやろう』と思ったみたいで、調理室から包丁を持ち出して病院内を追っかけ回したこともあったんだって。もちろん止められて、事なきを得たわけだけど」


「あたしが同じ目に遭ったら、絶対刺すけどね」

 柏木の視線は、あろうことかこちらに向いている。


「でも今も一緒に暮らしてるんだよね?」


 その高瀬の問いに月島はうなずいた。


「信じられないくらい仲は良いよ。一回ね、ばあさんに聞いたことがあるの。『なんでじいさんの浮気を許してきたの?』って。返ってきたのは、『ずっとしたわしく想っていた人だから』という答えだった。結婚する前からじいさんに憧れていたんだって。『もう一度生まれ変わってもまた一緒になりたい』とまで言っちゃうんだから、これは愛って言っちゃっても言いすぎじゃないよね」


「それはすごい」と高瀬が目を見開いて言った。「『生まれ変わってもまた一緒に』って、その想いは、本物だ」


「愛とは、許すこと?」柏木はに落ちないようだ。「でもそれって、なんか寂しくない? そりゃあ想われてる側のおじいさんはいいかもしれないけど、おばあさんはさぞかし大変な人生だったでしょうよ。愛って、もっと、人を楽にするものじゃないの?」


「ことさら昔気質むかしかたぎな人たちだから、私の祖父母は」

 月島は整った眉を曲げた。

「若い私たちとは、感覚が違って当然」


「難しいなぁ、もう」

 柏木はやけを起こしたようにラーメンをかっ込む。そして、むせる。


 ふうふう、と煮卵を冷ましていた高瀬は、何かに思い当たったような顔で口を開いた。

「ひとつ言えるのは、愛には時間が必要ってことだよね」


「どういうこと?」柏木が箸を休めた。


「たとえばね、昨日今日会ったばかりの男の人に、『晴香ちゃん、愛しています』って言われて、晴香はそれを信じる?」


「信じるわけないでしょ。そんなに簡単に『愛』を使っちゃう軽薄男、股間を蹴っ飛ばして再起不能にしてやる」


 高瀬は大人の対応で笑ってそれを受け流した。

「だよね。でもね、10年近く葉山君のことを想い続けている日比野さんが言うなら、誰もそれを疑わないじゃない? 月島さんのおばあさんなんか、もっともっと長いわけで。恋で始まって、それが愛に変わるには、時間が要るんだよ。きっと」


 愛の説法が染みた煮卵は、ようやく高瀬の口に運ばれた。


 柏木は唸った。「恋でも愛でもさ、人を想うってことは、つらいことなのかもね」


「少なくとも、楽なことばかりではないだろう」

 先ほどの柏木の意見をそれとなくたしなめるように、月島が応じた。


「つらくて痛いことだよ」と高瀬は言った。「人を想うってことは、大きな何かを背負うっていうことなんだよ」


 俺は無心でラーメンをすする。

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